後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

北海道の孤高の画家、木田金次郎展、その透明で美しい青色

2018年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム
展覧会の会場に入ると人々がシーンと静まって、絵を見て立ちつくしています。
何事ならんと絵を見ると何かにガーンと殴られたような感じがします。この感じを受ける絵画展は何度かありますが、その瞬間、「嗚呼、来て良かった」と思うのです。
そして78点の木田金次郎の油彩画を静かに見ました。
暗い、しかし透明で美しい青色を基底にした色彩で北海道の漁港や山を描いた絵画です。
何故か悲しい色彩です。でも悲しみだけではありません。描いている画家の研ぎ澄まされた独創性が絵画に深味を与えています。北海道の淋しさが偲ばれます。岩内という漁港に住みついて貧しさの中で彼の心は絵を描くことだけを考えていたのです。
有島武郎、ただ一人、木田金次郎の絵画を認め、励ましていました。しかし中央の画壇では誰も見向きもしない無名の画家だったのです。そして美しい青色を基底にした色彩の画風は一生変わりませんでした。変節しないのです。
ですからこの展覧会は、あるテーマを持った交響曲を聞いているような感じがします。静かに歩いていくと何度もテーマのメロディが少しづつ形を変えて出て来るのです。
それは北海道の厳しさです。淋しさです。そこに生きる人間の心情です。激しい絵筆の動きが感じられます。
そしてその絵画に隠れている心を想像しました。それは北海道に住んでる人だけが持つ自然の美しさに対する厳しい心情なのです。北海道のローカル文化なのです。
以前に何処かで見た北欧の風景画のようでもありますが、この北海道独特の心情が美しさを一層きわだたせているのかも知れません。
この色彩や絵筆の動きの激しさは写真で表現することは難しそうです。でも写真を示します。

1番目の写真は会場入り口です。受付の人に頼んで入り口だけ撮らせて貰いました。

2番目の写真はこの展覧会で「どうぞ写真を撮って下さい」と書いてあった大きなポスターです。
絵は「秋のモイワ」と題した木田金次郎の1961年の絵です。

3番目の写真は「菜の花畑」です。(油彩、1956(昭和31)年 北海道銀行蔵)

4番目の写真は「東山から見た早春の岩内山」です。(油彩、1960(昭和35)年 木田金次郎美術館蔵)

5番目の写真は「海」油彩画です。(1936(昭和11)年、佐藤正広氏蔵)

結論は心からお薦めの絵画展です。

木田金次郎美術館は北海道の岩内町にあります。詳細は,http://www.kidakinjiro.com/ をご覧下さい。
その他、木田金次郎展の予定を示します。
●東京:府中市美術館 7月21日(土)~ 9月2日(日)
           [ https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/index.html ]
●札幌:JRタワー・プラニスホール 10月13日(土)~11月4日(日)
●ニセコ:有島記念館 11月23日(金・祝)~12月16日(日)

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料===========================
「木田金次郎展 有島武郎の死、大火乗り越え昇華」
https://www.sankei.com/life/news/180729/lif1807290013-n1.html

 木田金次郎といっても知る人は多くはないかもしれない。小説家と青年画家との交流や創作の苦悩などをつづった有島武郎(たけお)(1878~1923年)の小説『生れ出づる悩み』のモデルとされた画家だ。同書の出版から100年を記念して、東京の府中市美術館で「木田金次郎展」が開催されている。
 展覧会場に「海」という印象的な作品がある。夕焼けの太陽は黄色く輝き、海面にも反射してギラギラとまぶしい。40代前半の作で、創作意欲がみなぎるようだ。
 西洋美術を紹介し、絵画に造詣が深かった有島から才能を見いだされた木田は、ほとんど独学で野性的ともいえる激しい絵を描いた。描いたのは、青年期の一時期を除きほぼ生涯を過ごした北海道西部にある故郷・岩内(いわない)町だ。
 木田は10代半ばで絵を描き始めたが、漁業を営む実家の傾きかけた生活を支えるために漁師に。20代半ばで本格的に油彩画を始め、東京で活動したいという思いを交流のあった有島に手紙で伝えた。しかし有島は、「既に立派な特色を備えた画は余計な感化を受けないで純粋に発達させた方が遥(はる)かに利益だと思います」と、岩内での活動を勧めた。
 大正12年、有島が愛人と心中自殺。木田は画業に専念することを決意し、制作を重ねた。モチーフとなったのは漁村など身近な風景だった。

 昭和29年、木田を不幸が襲う。台風による大火で岩内の市街地の8割が灰燼(かいじん)に帰した。木田の家も全焼し、約1500点の作品を焼失してしまう。61歳のときだった。
 故郷と作品を失ったショックは相当だっただろう。しかし、木田は過酷な現実を直視した。変わり果てた港に足をはこび、破損した漁船を描いた。太陽は緑色で、「海」のようなまぶしさはみじんもない。心の痛みが表出しているようだ。
 その後はいっそう猛烈に制作を開始。31年の「菜の花畑」は、春になり菜の花が咲き誇る大地を明るく活写。生命の息吹と喜びに満ちている。自然を賛美しているかのようだ。バラやボタンも、赤などの鮮やかな色彩で描出した。35年の「夏の岩内港」は、漁船がひしめき合うように停泊するにぎやかな港を題材にした。筆致は素早く激しい。復興を遂げ、活気のある姿を生き生きととらえた。
 「木田にとって、有島の小説のモデルとみられることは喜びでもあり、負担でもあったのではないでしょうか。有島の死や、自身の作品が失われてしまったことで過去の重しがなくなり、むしろ精力的に独特の作風を確立した、という見方もできます」と、同美術館の鎌田享学芸員は話す。
 油彩画を中心に約80点を展示。東京での大規模な展覧会は39年ぶりとなる。有島の木田に宛てた手紙や絵画など関連資料も紹介している。(渋沢和彦)

木田金次郎
 きだ・きんじろう 明治26年、北海道生まれ。41年、東京の開成中学に入学。42年、同中学を中退し、京北中学に編入学。この頃から絵を描き始めた。翌年、同中学を中退。一時、札幌で過ごし、展覧会で有島武郎の絵画作品を見て感銘を受け、有島の自宅を訪問し、交流が始まった。大正8年、東京の有島邸で習作展を開いた。昭和3年、満州・朝鮮に写生旅行し、大連の満鉄倶楽部で個展を開催。29年、北海道文化賞を受賞。37年、69歳で死去した。

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