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学生時代に学んだ歴史と全く変わった日本の古代史、今蘇る日本の縄文文明を纏めてみた、Part I

2024年05月29日 | 歴史の考察

45億年前に誕生した地球の歴史は、昔興味本位で観た1968年に上映された今から65年前映画「2001年宇宙の旅」のアーサー・C・クラーク(Sir Arthur Charles Clarke)の映画を思い出す。テーマ曲も衝撃的なニーチェが説いた"超人"の思想を寓話的に描いた哲学書の「ツァラトゥストラかく語りき」は衝撃的であり今も映像と共に記憶に残る曲でもある、又アーサー・C・クラークはイギリス出身のSF作家。20世紀を代表するSF作家の一人であり、科学解説者としても知られている筆者も若い頃「人間に未来はあるか」も読んだが中々興味ある内容と記憶する。

最近ホモ・サピエンス全史なる上、下巻の本が発売されてますが、これが実に驚きの連続であり興味のある方はご覧ください。面白い内容は何故肉食動物は食後ダラダラする時間が必要であるのかの秘密であり、人類誕生の250万年前は猿人も動物同様であり200万年程は他の動物同樣にその生活を続けるのであるが、勿論ヒト族も火を使うまでは肉食動物同様随分長い間、一日中ダラダラした暮らしていたそうである。食物を火によって焼いたり、煮炊きする様になり腸が長さが極端に短くなり消化が劇的に早くなル、又行動時間が著しく増したのである。

それと此のホモサピエンス族だけは認知革命(嘘を信じる)を起こして又他のヒト族違い匂いには敏感な種族で多くのヒト族を滅ぼしホモサピエンス族は残り僅か我々の中にはネアンデルタール人およびデニソワ人由来のDNAが残り当初は交配もしていた事が証明される。特にネアンデルタール人は脳の大きさ、腕力は勝りホモサピエンスが不利であったが「認知革命」により圧倒的に団結力が優った。認知革命は、認知科学と呼ばれる諸学問を生み出した、1950年代に始まった知的運動の総称。 学際的な連携と研究が大規模に進行する現代的文脈の中で始まった動きである。
本編は認知革命の説明をしているが、簡単に説明すると「嘘」が言える様になった事と解いている例えば現在の宗教、国家、お金(紙幣)は絶対的な価値は無く、皆で決めた価値観なのである。一番興味深い事は現在は紙を印刷し、此れをお金の代用品としているが、これは実際は確かに紙であり紙の価値しかない物を虚構と言う噂により流通させたのがヒト族「嘘」の恐ろしい所でもある。正に噂を信じて団結させた社会こそがサピエンス族の頂点になれた認知革命の話でもある。因みにネアンデルタール人は1万2千年前に絶滅しているそうです。



2001年宇宙の旅本編では、太古の昔1匹のヒトザルは、謎の石をきっかけに武器を使うことを覚え、生物の頂点に君臨する。時は過ぎ、人類が宇宙を旅する時代。米国のある博士は謎の石の調査のため月へ赴く。やがて調査が進む中、石は木星に向けて移動し木星から信号を発する。
勿論此のストーリーはミステリーに富んだ人間の歴史の物語でもあった、しかし我々がホモサピエンスと想像すれば出土したのはアフリカであるがヒトザルが樹木から地上に降りた時代には緑豊で食物の豊富であったのであろう・・・当然当時のアフリカは砂漠ではなく森林が広がる世界であったであろう、食物が豊富にあることは生きる為には最低条件でもある。
ヒトザル達は現在の欧州に行くもの、エジプト方面に行くもの、インドを目指すものと色々他方に暮らし易い所に向かった。
ヒトザル達は先ずは火を使う事を覚え、食料、語源、信仰と追求であろう、ヒトザルからホモサピエンスが永遠と感じたものは信仰心の永遠の太陽であったのであろう・・・アフリカで新しい生命となったホモサピエンスは太陽の昇方角に超生命体を感じたホモサピエンスが東を目指したのであろう。

勿論仮説であるが、これがホモ・サピエンス族は認知革命を信じた者たちが極東を目指したその道中に色々な種族と交わり極東にたどり着けやがて定住し縄文時代の幕開けなのであろう、当然或程度の航海技術を持っていないと台湾付近の黒潮の強い流れを克服できないからである。



これは欧州全体から地図を見れば日出るくには日の元であろう。その先は太平洋の海が広がる島であった。日本のルーツを歴史書等を紐解き幾ら読んでも答えは出ないのである。それでは筆者が考える倭人のルーツを推理しある程度納得できる様纏めてみる事にした。
勿論市の図書館にも通い、色々な本を見ながら参考記事の収集、インターネットによる検索、此処2〜3年に行った博物館、青森の三内丸山遺跡等を参考にした、何か学生に戻った様に感じた、A4のコピー用紙をメモ用紙に参考文献等は記載する、後日その記事を見ながらキーボードに打ち込み記事内容を書き込みした。計画とは意外と時間が必要であり久し振り漢字を書く行為は可成り下手な文字になっていた(笑)
下の写真がメモ用紙である、何と学生時代の比べ文字の大きさも大きく年代を考えるは算盤が有利である。



日本人もアフリカから来たのであろうか?或いはジャワ原人の様に何処かのアジア諸国から来たのかは最新のテクノロジーDNA解析で判明するがかなり特色は違えどアフリカ方面から混血種と変貌し現在の日本人となったと言われるルーツが一番正しい様である。

理化学研究所資料提供でゲノム解析資料も掲載(日本人集団の遺伝的構造、ネアンデルタール人およびデニソワ人由来のDNAと病気の関連性、そしてゲノムの自然選択が影響を及ぼしている領域を複数発見しました。日本人の祖先に関わる三つの源流(縄文系祖先、関西系祖先、東北系祖先)の起源を明らかにしました。また、現生人類(ホモ・サピエンス)の最も近縁とされる古代型人類ネアンデルタール人やデニソワ人から受け継いだ遺伝子領域を特定しました。一部の日本人が持つNKX6-1遺伝子領域は、2型糖尿病リスクと関連しており、この領域がデニソワ人由来であることが明らかになりました。さらに、日本人の遺伝子における自然選択が作用している領域も同定しました。)
以上の様な解析書があり日本の土壌は弱アルカリ性の為人骨はほとんど溶けて無くなっているが、偶に貝塚に埋められた人骨が発見される程度である。日本の縄文文化は1万4,000年続く歴史と現在日本国地には14,000件以上の古墳は見つかっており数も世界各国と比べ異常な程多いと言われる。長く続いた縄文の歴史を数枚の容姿に表すことは所詮無理な話であるが、興味本位にまとめて見た。



不思議なことに日本全国の遺跡は圧倒的に関東以北が多く、一般的に考えれば暖かな南が暮らしやすいと思うが、当時怒った大被害があった、その後、1,000年近くは無人の地となったようです。

縄文時代の中の最大の事件である、南九州での遺跡は上野原遺跡から判明する鬼界アカホヤ火山爆発の事実。「鬼界カルデラ」は、北西∼南東の長さが約25㎞、北東∼ 南西が約15㎞の楕円形をしていて、複数の巨大噴火によって形成された、いくつかの カルデラが複合してできたものと考えられています。

鹿児島県霧島市の高台にある縄文時代から弥生時代を中心とした複合遺跡。 特に,北側(第4工区)では,約10,600年前(縄文時代早期前葉)の竪穴住居跡などが発見され,「国内最古,最大級の定住化した集落跡」であることがわかりました。



発掘調査では17層の土層について調査され、1層目から9層目までの範囲で遺跡が確認された。 
 1層目: 桜島の火山灰を含む現代の農耕土。土師器や陶磁器が確認された。 
 2層目: 黒色土。山之口式土器、中溝式土器、竪穴建物跡6棟が確認され、近世から中世にかけての遺跡とされる。 
 3層目: 暗茶褐色土。掘立柱建物1棟、石皿、石斧などが確認され、古墳時代から弥生時代にかけての遺跡とされる。 
 4層目: 桜島の火山灰を含む薄えび茶褐色土。多数の土坑、黒川式土器が確認され、縄文時代晩期の遺跡とされる。 
 5層目: 桜島の火山灰を含むえび茶褐色土、および鬼界アカホヤ火山灰を含む明橙色土。 
 6層目: 桜島の火山灰を含む灰茶褐色土。 
 7層目: 黒褐色土。様々な種類の縄文土器に加えて集石遺構56基、土坑3基が確認され、縄文時代早期中葉から前葉の遺跡とされる。 
 8層目: 桜島の火山灰を含む黒色土。前平式土器、撚糸文土器が確認された。 
 9層目: 暗茶褐色土。竪穴建物跡、集石遺構、連穴土土坑、前平式土器などが確認された。この層と直下の10層目との間に縄文時代早期前葉の遺構が挟まる形になっている。
この遺跡の鬼界アカホヤ火山灰前の遺跡から底の部分が平らな土器が発掘されかなり進歩した縄文期の土器と同じであり火山爆発以前の南九州での文化は相当進歩していた、ヒエ、アワ等穀物の苗もあったと思われる。



当時縄文人は土器を使っていたが土器を直接火に掛け「煮炊き」をした訳である当然器の土器も窯の様なもので焼いていたのであろう、要するに徐々に「火」を制するのであり高音な温度を操作する様に進化し、銅、鉄は熱により溶ける(溶解)を体得し後に高音の火の作り方を体得し弥生時代には銅鐸、農機具などを磨製石器から金属製(青銅〜鉄)に変換して言ったと考えられそうである。

此処で明らかに理解できることは鬼界アカホヤ火山爆発以前から縄文人達が暮らしていた事である。日本人の祖先三つの源流である。
意外に此処での疑問は鬼界アカホヤ火山噴火は、縄文時代 の7,300年前、鹿児島南方にある 硫黄島・竹島付近で起こった巨大海底 火山噴火です。縄文時代早期の終わりに起こった鬼界カルデラ(大隅海峡にあるカルデラ)の大噴火によって壊滅的な噴煙被害を受け、前期以降は、ほぼ住民がいなくなった地域です。



日本で最後に巨大カルデラ噴火の悲劇が起こったのは、今から7300年前、縄文時代に遡る。縄文時代早期の日本列島では、南九州で成熟した縄文文化が発達していたという。本州ではまだ先の尖った尖底土器を使っていたのに、南九州では既に平底型の土器が使われていたのだ。 尖底土器は、屋外で地面に穴をあけてそこに立てるように置いて使われていたものらしい。 一方、平底土器は住居の中での調理や貯蔵にも使うことができた。すなわち、平底土器の出現は、縄文人のライフスタイルが定住型に変化した証拠だと言われている。

此処で話は前後するが地球が誕生してから46億年の歴史をさらに長い目で見ると、地球は約10万年ごとに暖かくなったり(間氷期)寒くなったり(氷期)を繰り返してきたことが分かっています。その度に地球の海の高さは100メートル以上も変動してきたのです。その様子は、まるで呼吸をするたびに胸が上下するかのようです。
ちょっと信じられないかもしれませんが、現在の地球は、約3500万年前に始まった比かく的気温が低い氷河期のまっただ中にあります。 氷河期はさらに、とても寒い時代の氷期(ひょうき)と少し暖かくなる間氷期(かんぴょうき)にわけられ、現在は間氷期にあたるそうです。

縄文時代が始まる前の、旧石器時代は、とても寒い気候の様でした。 氷河期といって、いちばん寒いときは、年間の平均気温が今より7〜8度も低かったとされています。 氷が地球をおおい、海面の高さは、今より100メートル近く下にありました。 地球の気温がだんだん上がり始めたころ、縄文(じょうもん)時代が始まりました。
例えば人類が産業活動を始める前、約7000年前の縄文時代も温暖でした。 この頃は今よりも2〜3℃気温が高く、海の高さは今よりも3〜5メートルほど高かったと考えられています。



上記はその当時の地図であり縄文の海は、広かった!次の温暖な時期が来れば当然の如し地図で示す様に埼玉の久喜等は昔で言えば奥江戸湾の海の中である。

そのようなことを知ると、当時は"日本が温暖であった「縄文海進」の時代には、 極域に存在する氷床が約7000年前ころに融解したために海面が上昇し、 その後寒冷化すると再び氷床が拡大して海面が低下した"と考えられがちですが、「縄文海進」の原因として、 この考え方は正しいとは言えません。「縄文海進」の正しい原因を考えるヒントは、 かつて北アメリカ大陸やヨーロッパ大陸に存在した氷床が残した地形と世界中の海岸の地形の分布に隠されています。
 最終氷期と呼ばれる今から約10,000年以上前の時代には、 北アメリカ大陸やヨーロッパ大陸の北部には現在の南極氷床の規模にも匹敵する厚さ数千メートルにも達する巨大な氷床が存在していました。 これらの氷床は、約19000年前に最大に達し、それ以降急激に融解し、約7,000年前までには、ほぼ完全に融けきってしまったことが、 氷河の後退過程で削剥・運搬されて残された地形や堆積物の研究からわかっています。 ところが、約7000年前以降に、海面を数メートルも低下させるような氷床の再拡大を示す地形の証拠は確認されていません。

「縄文海進」とは、約7,000年前ころ(縄文時代に含まれる)に、現在に比べて海面が2~3メートル高くなり、 日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入した現象をさします。 この時代には日本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られました。その後海面は現在の高さまで低下し、 かつての入り江は堆積物で埋積されて、現在水田などに利用されている比較的広く低平な沖積平野を作りました。 この海進の現象は日本では東京の有楽町で最初に調べられたこともあり、地質学的には「有楽町海進」、 あるいは「完新世海進」とか「後氷期海進」などと呼ばれています。花粉化石や貝化石の研究に基づくと、 「縄文海進」の時期の日本列島は、今よりも数℃以上気温、水温が温暖な時期であったことも推定されています。



縄文海進当時の流通経路を考えてもわかるように、最初誰が発見したのか分からないが、黒曜石採取に神津島まで航海しそこから日本全国に届ける事ができた様で、全ての日本遺跡より出土されている黒曜石の流通は一番遠くはロシアまで運ばれている事と、ある程度の定期航路は運行したと考えられる、後は貝殻の腕輪、飾り物の瑪瑙等貴重品を運搬したとも考えられる。縄文海進時代の後悔は環フィリピン海経済圏も含め暮らす海洋人も暮らしていた様にも思う。

此処で一つの仮説を立てる、船に用いたものは当初は「葦船」から底の深い「丸木船」に布を帆に加え帆船の如く自由にしかも相当な広範囲に海を航海してのではないであろうか?実験にて当時の磨製石器を使い直径100サンチ長さ8M程の丸木船の製作は仕上がり後に内面を火によって焦がしその後黒曜石で表面を仕上げ水漏れも防ぐことが出来たそうである、製作には一番肝心な事は寸法の基本であるが当時の成人男性の戸を広げた(例えが1ヒロ160センチ)と仮定する等工夫を凝らしてのであろう、後期は成人男性20名で2か月程製作日数が必要で生活を考えれば男性20名女性20名子供60名合計100名の集団が必要で公開の為のメンテナンス等自作の丸木船の計画等に他には丸木船航海士も必要で総勢150人程の集落は必要である。丸木舟に関しては以前の筆者のブログで

この様にして徐々に縄文人達は航海範囲を広げていったのであろう、これは一つのプロ集団を作らなければ上手くいかないのであろう。これは日本が海に囲われた国であり海上航海がある程度の荷物運搬にも適した方法であった。時は江戸時代も水路を利用した海上運搬である、勿論現在も輸送は大型コンテナ船で貿易を行い縄文時代も基本は変わらない様である。
この様に日本の縄文遺跡の発見は世界的に見ても確かに異常であり、お隣韓国では50箇所以下であり、日本は一万箇所以上が認められている以上再度調べ直し研究は怠らない様に努めなければならない。



此のような航海技術が豊富で経験も豊かな縄文人は鬼界アカホヤ火山爆発で南九州は住めなくなり避難先に朝鮮南端、長江下流域に避難したのではないであろうか?その頃朝鮮半島には人間は住んでいなく避難場所とは住み良い場所だったのかもしれない。又支那の長江下流域にも住みやすい場所で会ったと思う。そして船に積んだ穀物を植え生活基盤を作ったと考えれば合点がゆくのだ。

他にも南九州では耳栓やツボ型土器などのモダンな道具が使われていた。何故長江と呼ばれるのであろうか此れは海からこの川を見れば大きな長い入江と見え「長江」と呼ばれるのが一番納得できるのだ。 長江流域に住む縄文人と黄河文明を起こした人種が違い度々闘争が起き武器に青銅が使われ不利になるところが、この南九州で、ある時を境に「先祖返り」が起きたのである。実に辻褄が追うのである。
支那と朝鮮に避難した縄文人が帰化し弥生文明と混じり合うではあるまいか?その後の推理はまとめ次第報告させていただきます・・・ブラボー!