世なおし倶楽部

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龍馬と竜馬 漁夫の利

2010-03-27 01:13:15 | 哲学/ヨガ/芸術/宗教/政治経済
竜馬」は司馬遼太郎のフィクション用創作ネームでした。龍馬が戸籍上の名前です。当時に正確な戸籍があったかどうかは知りませんが、龍馬が本名に違いないようです。

ちょっとスッキリしました。

さて、文武両道使いだったのは本当のようで、いつの時代でも、できるやつは居るもので、そういうやつに限って、おまけにイケメンだったりするのです。龍馬はそういう二物、三物のそろった逸物であったのだろう。いろいろな場面で引き立てられていた。今の時代ならどんな人物になっていたのか想像するのも面白い。
 結局は幕末の激動変革期においては侍の掟が単なる人斬りだけになってしまい、天才龍馬はある筋から煙たがられて消されてしまうことになるのです。
 秀才というより天才だったのでしょう。人の感性にひびく魅力もっていたように思います。金銭的損得にも疎い部分を感じます。

秀才は抜け目ないように感じます。天才はどこか抜けています。

龍馬は女性に助けられて、日本国内を駆け巡っていたようです。イケメンで文武両道、さらに両党使い。両刀使いでも可。

生かしておいては、邪魔に感じた秀才らの手にかかって天才龍馬は消えた。花のままで散ってしまったのが、さらに龍馬を美化しヒーローに仕立ててゆくことになります。

33歳のこれからと云うときに消えたのもヒーローになる重大要素だったのかもしれません。長生きすれば、醜態をさらす機会も増えます。後の世で勝手に思い込む幻想的ヒーローに欠点があってはならないのです。しかし、当時直接なまの天才龍馬に接したなまの関係者には、欠点も愛嬌になるのです。当時だけに限らないでしょう。いつの時代にでも、なまでの印象は「総合判断 直感」が生きています。なまが一番!

音楽も生に敵いません!

現在に過去の出来事を正確に判断することの難しさを認識した上で判断することを心掛けたいと思います。


漁夫の利=商売の原点思想
子供の時、「商売」のずるさを感じたものですが、それではいけないと、自ら「米屋」などして商売を体験しています。他人の「困っている問題を解決して、その代償として金銭等を受け取り生業とする=商売」との認識でなんとか理屈を合わせています。現在では利ざやを理不尽に、高額に収得するスタイルでの商売が横行し、市民権を得てでかい顔をしていますが、限度があろうと思いますので、早々に破綻する仕組みであろうと思われます。
金で金を生むような商売=経済は自然現象からは程遠く「人間の叡智」によって淘汰しなければならない問題です。
龍馬は、それなりの時代でもあり若気の至りで、武力による国家安定を容認したまま近代日本を夢想していた。また西洋列強の正義のうらを見抜けなかったようです。甘いとしか云い様がありません。

ところで、西洋商人=政治+経済のウラを理解した、欲に目覚めた幕末の新人類(龍馬を疎ましく思っていた者)たちは、目ざとく「商売のこつ」を修得したのだろう。列強に逆らうことなく取り入って、優秀で大儀に弱い日本の無辜の民を手なずけ、近代日本を作り上げてきました。今を生きるわれわれの多くは、西洋列強およびアメリカに魂を売り見せ掛けの西洋文明にあやかり、幻想的しあわせを享受しています。
龍馬の薄目は、そのことを予見し憂いていたのだろうかと思いたい・・・

アメリカにかぎらず、商売は「漁夫の利」稼ぎの要素が強いものです。しっかりした自然哲学を以ってほどほどの節度を保てなければ、人間は商売に魂をうばわれ、真の豊かなる生活の実現は無いでしょう。
敵味方を「商売のテクニック」として意図的につくり、両方に「殺しの武器」を売り利益を得る、これがアメリカ式マッチポンプ商法です。漁夫の利を得るための、常套手段です。

なにが真実かの哲学をしっかり踏まえていれば、暴力的な理不尽な経済システムに翻弄されない生き方が見えてきます。

龍馬が描いた貿易は「フェアトレード 公平な貿易」であったと思いたい。そして、人間同士が敵味方にならない社会を実現したいものです。真の敵は「他人を無視する自分」であることを無辜の民に知ってもらいたい。

          

 列強文化と江戸文化の違いをリアルタイムで感じていた龍馬の心中如何に・・・

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