後藤和弘のブログ

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独裁者ムッソリーニと親しかった下位春吉という不思議な日本人

2013年06月14日 | 日記・エッセイ・コラム

最近、このブログでは「20世紀の独裁者」という連載記事を掲載しています。

第一回がソ連のスターリン、第二回がキューバのカストロ、第三回がドイツのヒットラー、そして第四回が中国の毛沢東に関する記事でした。

この続きの第5回はイタリアのムッソリーニを取り上げようとして数日前からいろいろ調べています。調べていると言っても大きな図書館にこもって文献実証的に徹底的に調べるのではなく、暇にあかせてインターネットをいろいろな角度から検索して調べています。クロスチェックするように調べています。

そうしたら語学教育者であり詩人の下位春吉(しもい)という人間を見つけました。

彼は1883年に生まれ、1907年に東京高等師範学校を卒業し、1954年に71歳で亡くなりました。

不思議な日本人です。1915年に学術研究のためにイタリアに渡り、すぐにイタリア国立東洋大学で日本語の教授になりました。

第一次世界大戦が激しくなると、1918年に突然、イタリア軍に志願し、戦いに参加します。終戦後にイタリア政府から大戦十字勲章を与えられています。

そして1920年代にはムッソリーニと親交を深め、彼の講演原稿を多数翻訳し、日本へ紹介したのです。ムッソリーニを宣伝する講演会を日本で何度も開催しているのです。

下位春吉のお蔭でファッシストのムッソリーニが日本で有名になり、後の日独伊三国同盟のキッカケを作ったのです。

私がとても不思議に思ったのは、もともと詩や童話の口演活動に情熱を注いでいた人間がイタリア軍の志願兵になったことです。

彼は、東京師範時代から詩人、土井晩翠に師事し、1911年には大塚講話会を設立し、童話の口演活動で有名になったそうです。

「ゴンザ蟲」という本も出版しています。

そして高等師範卒業後は師範学校で教鞭を取りながら東京外語学校でイタリア語を習得しました。

その彼が1915年にイタリア国立大学の教授になり、ついでに1918年にはイタリア軍の一兵卒として志願したのです。

理由はさだかではありませんがムッソリーニ達のファッシズムに染まったためではないでしょうか?

1933年帰国すると下位春吉はイタリアのファッシズムやムッソリーニを精力的に紹介し、宣伝したのです。

終戦後、彼は枢軸国側への支持活動によって公職追放になり、1954年この世を去ったのです。彼の晩年のインタビューで、「いわば、人間のすることは全て無意味だ」と語っていたそうです。

私は彼は他人の影響を受けやすい、人の良い快男子だったのだと思います。たまたま留学したイタリアで彼の地の人々に親切にされイタリアが好きになってしまったのでしょう。しかし知り合った相手がいけません。ファッシストだったのです。

調べれば調べるほどイタリアほど分かり難い国はありません。カトリックと共産主義とファッシズムと資本主義とがゴチャゴチャ混じっているのです。

須賀敦子作、「コルシア書店の仲間たち」に出て来るイタリア人の正体が分からなくて困惑したことを思い出しています。

どなたか明快にお教え頂けませんでしょうか?(終わり)


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