老境になって初めて分かる人と分からないでそのまま死んでしまう人。人はさまざまです。
最近、石山望さんの日記に次のようなものがありました。感銘を受けたのでここに転載します。原文は、https://smcb.jp/diaries/8048527 にあります。
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『ああ、人生、』
この頃、思うことがある。
でも、それは、私くらいの年齢の人達にとっては、同じことかもしれない。
そして、それが、「分る」ということかもしれない。
よく思う。ことに、逝き去りし、今は亡き人達のことである。
私7歳の時、父が亡くなった。享年57歳。
それまで、父が商売(京都中央市場の塩干仲買)をしていて、我が家を支えていてくれたので、これはすぐに後継をというわけで、私の2番目の姉に白羽の矢が立った。彼女23歳。
彼女には4つ違いの兄がいたが、これがまた、全く商売には向いていなかった人で、早々と家を出て、大阪の裁判所に勤めていた。
でも、この2番目の姉、一人では商売を継げないから、誰か婿養子をというわけで、急遽、血のつながらない親戚の人と結婚した。
しかし、この人、いわゆる「いい人」であったが、金勘定もできない。姉は、嫌だったそうだが、「この人と結婚しなかったら、家が潰れると思った」と、後年私に話してくれた。まあ、家の犠牲になったというわけである。
その婿養子に来られた人は、商売が下手、また、周りの者の決めた結婚で、自分の嫁との仲がそんなにいいということがなかった。というわけで、我が家の雰囲気は、なんだか冷たく、ギスギス、。
この養子さん、丹波の大きな農家の3男坊で、非常に呑気。したがって、姉は商売の全てを自分で仕切らなくてはならなくなってしまった。
子供は、男一人、女2人。ただ、その誰ともあまり親近感はなかったように思う。
当時、私の母親がまだ生きていたので、私もその実家にいたが、その養子さん、極めて保守的。韓国人のことを声高に「チョーセン!」と呼ぶような人で、私、それが厭だった。
そんなこんなで、彼は、まず完全に家の中で浮き上がってしまっていた。
商売の方は、なんとか姉が頑張って、切り盛りしたが、彼女夫婦のなめた辛酸は、それはそれは筆舌に尽くしがたいものがあったと思う。
私、今にして、この義兄のことを思う。なんと立派な人であったかと。
冷たい家の中で完全に孤立。これといって友達もなかったのではなかろうか。
しかし、それでも、離婚して口うるさい田舎に帰るわけにもいかず、我慢に我慢を重ねて、我が家にいてくださった。これは立派である。
だって、この人が来て下さられなければ、我が家は潰れていたに違いないのであるから。
私、彼の存命中に、そういうことを理解して、彼と親しくしようという努力をしていれば、どれほどこの義兄、救われたかもしれない。
ただ、その頃は、私、自分自身に問題があり、そこまで膨よかな気持ちになれなかったのも事実である。それどころか、口汚く罵ったこともある。
本当にゴメンね、兄さん。
その義理の兄さん、最後には、好きなタバコ(彼の唯一の友達、「いこい」というきつくて安いタバコ)を吸い続けて、70歳の若さで死んでしまった。脳梗塞。
今の私、これは十分理解できる。周りに誰も親しい人がいない状態で、生きているのが嫌だったのであろう。ましてや、自分の妻に先立たれるなんて以ての外。いわば、間接的自殺である。
この兄さん、お酒でも飲まれれば、私も、もう少し話しやすかったのであるが、それもなかったし。
そして、姉もまた、後を追うようにして、その数年後亡くなった。今度は、脳溢血で、。
人間は、死ぬと、誰でも仏になるというのは、本当です。
ああ、こういうことが理解できるようになるのには、自分自身の生活がやっと安定するようになり、心に余裕ができ、人の痛みも分る、この歳まで待たなければならないのですか。
するとそのあとは、「自分が逝く」ということの為の準備にとりかからなければならないのですね。
ああ、人生、、(終り)
挿し絵代わりの写真はロンドンの住宅街の風景です。今日の著者の石山望さんは長年ロンドンにお住まいです。こんな場所だろと勝手に想像しています。
写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/samberasam51/33555930.html です。