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12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
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蓮如の本

2011年09月25日 04時20分46秒 | Weblog

 

前回の「他力」の続編である。他力を読んで、次に読みたい本が蓮如に関する本となった。

蓮如について、五木氏は3冊の本を書いておられる。

面白そうなので、早速図書館で借りてきた。読後に下記に引用したインターネットの感想や書評以外の何かあるようならば、後日書こうと思っている。

1)五木寛之『蓮如物語』(角川文庫、1997年)・・・児童向け

2)五木寛之『蓮如ー聖俗具有の人間像』(岩波新書、1994年)

3)五木寛之『蓮如ーわれ深き淵より』(中央公論社、1995年)

 

参考;インターネットで見つけた、感想や書評。

1)五木寛之『蓮如物語』(角川文庫、1997年 )
次のURLは、ある人のこの本の読書録である。

「・・・ユダヤ教の形式主義を批判したイエスや、免罪符に象徴されるカトリックの世俗化に抵抗したプロテスタントたちの宗教改革にも通じる、大きな思想の転換であると感じる。日本にも蓮如のような偉大な改革者がいたのである。」 という一文が印象的だった。

http://www6.plala.or.jp/Djehuti/2001925.htm

2)Amazonの書評より;

弱虫としての蓮如, 2004/1/23 By utudanuki (東京都) - レビューをすべて見る

レビュー対象商品: 蓮如―われ深き淵より (中公文庫) (文庫) 

五木寛之は「蓮如」という本を2冊出している。1冊は岩波新書「蓮如―聖俗具有の人間像―」というノンフィクションの評伝で、もう1冊がこの「蓮如―われ深き淵より―」という戯曲である。サブタイトルだけが違っているので少しややこしい。さらに「蓮如物語」という本も出している。

 私は岩波新書の方を先に読んだ。これが正解だったと思う。浄土真宗がどのような教えなのか、蓮如が生きた時代の背景はどのようなものであったか、五木が蓮如をどのようにとらえているかということが頭に入っている方が楽しめると思う。

 岩波新書の中でも書かれているように五木は蓮如を「弱い人間」ととらえている。それは、非常にはっきりとこの戯曲の主題として描かれている。これは私が持っていた蓮如観とは全く違うものであり、非常に新鮮に感じられた。私は戦国時代に浄土真宗を強大な宗教勢力、政治勢力にまで育て上げた蓮如をマキャベリスティックな強力な人物ととらえていた。おおかたの日本人はそのようなイメージを持っていたのではないか。

 ところが五木の描く蓮如は実に優柔不断で、さびしがりやで、弱虫である。回りの人間に流され、いつもおろおろしている。蓮如が六歳の時母親と生き別れになったことを五木は重視している。「運命の足音」を読んでわかったのだが、五木も少年時代に朝鮮に侵入してきたソ連軍に母親を殺されている。おそらく自分の気持ちを蓮如に重ね合わせているのであろう。

 これは遠藤周作が「弱いキリスト」「無力なキリスト」を描いたのと軌を一にしている。日本人の中には強力な、父性的なカリスマより、弱々しいが、すべてを受け入れてくれる母性的なカリスマを求める気持ちが強いのではないか。

 しかし、ただ弱ければいいというわけではない。あくまでも誠実で、無私の人であることが求められる。蓮如は母親が別れ際に残した「私を思い出すときには、おねんぶつをとなえなされ。ただ、しんらんさまについてゆくのじゃ。そして、おねんぶつをひろめなされ」という言葉を胸に、戦国の庶民に念仏のメッセージを伝えるための「お文」を書くことに命がけで取り組む人物として描かれる。ありきたりな言葉しか書けない自分の表現力のなさに悩み抜く姿が印象的である。

 これはあくまでも五木のとらえた蓮如像であり、実在人物としての蓮如とは当然ずれがあるだろう。我々がこの本に読みとるべきなのは蓮如の実像よりも、むしろ蓮如を通して描かれた五木のメッセージであると思う。五木は最近「情の力」という本を出した。五木が蓮如を通じて表現したかったのはこの「情の力」ではないだろうか。