12345・・・無限大  一粒の砂

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改革者の苦労

2008年11月18日 08時30分18秒 | Weblog

 コンスタンティウスの急死で皇帝になったユリアヌスは、361年12月11日ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに入城した。

民衆は新皇帝の入城を歓呼の声で迎えたが、それは歓呼の声で迎えておき、これからなにをするのかと様子を見るということでもある。支配される人々もそれなりの対応策を持っているのである。

これに対し、支配者たる新任者は、二種の対応方法より選択することになる。

 第一は、既得権層を刺激しないように、改革らしい改革には手を着けず、従来を踏襲する方法である。この場合、現状維持ゆえさしたる改革はなされない。

第二は、権力の座に着くや、既得権層も非既得権層にも、悟られない早さで次々と政策を打ち出し実行する方法である。

改革が難しいのは、たいてい既得権層が損になる改革は、当然ながら既得権層から激しく抵抗される。また、改革によって新たに利益を得る非既得権層も、なにが自分達の利益になるか直ぐは理解できない事が多く、改革を強力に支持する力になりがたいのである。

新皇帝になったユリアヌスは、第二の道を選び、何よりも既得権層の反対を押さえ込むべく、次々と新政策を打ち出した。 広大な皇宮をスカスカにした改革は、特権に無関係の一般市民は大いに喜んだのだったが、長年続いた特権を享受していた人々は笑うどころではなかった。

この結果、ユリアヌスには、影でも日向でも多くの敵が出来た。

不幸にして、三十一歳と七ヶ月の人生、皇帝になってから一年と九ヶ月にして、ペルシャ戦役の戦場で戦死した。 この直後から、ユリアヌスの改革は全て破棄され、改革前の状態に戻されたのは、既得権層の巻き返し以外の何物でもなかった。

ユリアヌスの改革の治世は、僅か十九ヶ月にして幻の改革に終わったのであった。 塩野七生女史は、もし十九ヶ月でなくて、十九年治世が続いたとしたら、ローマ帝国のありようも大きく変わったのではないかと、書いておられる。

わが国でも、既得権者層は、自己の損得に充分な情報を有し、また極めて敏感で、頭もよく、強力な力を持っているため、真の改革者を邪魔者として容易に排除できる能力を持っている。

我々一般民衆は、どうしても情報不足の立場におかれているし、またそれほどの力があるわけではないのが現状である。従って、ユリアヌスのような改革者が出てきても、それを強力に後押しし、既得権者達から守り盛り立てることが上手でない。

改革が今この国に必要なのは多くの人が気付いている事であるが、このような事を考えると、ユリアヌスのような改革者がこの国に現れたとしても、うまく盛り立てていけるかなとの不安を抱くのである。

正直者が馬鹿を見るの例えの如く、民衆の見方である改革者の多くは短命な政権に終わっている例が、世界的に多いのである。


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