ユリアヌスの改革は、この当時の産業の根幹たる農業振興のため農業用水路や洪水対策としての堤防の修復・建設にまで及んでいる。
特別税の徴収を拒否されたコンスタンティウス大帝(正帝)は、大帝への告げ口屋と化していた陰湿な宦官達の告げ口を容れ、ユリアヌスの片腕であった有能なサルスティウスを解任しミラノへ転任させるという意地悪をした。
しかし、これらの妨害にもめげずユリアヌスは、僅か4年で敵を撃破しさらに敵地に侵攻し敵の本拠地を叩き、元首政時代の鉄壁の「防衛線」を復活した。
また地域振興にも成功し、ガリアでは出産までが増加した。 戦勝によりガリアの将兵にも、民衆にも将来に希望を持たせたことにより人民の心までこの若き副帝は掴んだのであった。
この若者に改革が出来た理由を、塩野七生女史は、次のように推測されている。
「責任の自覚と成功による高揚感」その根拠として女史はユリアヌスが学生時代の友人に送った手紙を引用しておられる。
“プラトンとアリストテレスの弟子を自認していた私に・・・。
民衆の幸せな日常を保証するのは私の責務である。・・・・・税金の不当な取立てを繰り返す以外に能のない皇宮内の無能な盗人どもから、民衆を守るのは私の役割ではないだろうか。
・・・・一人で何もかもやらねばならない今のこの時期を出来るだけ活用しようと思っている。一人だから、民衆のための政策を実施するのも自由にやれるからね。
その今が長い間垂れ込めていた邪悪の雲のほんの少しの切れ目でしかないとしてもだ。”
哲学の一学徒は、好きだから選んだ道であり、副帝などになろうという気は一切持ち合わせて居なかったはずである。
ユリアヌスは、副帝になってはじめて、自分が他者に必要とされている事を自覚し、他者に喜ばれる自分を発見した事が、彼の大成につながる高揚感をもたらしたと推測されている。
これを塩野七生女史は「二十代前半のユリアヌスを酔わせたのは、責任感と高揚感のカクテルだったと書いたのである、分筆家ならではの表現であると感心している。
ここまでは、アルプス以西のガリア(フランス)、ブリタニア(イギリス)、ヒスパニア(スペイン)方面の彼の管轄区域での活躍だった。 次は、AD360年以降のローマ帝国の東側にも広く及ぶ活躍について書こうと思っている。