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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

旅立つ前に決着をつけるべき野猿峠の名前の由来

2019年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム
府中市から八王子市に行く道路の一つに野猿街道というものがあり、その峠を野猿峠と言います。
よく通る峠なので名前の由来を何十年と考えてきました。
昔は峠付近に野猿が棲んでいたので野猿峠と言ったと説明する人や本があります。私はそんな簡単な理由でないと思っていました。日本の地名には複雑な由来があることも多いのです。
決着をつけるべきと思い昨日車で現地を確認してきました。

1番目の写真は野猿街道です。

2番目の写真は野猿街道の峠の頂上にある「野猿峠」の看板です。

3番目の写真は峠の左右にある山です。明治、大正時代まではこの山の上に野猿峠があったのです。
自動車が通れるように山を切り崩して現在のような低い所に舗装道路を作ったのです。

帰宅後いろいろ手を尽くして調べました。遂に信用出来る次のような郷土史家の記録をみつけましや。
(http://www.pompoco.or.jp/1999_2016/chiikitai/tama_rekishi/20030324_yaentoge.htm)

「野猿峠という名称の由来は何でしょうか。 「武蔵名勝図会」によると、この峠は猿山領 猿山峠とも号す。・・・ 嶺上のまた高き丘に、大石道俊(道俊は大石定久の法号、晩年 永林寺-野猿峠の下柚木側の麓-に住んだ)の碑石があり。或 云大石定久入道遺命して、この嶺上に着具の甲(かぶと)を埋 めて碑石を建てけるゆえ、往古は甲山峠と唱えけるが、その後 甲を申(さる)に書きたりければ、サルと読み来たれるより転じて読み やすき猿という文字になりけると云。・・・そして、猿山峠と 呼ばれるようになったらしいのですが、江戸時代末ころにはさ らに転じて猿丸峠と呼ばれていたようです。

大正12年の南多 摩郡史八王子地図には猿丸峠との記載となっており、打越八幡 神社の昭和3年の道路大改修碑にも猿丸峠となっているため、 野猿峠となったのはそれ以降のことと思われます。

国土地理院 の地形図に野猿峠の名前が登場するのは昭和28年の版からだ そうです。この頃、京王電鉄で峠周辺にハイキングコースを整 備し、初めて「野猿峠」という名前を使ったと言われています が、京王電鉄が名付け親だという確証はないようです。眺望 の勝地だったということです。

昭和40年頃でも大型車がやっとすれ違える程度の道幅しか なく、両側の谷戸の谷間は深く、転がり落ちるのではないかと 怖いほどの道だった野猿峠ですが、現在は道路の拡幅や宅地開 発などで昔日の面影は薄れてしまいました。」

以上を分かり易く書きます。

(1)昔、大石定久という人が甲(かぶと)を埋 めた。それで往古は甲山峠と言った。
(2)甲を申(さる)に間違って書いて猿山峠と 呼ばれるようになった。
(3)猿山峠が江戸時代末ころにはさらに転じて猿丸峠と呼ばれてた。
(4)昭和28年の版の国土地理院の地形図に野猿峠の名前が登場した。それ以後、野猿峠や野猿街道の名前が定着し普及したのです。
なお江戸時代でもこの付近に野猿が一匹もいなかったと言い伝えられています。

これで決着をつけるべき問題が解決したのです。安心しました。

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