やんまの気まぐれ・一句拝借!

俳句喫茶店<つぶやく堂>へご来店ください。

雁渡る胸痛ければ胸のこゑ 後藤比奈夫

2016年10月16日 | 俳句
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後藤比奈夫
雁渡る胸痛ければ胸のこゑ
渡り行く雁の鳴き声に、今日病んで今日を伏す一日胸が痛い。無神経と言われる胸の痛みは即ち精神の痛みである。耳を澄ませばそこに精神のこゑが聞える。我性善説に非ずして原罪に悩む云々。臀部の出来物一つで大騒ぎして苦しむワタクシとは何処か悩みの種が違っている。そんなワタクシと言うちっぽけな悩みを他所に、万古の習ひの如く雁が空高く渡ってゆく。悠々と。角川「俳句」(2015年12月号)所載。:やんま記

背広着て出づる用あり鵙日和 宮武章之

2016年10月15日 | 俳句
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宮武章之
背広着て出づる用あり鵙日和
定年退職してから背広に手を通すことが無くなった。周囲の小さな社会も老人会その他ラフなスタイルで済むことばかりである。こうしたジーンズの着っぱなしの日々が続く中でふいにホテルで会合の案内があって背広着用の事とある。まあ目出度い席でもあるし型の古くなった上下を引っ張り出してのお出かけとなった。そんな今日だから革靴を履きネクタイまで絞めているのである。折しも鵙が高鳴いて良きお日柄と相なった。雄山閣「新版・俳句歳時記」(2001)所載。:やんま記

木の葉髪無位無冠にてやや多忙 ひであき

2016年10月14日 | 俳句
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ひであき
木の葉髪無位無冠にてやや多忙
木の葉髪は晩秋から初冬のころ、頭髪が多く抜けること。 木の葉が散るのに例えた語。私の事でもある。そして私もまた日々忙しく暮らしております。老人会、週に3回のグランドゴルフ、パソコン教室、日々の吟行散歩とスナップの撮影、日記を兼ねたサイトの書き込みなどなど。あ、それと持病の通院も。かくして無位無冠は多忙なのであります。ほとんど遊びでどうでもよい事ばかりですが、ああ忙しい。ネット「つぶやく堂俳句喫茶店」(2016・10・13)所載。:やんま記

採りたきは昔の色のからすうり 落合水尾

2016年10月13日 | 俳句
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落合水尾
採りたきは昔の色のからすうり
夏の間にもやっとした綿毛状に咲いた花が秋になると赤い楕円形の実となってぼんやりと吊り下がるようになる。今ではこんなものを採る人を聞く事がないのだが、私の祖母の時代には何かといっては採集していた。確か種は薬用にもなったらしいが根からの澱粉を天瓜粉として体にはたかれた記憶がある。そうしたセピア色の中にくっきりと際立って赤かったあの実をまた採ってみたくなった。祖母もからすうりの記憶も遠い遠い昔の事となった。角川「俳句」(2015年12月号)所載。:やんま記

露しぐれ終は健康談義なる 内田裕子

2016年10月12日 | 俳句
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内田裕子
露しぐれ終は健康談義なる
朝晩めっきり冷え込むようになった。早朝に見る草や石などがびっしりと露に濡れる。今朝は時雨のように露が降りかかって裾を濡らすようになった。仲間同士ではあるが互いの年齢の由か話は自ずと病院や墓の話へと展開してゆく。やがて相手の健康状態を読み合い慰めあうはめと相成ってゆく。互いに露のように儚い身である。命愛しや。俳誌「百鳥」(2016年1月号)所載。:やんま記

河童来てぺちょぺちょ話す蘆の花 望月清彦

2016年10月11日 | 俳句
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望月清彦
河童来てぺちょぺちょ話す蘆の花
我が近辺の利根川水系は今芒や蘆の見ごろである。こんな水系の脇には牛久沼とか手賀沼とかいった大小の池沼が散在する。その池沼にはそれぞれ河童伝説なるものが語り継がれている。因みに牛久沼の小川芋銭の河童像や手賀沼の河童群像は見る人の目を楽しませてくれる。ところで私は河童をこの目でしかと見ている。水面から子供位の顏を出していた。ぺちょぺちょでは無くぼうぼうがうがうと話をしていた。共に居た友人はあれは蟇蛙だと言ってきかないがあんな大きな奴は河童に違いないのだ。読売新聞「読売俳壇」(2016年10月10日)所載。:やんま記

鈴虫の夜通しみがく星の空 宇都宮靖

2016年10月10日 | 俳句
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宇都宮 靖
鈴虫の夜通しみがく星の空

鈴を鳴らすような鈴虫の声が澄み渡る。見上げれば満天に星の輝き。まるで鈴虫が星空を磨いているようだ。夜は今日から明日へと日付を越えてゆく。夜通しの鳴き声に浅き夢も度々覚めて夜気に浸って冷える身に物を想うのであった。雄山閣「新版・俳句歳時記」(2001)所載。:やんま記

あめつちにわたくしひとり野路の秋 坂石佳音

2016年10月09日 | 俳句
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坂石佳音
あめつちにわたくしひとり野路の秋
天井天下唯我独尊といったのはお釈迦さまだったか。こちらは花の季節の誕生という明るさを帯びている。春に春愁いあれば秋に秋愁いがあって秋には少し重たい愁いを帯びるだろうか。野路に在る作者に千秋の気層がのし掛かかり、孤愁の感がぐっと強まる。だからこそ周囲に対し普段以上に明るく振舞うのかも知れぬ。ネット「つぶやく堂俳句喫茶店」(2016・10・02)所載。:やんま記

校庭で落葉をふんでおにごっこ 吉雄陽香

2016年10月08日 | 俳句
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吉雄陽香
校庭で落葉をふんでおにごっこ
作者は小学校四年生。学校には友達が大勢いて夢中で遊び暮らしている。巡る季節の一刻一刻が面白い年頃である。落葉を踏んで鬼ごっこ、いつしか遊びと区別のつかない喧嘩となってゆく。頭から落葉を掛けあって無我夢中とあいなる。無情なベルの音に授業が再開し午後の眠たい時間が始まる。あのころへ戻りたい、戻れない。俳誌「春燈」(2016・1号)所載。:やんま記

分身の眼鏡磨けば鰯雲 河津玲子 

2016年10月07日 | 俳句
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河津玲子
分身の眼鏡磨けば鰯雲
眼鏡は我が分身。小生のど近眼は乱視が加わったまま老眼となった。風呂だろうが散歩だろうが何処へ行くにも離せない。公園のベンチに座り何気なく眼鏡を磨く。空には鰯雲が彼方へと列を成してしる。眼鏡を通してのみ見えるこの世の風景である。今日斯く生きて在りし。雄山閣「新版・俳句歳時記」(2001)所載。:やんま記

蓑虫にかかはりのなき地動説 松本久

2016年10月05日 | 俳句
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松本 久
蓑虫にかかはりのなき地動説

蓑虫がぶらんとぶら下がっている。ただぼんやりとそうしている。人間の浅はかな頭脳では重力があったり地動説があったりする。客観的に絶対と信奉されている。そうかなあ、地球が動いているなんて頭の中だけじゃないの。脳みそが入っていない南瓜頭にはつまり主観で言えば絶対大地は動いていないよな。客観を受容出来ない小生の中ではこんな主観的絶対しかない。蓑虫が我関せずとただただぶら下がっている。雄山閣「新版・俳句歳時記」(2001)所載。:やんま記

国生みの島にあまたの藁ぼつち 赤猫

2016年10月04日 | 俳句
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山本あかね(赤猫)
国生みの島にあまたの藁ぼつち
国産み(くにうみ)とは、日本の国土創世譚を伝える神話である。
イザナギとイザナミの二柱の神は天の橋にたち矛で混沌をかき混ぜ島をつくる。
とは言え、父母も先生もそんな事は話してくれなかった。
今一つのロマンとして大和敷島の発生を考えるとき、
お米文化の絆の結ぶ直線上の藁ぼっちがでんと座している。
現実の上ににロマンを重ねている南瓜頭の上にぽっかりと悠久の雲が流れている。:「つぶやく堂・俳句喫茶店」所載・やんま記

黄落す十返舎碑は「どりゃ」と辞世 吉田海

2016年10月03日 | 俳句
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吉田 海
黄落す十返舎碑は「どりゃ」と辞世

十返舎一九の辞世の句は「この世をば どりゃお暇(いとま)に 線香の 煙とともに 灰(はい)左様なら」「灰=はい」左様ならと洒落たもの。この人江戸時代後期の戯作者で文筆のみで自活し『東海道中膝栗毛』の作者として知られる。この歳になってもこんな洒落た死に方を考えることの出来ない小生の終活はただ只管に「おろおろとただおろおろとおろおろと」である。銀杏且つ散る中面目なくも鼻が狼狽えている。雄山閣「新版・俳句歳時記」(2001)所載。:やんま記

黄落の広場にセトルイスブルース 同前悠久子

2016年10月03日 | 俳句
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同前悠久子
黄落の広場にセトルイスブルース

秋も深まる広場には黄落が盛っている。そこに人々が集いジャズに興じている。曲はブルース、切なくも哀しい。人々は共鳴し身も心も震わせている。句の作者は愛知県岡崎市の人と聞く。そこでは例年ジャズストリートとして祭典が開かれる。ジャズの街のジャズの広場には黄落が舞いジャズの音符が躍っている。いつもの様に秋が長けてゆく。俳誌「ににん」(2016冬号)所載。やんま記

物いへば唇寒し秋の風  芭蕉

2016年10月02日 | 俳句
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松尾芭蕉
物いへば唇寒し秋の風

物を言うことは寒い。俳句が下手な小生は何句投句しても結社誌のびりっかす。そんなウサを酒に晴らそうなんぞと間違える。飲み会の席で偉そうに一期一会の熱弁を振るった相手が最近身内を亡くしたばかりと知って愕然。ああ言わなければ良かったと思うが時既に遅し。口から出た言葉は戻らない。秋の風に季節の深まりを覚え身に沁みる。唇寒し。「名俳句一〇〇〇」(2002)所載。やんま記