後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「皆消えてしまった我が故郷にあった東洋館、鹿落温泉旅館など」

2024年07月13日 | 日記・エッセイ・コラム

私は昭和11年年生まれで24歳まで仙台の向山の長町越路という所に住んでいました。

向山という地域は非常に複雑な地形の小山が重なり合っています。伊達藩の時代は、伊達家代々の墓がある大年寺以外は人家のまばらな淋しい所だったようです。

向山という地域は市街地の南端を蛇行しながら流れる広瀬側の南側にあり、広瀬川の岸からいきなり高さ40、50メートルの断崖がそびえたっています。向山はその断崖の上にあります。

市街地から見ると向こうの山地なので向山と言ったのでしょう。明治維新後は人家も少しずつ増えて来たようです。

この小高い向山の断崖の上に立つと、広瀬川の向こうに仙台の白い街が一望できます

風光の良い高台だったので、料亭や割烹旅館がポツリポツリと散在していました。伊達正宗の墓の瑞鳳殿のある経ケ峰から数百メートルずつ離れて、東洋館、鹿落温泉旅館、いかり亭、蛇の目寿司、広瀬寮、観月亭、黒門下の湯、などがありました。大正時代から昭和初期にかけて下の市街地にあった会社の経営者達やお金持ちが使う宴会場でした。夜になると街の明りが美しく見下ろせる場所だったのです。芸者さんが出入りし、三味線の音が絶えなかった場所だったそうです。

向山の奥の方の八木山には、昭和11年にベーブルースが来て、オールニッポンと試合をして、ホームランを打った八木山球場がありました。

八木山は遊山の地だったらしく、その山へ続く入口には「八木山観光自動車」という看板だけが残っている車庫があったのを覚えています。

日清戦争、日露戦争から昭和4年の世界大恐慌までの約30、40年間ほどの間が景気の良い時代だったのです。日本の軍備拡大の波に乗った成金さん達が大らかに遊んでいた時代でした。

昭和4年の大恐慌の後はすっかりさびれ、多くの料亭は廃業した様子です。それは一瞬の栄華でした。

特に、荒れ果てた「いかり亭」の、昔は豪華だった庭や建物は子供の遊び場になっていました。昭和4年の世界恐慌で倒産したのです。

この料亭の庭には滝がながれ、深い池にはアカハラというイモリが住んでいたのです。誰も居ない池でそのアカハラをよく取って遊んだものです。

数年前の仙台、愛宕中学校の同窓会で、「黒門下の湯」の当主の息子さんと偶然会いました。追憶の向山についていろいろ話を聞きました。長徳寺と大満寺、そして愛宕神社は江戸時代から存在していました。しかしその他はすっかり変わってしまったという話でした。

私は1960年に仙台を去りましたが、1960年までは東洋館、鹿落温泉旅館、蛇の目寿司、広瀬寮、観月亭、黒門下の湯の建物は残っていました。

東洋館、鹿落温泉旅館、広瀬寮、黒門下の湯は営業もしていました。蛇の目寿司は古い看板がありましたが子供相手の駄菓子屋になっていました。観月亭は廃業し、朽ちかけた楼だけが広瀬川を見下ろす高台に悠然と建っていました。

しかしその後の高度成長時代にはすっかり新しい住宅街になり、このような料亭や割烹旅館は跡かたも無くなってしまったのです。

2011年に仙台に住んで居る弟から電話があり、鹿落旅館は3月11日の大震災で崩れ、廃業したそうです。その旅館の前の鹿落坂も崩れ長い間通行止めになっていたそうです。建物だけが残ったのは東洋館だけになりました。

風光の良い向山には、金持ちの個人的な別荘も数軒ありました。恐慌で倒産した経営者の別荘だったらしく、全て荒れ果てた廃屋になっていました。小山の上にあった廃屋をお化け屋敷と言って、よく探検に行ったものです。廃屋に入ると立派な玄関があり、奥には白いタイル貼りの温泉のような浴室があったのを覚えています。それらの別荘も消えてしまいました。

現在、向山へ行って見ると何も無いのです。見事に何も無いのです。当時の面影が全然無いのです。私の家族が住んでいた家も消えてしまって更地になっています。そして新しい住宅だけがびっしりと並んでいます。広瀬川の崖の上にはマンションがいくつも聳えているのです。

私の故郷は完全に消えてしまった。人生ははかない。そんな実感です。

インターンットで検索し昔の風景を探しました。以下の写真はインターネットからお借りしました。

1番目の写真は現在でも営業している東洋間です。

2番目の写真は東洋館の客室から見下ろした仙台の中心街です。

3番目の写真は東洋館の下にある鹿落坂です。左手に鹿落温泉の旅館が写っています。

4番目の写真は昔の黒門下の湯です。

この荒れ果てた黒門下の湯の建物は見覚えがあります。満州へお嫁に行く叔母の別れの宴を開いた2階建ての料亭の昔の姿なのです。

このような写真を見ると実に懐かしいものです。あらためてインターネット技術の普及へ感謝します。

今日は1960年まで仙台に存在していた東洋館、鹿落温泉旅館、黒門下の湯などをご紹介致しました。


3 コメント

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私は昭和24年生まれで18歳まで仙台市長町字大窪谷... (渡辺諭)
2014-06-10 09:12:33
私は昭和24年生まれで18歳まで仙台市長町字大窪谷地4の15に住んでいました。現在は埼玉県久喜市に住んでいます。親が向山から八木山に転居し数年前に相次いで死去し管理するため年に4回ほど往復していましたが昨年から人に貸しましたので訪問回数は減りました。後藤様のブログを見て同じとこに住んでいたと感じました。津本陽の『丘の家』に出てくる東洋館にも行ったことがあります。また八木山放送局Netでは向山、八木山の情報が入手できます。http://kirokueiga.seesaa.net 向山の記事を楽しみにしています。
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貴重な地図ですね (向山愛宕中 出身者です)
2018-07-30 14:16:53
こんにちは初めまして。

1960年生まれです。
ふと、黒門下の湯 ってなんだったんだろうと思い、検索かけたところ、こちらにたどり着きました。

1988年まで向山四丁目でした。そういえば、その前は越路53-4でした。
東京世田谷区暮らし、今年で25年、たまに生まれ故郷を思い出しますが、もう向山に家はないので、仙台に行くということもありません。

懐かしい、そして私の知らない情報をありがとうございます。
これからもブログチェックさせていただきます。
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祖父との思い出に満ちた向山 (吉村峰雄)
2022-09-02 17:25:33
先日道南と東北を旅して来、その最終日に仙台に寄りました。仙台は、私を初孫としてとてもかわいがってくれた祖父の住んでいた町で、東京育ちの私にとっても故郷のような特別な存在です。祖父の家は米ヶ袋上町にあり、向山はその家から見上げるような位置にありました。今回も祖父と何度か散歩で訪れた愛宕神社へ行ってきました。帰って来てから旅の記憶を辿るべくGoogleのStreet View見ていて、確か向山には黒門下というバス停があったように思い、Googleで検索したところ後藤様のブログに辿り着きました。読ませて頂くと、祖父母や母から聞いていた懐かしい地名などがいっぱいでした。子供の頃行った、鹿落坂を登り切った右側の道路より一段高くなっていた所に池がありましたが、ここが蛇の目寿司だったのでしょうか。
bu2m-ysmr@asahi-net.or.jp メールアドレスは掲載しないで下さい)
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