Baradomo日誌

ジェンベの話、コラの話、サッカーの話やらよしなしごとを。

うまれいずる悩み

2007-04-19 | ダトトパ教本(ネット版)
このところ、お客さんや共演者の方から、翔君のレイドバックした楽曲とアフリカンなジェンベの組み合わせがおもしろい、とお褒めの言葉をいただくことが増えてきた。
「褒め言葉は翔にかけてやってください」と返すことにしている。
だって、演奏しているのは彼の楽曲だし、共演者が自由に色を付けることができるよう、楽曲の中に他者が存在できる空間を開けて、セッション的な偶発性をも包含した楽曲としてお客さんに提示できる、一種のプロデュース能力は彼の個性。
私はその空間で泳いでいるに過ぎない。
だから褒め言葉はすべて彼に。

では「俺はうまく泳げているのか?」と言うと、実はまだまだ自分の演奏にいろんな意味で課題&不満山積であるため、せっかくお褒めの言葉を頂いても、俺の心がNo thank you!とそっぽを向いてしまうのよね。

まず、もちろんテクニック的にはまだまだ多分いつになっても不満。
ドラムセット的なフレージング、コンガ的な奏法、そして知っている限りのジェンベのトラディショナルな奏法と、自分の引き出しの中からありったけのものを引き出して演奏してはいるものの、それらを体系化して、いつでも自由自在に引き出しを開けて複数の要素を同時に感じさせつつ「ごった煮」的な演奏ができるほどには至っていない。
だからまだまだI can get no satisfaction!なんである。
加えて時折、「ジェンベを叩いているのだから」と、「アフリカンっぽく聴かせたい」な~んてよこしまなことが脳裏をよぎり、つい色気を出してしまう瞬間があるから始末が悪い。
太鼓叩きは、「○○っぽい」なんてことを考えるべきではないんだよね。特にステージ上においては。

それからもうひとつ。
今の私の演奏は様々な意味で不敬失敬なものなんではないか?という疑念がある。
ジェンベがかなり普及してきたとはいえ、そのトラッドとなるとまだまだ市民権を得るどころか、一部の好事家にしか知られていない、というのがおそらく実態。
かくいう自分を省みても、個人的に研究して入るけれど、まだまだトラッドの入り口を覗きこんでいる程度で、核心めいたものはまだなにも掴んでいない。
そんな人間が、いくらオリジナル楽曲であるとは言え、djoleのアコンパをもろに使ってみたり、ほかにもいくつかマリンケのトラッド・パターンを若干アレンジしつつ叩いたりすることは、実はトラッドに対して不敬な行為なのではないか?
その昔、「民族音楽に対する植民地主義的搾取」であるとしてデビッド・バーンの音楽性を批判しまくった文章を読んだことがあるが、実は今現在の自分こそ、それをやってしまっているのではないか?中南米だって遠いのに、さらにさらに遥かなるアフリカの伝統音楽だぜ?ただの真似っこじゃねえか?と。
そんなことを考えてしまうわけだ、私は。
まったく、「ごくろ~さん」な性格の男である。

これまでのところ、私のフレージングについて「トラッドの応用ですね」と指摘してくれたのは前述の安井さんのみ。彼女は好意的に受け止めてくれていた、とは思うけれど、ほかの方でそこまでずばり指摘をされたことはない。
実はそこがなんとなく居心地が悪い。御幣を恐れず言うならば「素人騙し」をやっているに過ぎないのではないか?と思うのだ。
例えば、「この曲にはこれが合う、こっちはこれが合う」なんて調子で、コラージュ的にジェンベのアコンパを当てはめるだけの作業ならば、これは簡単だ。
しかし、それはトラッドに対しても、お客さんに対しても、まさに「不敬」なこと。
「誰も知らないことだからやっていい」のではなく、あくまでトラッドをリスペクトしつつ、わかりやすく。
リスペクトするからこそ、いつでも自由自在に引き出しを開けて複数の要素を同時に感じてもらえるような、「ごった煮」的な演奏ができるようになりたい。
これが「俺だ!」として提示しうる、「俺的なグルーヴ」を表現できれば。

そんなわけで、太鼓叩きとしての悩みは尽きない。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
うんうん (Gen)
2007-04-30 21:56:05
>これが「俺だ!」として提示しうる、「俺的なグルーヴ」を表現できれば
これが全てでしょう、関係ないって。
もう最近、俺も開き直ってきたからねw
自分本位でいいではないかと。
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御意 (@鳴り物)
2007-05-01 14:52:23
>自分本位で

そうかもしれませんねぇ。
まず自分なりの解釈というか、納得の仕方というか。
表現活動ってのはそういうものかもしれませんね、結局のところ。
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