前回のお話しより1年くらいさかのぼる。ローマ帝国東方の国境はペルシャと接するチグリス川であった。敵対するペルシャ王シャブールは、十万もの大群で攻めてきた。コンスタンティウス帝は自ら軍を率いてペルシャ遠征を決意した。
ガリア方面での目覚しい成功をおさめているユリアヌスに対する嫌がらせと、後世の歴史家が評しているのが、60万もの兵員を動員できる正帝コンスタンティウスが、副帝ユリアヌスに命じたのは、1万三千の兵をガリア方面に残し、精鋭1万名を供出せよというものだった。
されど年長のいとこの命令には不満ながら従うことしかなかったユリアヌスは、部下の兵達にこれを命じたのであった。
蛮族の四部隊は、家族と離れ遠くオリエントまで行く事はもってのほかと反対し、またローマ兵たちもユリアヌスと離れて、正帝指揮下に編入されることを拒んだ。ユリアヌスに心から心服し、正帝のいやがらせと信じてユリアヌスに同情したのだった。
蛮族達はユリアヌスの宿舎の前で座り込みを続け、1ヵ月後何度目かの説得をしようと現れたユリアヌスを盾の上に担いで練り歩き「ユリアヌス・アウグストウス(正帝)」と叫んだ。
ボスを盾の上に載せ練り歩くのは、ユリウス・カエサルに征服された時代のガリア人の風習であった。カエサルより400年後昔のガリア人の風習に従って自分達の感情を表現したのだった。
迷った末にAD360年2月ユリアヌスは、番族達に「アウグストウス(正帝)」を受けると宣言した。ユリアヌスは蛮族的なやり方で擁立された最初の皇帝となる道を歩く事になった。
歩く事になったという意味は、いとこのコンスタンティウスに、ガリア地方を独立国として認めるように請願することだった。 これに対し、正帝は大軍を率いてユリアヌス征伐に向かったのだが、その途中で病のため亡くなってしまった。
あわや内戦一歩のところで、政権がユリアヌスに回ってきて、そしてユリアヌスの改革が始まったのが、前回のお話しであった。
父のコンスタンティヌスはキリスト教を公式に認めた皇帝として有名でキリスト教会からは大帝という尊称を与えられている。また子のコンスタンティウスと共にキリスト教に多大の援助庇護を与えたのであった。
これに対し、ユリアヌスは、本来のローマやギリシャの多神教はもとより、キリスト教、ユダヤ教などのその他の宗教にも平等であるべきという政策を展開した。
この事から、一神教であるキリスト教からは、目の仇にされた皇帝でもあった。
彼が、長期の政権を維持することができていたら、もしかすると中世の暗黒の時代がなくて、現在のような世界的な宗教の自由が早く確立された時代が来ていたのかも知れないと思うのである。
美人薄命ではないが、超短命の賢帝、悲劇の皇帝ユリアヌスをどうしても贔屓するのである。