八ヶ岳は何度も噴火した大きな火山で、その山麓は広大な高原になっています。そこには美しい風景があり、東京から近いので多くの人が観光に訪れています。
その八ヶ岳に近い所に私の山小屋があります。1974年に建てた小屋です。それ以来、八ヶ岳山麓の美しい風景を写真に撮って来ました。
今日は八ヶ岳山麓の清里、八千穂高原、松原湖、原村の風景写真をお送りしたいと思います。

1番目の写真は北杜市の私の小屋の近所から見た八ヶ岳です。手前の家々は北斗市の白州町です。

2番目の写真は清里の清泉寮の前に広がる牧場です。観光客が自由に入って遊べるので人気のある所です。何時もは子供連れの家族がいっぱい遊んでいます。この脇の売店でジャージー種の牛乳で作ったソフトクリームを朝9時から販売しています。

3番目の写真は八千穂高原の白樺林です。
雄大な八ヶ岳の東側の山麓を走る国道141号線が佐久穂町にさしかかると、「日本一美しい白樺の群落・・・八千穂高原入口」という看板があります。シラカバ林は私の好きな風景です。若い時から憧れていた風景なのです。何度も行って写真を撮って来ました。

4番目の写真も八千穂高原の白樺林です。
その佐久穂町は長野県ですが、南方向に県境を越えると山梨県側の北杜市になります。その北杜市には清春白樺美術館があります。

5番目の写真は八ヶ岳の東側の山麓にある松原湖です。 あれはもう50年以上も昔になりましたが、まだ若かった妻と一緒に散歩した松原湖です。北八ヶ岳の長野県側の小海町にある高原の自然湖です。

6番目の写真は八ヶ岳の西側の山麓にある日本一美しい村、原村から見た八ヶ岳です。

7番目の写真は日本一美しい村、原村の湖と八ヶ岳です。
原村は「日本一美しい村」と自称しているだけあって、確かに美しい村です。原村の道からは東に八ヶ岳と西に北アルプスの山稜がパノラマのように見える風景絶佳の村なのです。
さて八ヶ岳山麓にはもっと沢山美しい所がありますが今日はこれで止めておきます。その代わり八ヶ岳の観光で欠かせない清泉寮というホテルの物語をお送りします。
清泉寮はアメリカの聖公会の宣教師のポール・ラッシュによって昭和13年に作られた宿泊施設です。ポール・ラッシュはやはり聖公会のウィリアムズ主教によって1874年に作られた私立学校の後身にあたる立教大学の教授をしていたのです。
ところが日本の真珠湾攻撃が始まった戦争でそのポール・ラッシュは敵性外人としてアメリカへ強制送還されたのです。日本へ再び行きたい彼はアメリカ軍の将校になりマッカーサーの占領軍の一将校としてやって来たのです。そして清泉寮を復興し、清里地域への開拓民の定着を促進したのです。それまでは清里地域は人の住まない山地だったのです。
現在、清里周辺で高原野菜を栽培したり牧畜をしている人々はでそのポール・ラッシュと清泉寮を大切にしています。
近年はジャージー種の牛乳で作ったソフトクリームが爆発的な人気を博し若者が多数清里を訪れるようになりました。
現在、清泉寮は設備の良いホテルとして一般の人々も宿泊出来ます。新館と旧館がありますが新館のほうが施設が良く、その奥にはポール・ラッシュの記念館もあります。
普通のホテルと違うところは館内に聖公会の礼拝堂黙想室があることです。
この八ヶ岳高原の清里地域は戦前は人のいない荒地だったのです。それが一人のアメリカ人によって開拓が進み、現在は観光地として有名になっているのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==========
清泉寮を作った人:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B3%89%E5%AF%AE
清泉寮は、現在ではロッジ、コテージ、レストラン、キャンプ場などを有する宿泊・研修施設であるが、建設当初の1938年(昭和13年)は、清里開拓の父と呼ばれるポール・ラッシュが指導したKEEP(Kiyosato Educational Experiment Project:清里教育実験計画)の一環としての日米協会青年活動によるキリスト教研修の中心施設であった。当時まだ貧しかった山梨県のこの地に大きな可能性をもたらし、キリスト教信者のみならず多くの人をひきつけた。清泉寮という名称は、1937年(昭和12年)秋に現地を視察した立教大学の高松孝治教授司祭により名付けられた。
以下は省略します。でも続きは是非、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B3%89%E5%AF%AE を開いてご覧下さい。面白いですよ。
その八ヶ岳に近い所に私の山小屋があります。1974年に建てた小屋です。それ以来、八ヶ岳山麓の美しい風景を写真に撮って来ました。
今日は八ヶ岳山麓の清里、八千穂高原、松原湖、原村の風景写真をお送りしたいと思います。

1番目の写真は北杜市の私の小屋の近所から見た八ヶ岳です。手前の家々は北斗市の白州町です。

2番目の写真は清里の清泉寮の前に広がる牧場です。観光客が自由に入って遊べるので人気のある所です。何時もは子供連れの家族がいっぱい遊んでいます。この脇の売店でジャージー種の牛乳で作ったソフトクリームを朝9時から販売しています。

3番目の写真は八千穂高原の白樺林です。
雄大な八ヶ岳の東側の山麓を走る国道141号線が佐久穂町にさしかかると、「日本一美しい白樺の群落・・・八千穂高原入口」という看板があります。シラカバ林は私の好きな風景です。若い時から憧れていた風景なのです。何度も行って写真を撮って来ました。

4番目の写真も八千穂高原の白樺林です。
その佐久穂町は長野県ですが、南方向に県境を越えると山梨県側の北杜市になります。その北杜市には清春白樺美術館があります。

5番目の写真は八ヶ岳の東側の山麓にある松原湖です。 あれはもう50年以上も昔になりましたが、まだ若かった妻と一緒に散歩した松原湖です。北八ヶ岳の長野県側の小海町にある高原の自然湖です。

6番目の写真は八ヶ岳の西側の山麓にある日本一美しい村、原村から見た八ヶ岳です。

7番目の写真は日本一美しい村、原村の湖と八ヶ岳です。
原村は「日本一美しい村」と自称しているだけあって、確かに美しい村です。原村の道からは東に八ヶ岳と西に北アルプスの山稜がパノラマのように見える風景絶佳の村なのです。
さて八ヶ岳山麓にはもっと沢山美しい所がありますが今日はこれで止めておきます。その代わり八ヶ岳の観光で欠かせない清泉寮というホテルの物語をお送りします。
清泉寮はアメリカの聖公会の宣教師のポール・ラッシュによって昭和13年に作られた宿泊施設です。ポール・ラッシュはやはり聖公会のウィリアムズ主教によって1874年に作られた私立学校の後身にあたる立教大学の教授をしていたのです。
ところが日本の真珠湾攻撃が始まった戦争でそのポール・ラッシュは敵性外人としてアメリカへ強制送還されたのです。日本へ再び行きたい彼はアメリカ軍の将校になりマッカーサーの占領軍の一将校としてやって来たのです。そして清泉寮を復興し、清里地域への開拓民の定着を促進したのです。それまでは清里地域は人の住まない山地だったのです。
現在、清里周辺で高原野菜を栽培したり牧畜をしている人々はでそのポール・ラッシュと清泉寮を大切にしています。
近年はジャージー種の牛乳で作ったソフトクリームが爆発的な人気を博し若者が多数清里を訪れるようになりました。
現在、清泉寮は設備の良いホテルとして一般の人々も宿泊出来ます。新館と旧館がありますが新館のほうが施設が良く、その奥にはポール・ラッシュの記念館もあります。
普通のホテルと違うところは館内に聖公会の礼拝堂黙想室があることです。
この八ヶ岳高原の清里地域は戦前は人のいない荒地だったのです。それが一人のアメリカ人によって開拓が進み、現在は観光地として有名になっているのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==========
清泉寮を作った人:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B3%89%E5%AF%AE
清泉寮は、現在ではロッジ、コテージ、レストラン、キャンプ場などを有する宿泊・研修施設であるが、建設当初の1938年(昭和13年)は、清里開拓の父と呼ばれるポール・ラッシュが指導したKEEP(Kiyosato Educational Experiment Project:清里教育実験計画)の一環としての日米協会青年活動によるキリスト教研修の中心施設であった。当時まだ貧しかった山梨県のこの地に大きな可能性をもたらし、キリスト教信者のみならず多くの人をひきつけた。清泉寮という名称は、1937年(昭和12年)秋に現地を視察した立教大学の高松孝治教授司祭により名付けられた。
以下は省略します。でも続きは是非、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B3%89%E5%AF%AE を開いてご覧下さい。面白いですよ。