後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

明治初期の西洋技術導入の現場、富岡製糸場(1)13人のフランス人の活躍

2012年04月10日 | 日記・エッセイ・コラム

世界遺産候補として有名な群馬県の富岡製糸場は明治5年に始まりました。訪問してみると少し汚い工場群が寒々と広がっているだけです。西洋建築の美しい住居を見慣れた人々は落胆するでしょう。

しかしこの製糸場は日本の殖産興業と富国強兵の引き金を引いた場所なのです。そこから近代工業が爆発的に発展して行ったのです。

繭から生糸を取り出す自動機械をヨーロッパから輸入し、絹糸の大量生産を始めた場所が富岡です。

その工場を作ったのがフランス人のブリュナです。そしてブリュナを含めて13人のフランス人が定住して富岡製糸場の操業を指導したのです。そこで技術を学んだ日本人の女工が各地に散って行き、数多くの製糸場を作ったのです。明治期の日本経済を支えた絹糸と絹織物の大量輸出はこのようにして始まったのです。

今回から何回かに分けて「明治初期の西洋技術導入の現場、富岡製糸場」に関するいろいろなエピソードをご紹介して行きたいと思います。

その前に何故、富岡に出来たか?その理由はいろいろ書いてあります。養蚕が盛んな地方で繭が多量に入手出来た。工場で使う蒸気機関の燃料の石炭が出たから。製糸業につかう多量の水があったから。などなどです。しかし一番大きな理由は、当時、明治政府で殖産興業を推進していた渋沢栄一の出身地の埼玉県、深谷に近いからです。北関東に絹織物業を拡大しようとする意図があったに違いありません。そして日本全国に絹織物業を拡大、発展させようとする渋沢栄一の天才的発想があったのです。

さて現在の工場建屋の様子と、13人のフランス人の写真を下に示します。

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013_3 上の写真の後列の右から2人目の白服の男がブリュナです。ブリュナの出身地はフランスでも生糸の山地として有名だった所でした。彼は絹織物産業の仕組みや自動機械について知っていたのです。

前列の女性は彼の妻と日本人に生糸の大量生産方法を教えたフランスの女工です。

下の写真はブリュナと妻が4年近く住んでいた工場長のの官舎です。

工場に隣接してあります。

その下の写真はフランスから来た女工達が住んでいた建物です。

明治5年に完成した木造の西洋式建物が現在でも残っています。

この13人の群馬県での生活の記録は残っていません。冬は空っ風が赤城山から吹き下ろす場所での生活は大変だったと想像に難くありません。

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ブリュナ以外のこれらフランス人のことも忘れないようにしたいと思います。

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当時、彼等は時々、赤いブドウ酒を飲んでいました。それを日本人が見て人の血を飲んでいると噂して、女工のなり手が集まらなかったそうです。彼等、フランス人達の苦労が偲ばれます。富岡製糸場を歩きまわりながら、彼等に対する感謝の気持ちが自然に湧いて来ました。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)


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