娘が自分のプロジェクトの偉人にレイチェル・カーソンを選んだと知り、オットはむつかしい顔。理由を紐解いてみると、その功績がゆえに、数多くの人たちがマラリヤで亡くなったらしい。
カーソンについてまったく知らなかった私は、ウィキペディアの説明を読み、なるほどと納得。
(以下、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3より抜粋)
幼少時は作家を志していたが、学生生活を経てアメリカ連邦漁業局に勤務。1941年『潮風の下で』、1951年『海辺』、1962年『沈黙の春』等の作品を発表。当時まだ顕在化していなかった、州当局によるDDTなどの合成化学物質の散布の蓄積が環境悪化を招くこと等の啓蒙活動に取り組んだ。
特に『沈黙の春』は、農薬類の問題を告発した書としてこれを読んだケネディ大統領が強く関心を示し、大統領諮問機関に調査を命じた。これを受けアメリカ委員会は、1963年農薬の環境破壊に関する情報公開を怠った政府の責任を厳しく追及。DDTの使用は以降全面的に禁止され、環境保護を支持する大きな運動が世界的に広がった。
ただし後の研究では、「DDTの危険性」には疑問の余地もあり、その禁止によりマラリア患者激増という事態を引き起こしたとされる。
『沈黙の春』の執筆中に癌宣告を受け、病と戦いながらの執筆活動であったが、1964年4月14日に癌により死去。
DDT禁止に関する議論 [編集]
カーソンは特にアメリカの保守層から批判を受けているが、特に標的となったのがDDT禁止問題である。この問題については1980年代にレーガン、ブッシュ(父)と続いた共和党政権時代から政治学者チャールズ・ルービン(Charles Rubin)らによって継続的にカーソンへの批判がなされてきたが、2000年代に入ると「カーソンがDDTの禁止を主張しなければ何百万人ものマラリア患者が死なずに済んだ」という論法で、カーソン個人がそれらの死について責任を負うべきであるという批判がなされるようになった。加えて2006年にWHOがマラリア予防の方法として、年に1度、住居の壁面にDDTを塗布する使用法を推奨したこともあり、カーソンのDDT批判は完全に的はずれだったという主張もなされている。
一方、こうした批判に対しカーソンの伝記を執筆したライト(Mark Hamilton Lytle)は、たしかにDDT禁止に関する世界的な論議の中でカーソンが果たした役割は大きかったにせよ、様々な公衆衛生上の問題が複雑に絡み合っていたアフリカの状況を考えると、DDT禁止によるマラリアの蔓延が数百万人を殺したという表現には大幅な誇張がある上に[1]、カーソン自身、DDTの完全禁止を主張したことは一度も無いと指摘している[2]。
なお、DDTの使用は残留性有機汚染物質に関するストックホルム条約において、マラリア対策用としてのみ使用可能とされたが、これに関し Malaria Foundation International(MFI)のアミール・アタラン(Amir Attaran)(オタワ大教授、法学)は、かつてDDTの農薬としての使用が禁止されたことは、マラリア対策という面では明らかに効果的であった(耐性を持つ蚊の増加を抑えることが出来た為)と評価している[3]。
また、DDTはその後の研究で発ガン性こそ疑問視されるようになったものの、環境汚染物質であることは疑い無いもので、その農薬としての大量散布が北米における猛禽類の大幅な減少(卵の殻が薄くなるなどの理由による)を招いた。また農薬として使われれば甲殻類や多くの魚種を殺してしまうことも知られている。
カーソンについてまったく知らなかった私は、ウィキペディアの説明を読み、なるほどと納得。
(以下、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3より抜粋)
幼少時は作家を志していたが、学生生活を経てアメリカ連邦漁業局に勤務。1941年『潮風の下で』、1951年『海辺』、1962年『沈黙の春』等の作品を発表。当時まだ顕在化していなかった、州当局によるDDTなどの合成化学物質の散布の蓄積が環境悪化を招くこと等の啓蒙活動に取り組んだ。
特に『沈黙の春』は、農薬類の問題を告発した書としてこれを読んだケネディ大統領が強く関心を示し、大統領諮問機関に調査を命じた。これを受けアメリカ委員会は、1963年農薬の環境破壊に関する情報公開を怠った政府の責任を厳しく追及。DDTの使用は以降全面的に禁止され、環境保護を支持する大きな運動が世界的に広がった。
ただし後の研究では、「DDTの危険性」には疑問の余地もあり、その禁止によりマラリア患者激増という事態を引き起こしたとされる。
『沈黙の春』の執筆中に癌宣告を受け、病と戦いながらの執筆活動であったが、1964年4月14日に癌により死去。
DDT禁止に関する議論 [編集]
カーソンは特にアメリカの保守層から批判を受けているが、特に標的となったのがDDT禁止問題である。この問題については1980年代にレーガン、ブッシュ(父)と続いた共和党政権時代から政治学者チャールズ・ルービン(Charles Rubin)らによって継続的にカーソンへの批判がなされてきたが、2000年代に入ると「カーソンがDDTの禁止を主張しなければ何百万人ものマラリア患者が死なずに済んだ」という論法で、カーソン個人がそれらの死について責任を負うべきであるという批判がなされるようになった。加えて2006年にWHOがマラリア予防の方法として、年に1度、住居の壁面にDDTを塗布する使用法を推奨したこともあり、カーソンのDDT批判は完全に的はずれだったという主張もなされている。
一方、こうした批判に対しカーソンの伝記を執筆したライト(Mark Hamilton Lytle)は、たしかにDDT禁止に関する世界的な論議の中でカーソンが果たした役割は大きかったにせよ、様々な公衆衛生上の問題が複雑に絡み合っていたアフリカの状況を考えると、DDT禁止によるマラリアの蔓延が数百万人を殺したという表現には大幅な誇張がある上に[1]、カーソン自身、DDTの完全禁止を主張したことは一度も無いと指摘している[2]。
なお、DDTの使用は残留性有機汚染物質に関するストックホルム条約において、マラリア対策用としてのみ使用可能とされたが、これに関し Malaria Foundation International(MFI)のアミール・アタラン(Amir Attaran)(オタワ大教授、法学)は、かつてDDTの農薬としての使用が禁止されたことは、マラリア対策という面では明らかに効果的であった(耐性を持つ蚊の増加を抑えることが出来た為)と評価している[3]。
また、DDTはその後の研究で発ガン性こそ疑問視されるようになったものの、環境汚染物質であることは疑い無いもので、その農薬としての大量散布が北米における猛禽類の大幅な減少(卵の殻が薄くなるなどの理由による)を招いた。また農薬として使われれば甲殻類や多くの魚種を殺してしまうことも知られている。