後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

武田一族興亡の地をめぐる旅(1)初代、信義が元服した武田八幡宮

2010年09月29日 | 写真

武田一族で偉大だったのは初代の信義と19代目の信玄の2人です。一族の滅亡は信玄の次の勝頼の時です。織田信長・徳川家康連合軍の追撃で、甲府盆地を出て東の大月の岩殿城へ向かって逃げます。しかし岩殿城の謀反により途中の天目山で打ち取られます。1582年でした。その墓は天目山の麓の景徳院にあります。

今回の小さな旅は、武田家初代の信義が元服式をした武田八幡宮から始まって、信虎、信玄、勝頼の3代の屋敷、「躑躅ケ崎館」跡地(武田神社)、信玄が長野から移転させた甲州善光寺、そして天目山の麓の景徳院をめぐる旅をしました。

下の写真は平安時代末から鎌倉時代にかけて源頼朝、源義仲、と並んで覇を競い合った武田信義が館を構えていた韮崎市の武田の里に現存する武田八幡神社と武田の里の風景です。尚、写真の下のは、Wikipedeaの「武田信義」の項目からの抜粋文を参考資料として付け加えます。

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武田 信義(たけだ のぶよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%BE%A9

源清光の次男。逸見光長双子の兄になる(一説に逸見光長とは異母兄弟)。甲斐源氏四代目当主であり、武田信玄で名高い甲斐武田氏の初代当主である。大治3年(11288月15新羅三郎義光の孫である源清光の次男として生まれる。逸見太郎光長と一卵性双生児として生まれた。逸見光長は巳刻に生まれ、武田信義は午刻に生まれる(『尊卑分脈』に記述有り)。幼名を龍光丸・勝千代といった。保延6年(1140)、13歳で武田八幡宮にて元服し、武田太郎信義と名を改める。これ以来、武田八幡神社は甲斐武田氏の氏神となる。武田の名字は河内源氏の一族の源義光(新羅三郎義光)の子・源義清常陸国武田郷(現:茨城県ひたちなか市)から甲斐国に配流されて武田氏を名乗ったのに始まる。

治承4年(11804以仁王の令旨により、甲斐源氏を石和に集結させて挙兵し甲斐国の実権を握る(『山槐記』)。このとき信義は53歳であった。ついで信濃に侵攻し諏訪に進出する。その後、駿河国に進出して駿河目代橘遠茂や長田入道を討ち取り、平家本軍到着以前に駿河を占拠する(『吾妻鏡』)。平家本軍が近づくと弟の安田義定や子の一条忠頼らを引き連れて富士川の戦いにも参戦した。吾妻鏡によると駿河守護となったとされているが、実際には信義は実力で駿河を手中にしていた。その後しばらくの間、東国では源頼朝、武田信義、源義仲の三者が武家の棟梁として並立する時期が続く。


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