後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「私が好きな鎌倉の円覚寺の写真」

2024年04月08日 | 写真
円覚寺にはよく行きました。私が好きな鎌倉のお寺は円覚寺です。平和な雰囲気で境内がゆったりとしています。境内を散歩しながら鎌倉仏教のことを考えます。さっそくですが円私が好きな覚寺をご紹介します。
円覚寺は鎌倉五山の第2の大きなお寺です。境内には総門、山門、仏殿、選仏場、方丈、国宝の舎利殿、12の塔頭(たっちゅう)など多くの建物があります。
しかし今日は禅宗のお寺で重要な坐禅堂の選仏場の写真からご紹介いたします。
1番目の写真は坐禅堂の選仏場の写真です。円覚寺は一般向けの座禅会や学生座禅会など毎日のように座禅会を開催していて誰でも気軽に座禅が組めます。
2番目の写真は坐禅堂の内部の写真です。この坐禅堂は元禄12年(1699年)建立の茅葺き屋根の建物です。
内部には写真にあるように薬師如来立像(南北朝時代)を安置しています。仏殿が再建されるまでは、この堂が仏殿を兼ねていた時代も長かったのです。。
3番目の写真は山門の脚柱の写真です。禅寺らしい粗削りの柱が素朴に立っているだけです
4番目の写真は山門の全体の写真です。
この写真の出典は、http://www.engakuji.or.jp/blog/ です。
5番目の写真は坐禅堂の前の写真です。
この写真の出典は、http://www.engakuji.or.jp/blog/ です。

さて禅宗や座禅のことをごく簡単に書いて置きます。
禅宗はインドの大乗仏教の一つの宗派です。それを中国に来て伝承したのが達磨(ボーディダルマ478−528年)です。彼は、南インドの香至国(こうしこく)の国王の三男として生まれました。詳しいことは、https://true-buddhism.com/history/daruma/ をご覧下さい。
その後、中国でいろいろな禅宗の宗派が出来ましたが、日本に導入されたのは宋時代(鎌倉時代)の曹洞宗と臨済宗、そして江戸時代の黄檗宗の3つの宗派だけです。それぞれの開祖は、曹洞宗は道元さま、臨済宗は栄西さま、黄檗宗は隠元さまです。
禅宗の特徴はお釈迦さまの教えを理解するには経典を勉強することと座禅をすることの両方がもっとも重要だという教義にあります。
このように座禅を重要視する宗派は他にはありません。
しかし坐禅の持つ意味や目的の解釈は、曹洞宗と臨済宗では考え方が別れるようです。
曹洞宗は何かの目的のための手段として坐るのではなく、坐禅そのものが目的であり、坐ること自体に集中する禅の立場にとっています。
日本曹洞宗の祖の道元は、ただひたすら坐ることに打ち込む只管打座(しかんたざ)を唱えています。

只管打座が重要な理由が不立文字の故です。
不立文字とは、「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」の語句の始めの語句です。
その意味は、「経典の言葉から離れて、ひたすら坐禅することによって釈尊の悟りを直接体験する」という意味となり、禅宗の根本を示すものです。
禅は、インドで古くからある精神修行の方法で、それが仏教に取り入れられたものです。
「不立文字」は、中国の禅宗の開祖として知られるインドの達磨(ボーディダルマ)の言葉として伝わっており、「文字(で書かれたもの)は解釈いかんではどのようにも変わってしまうので、そこに真実の仏法はない。したがって、悟りのためにはあえて文字を立てない」という戒めです。
何が何だか煙に巻かれたような説明ですね。
宗教とは何が何だか分からない事を信ずることです。ですから禅宗には深い宗教性があるのです。

さて円覚寺は1282年 中国から招かれた無学祖元により鎌倉に創建されました。
円覚寺は、無学祖元から夢窓疎石へと受け継がれ日本の禅の中心となったのです。
明治以降に禅を西洋に紹介した鈴木大拙は在家の居士として参禅しました。
また夏目漱石も円覚寺の座禅に参じており、その経験は「門」という作品に描かれています。「夢十夜」の第二夜の夢にも座禅の体験が書かれています。

写真は家内が撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「祖父が住職だった正林寺と施餓鬼供養の思い出」

2024年04月08日 | 日記・エッセイ・コラム
私の祖父は兵庫県の曹洞宗の正林寺の住職でした。 叔父も祖父の後を継ぎ住職を長く務めていました。
そのお寺は大阪駅から山奥に入った兵庫県にありました。
現在の正林寺は少し離れた場所に引っ越し兵庫県川辺郡猪名川町内馬場という所にあります。
祖父は和尚でしたが長男の父は仙台の大学に勤めていました。
毎年夏のお盆になると一家揃って兵庫へ里帰りするのが習わしでした。
大阪・梅田から阪急電車です。 能勢口で能勢電鉄へ乗り換え山下駅で降り、あとはタクシーという旅でした。
私は昭和11年生まれですが、記憶に残っているのは4,5歳の頃からと思います。
 里帰りは戦後の昭和26年、中学校3年の夏まで続いたので10年間くらいの記憶であります。

                  1番目の写真は現在の正林寺の写真です。 写真の出典は、http://sp.raqmo.com/syorinji/ です。
お寺は山合いの内馬場という集落の端にありました。 高い石垣を積み、小さな本堂、鐘楼、庫裏、客間の離れ、白壁の蔵が、狭い敷地にまとまって建っています。
石垣の上の白壁の塀の上からは集落全体が箱庭のように見下ろせます。
お寺の生活は子供心に珍しく、いろいろ思い出があります。 一番お面白かったものに施餓鬼法要という儀式があります。 飢饉で悲しくも餓死した農民の供養をするのです。
供養をするため近隣のお寺の住職が10人くらい集まり、本堂で、お経を読み、鐘やシンバルを鳴らして輪になって廻るのです。
曹洞宗がこのように派手な儀式をするのはその後あまり見たことがありません。帰郷した一家は本堂の左奥にある離れに寝ていました。
2番目の写真は施餓鬼供養の場面です。
3番目の写真も施餓鬼供養の場面です。
4番目の写真は施餓鬼供養に集まった村人です。
本堂の左右の客間には集落の人が合掌して座っています。 そして人々は供える野菜や果物を祭壇に溢れるほど持ってくるのです。その施餓鬼法要が終わると叔父の住職は私と弟に子供用の墨染めの衣を着せて集落へ降りて行きます。一軒一軒全ての家を廻って、仏壇へ向かって、お経を唱えるのです。お経が終わると、どの家でも冷やしソーメンと果物を出してくます。 少し食べて帰ろうとすると、お布施の袋を3つ出してくれます。小坊主には小さな袋でくれます。 これが小坊主にとって一番嬉しいのです。 夏の小遣いが溜まるだけでなく、小さなお布施袋を貰うのが嬉しいのです。 一人前の坊主になった気分で嬉しいのです。大学を卒業し、結婚し、生活の苦労をするようになっは能勢電鉄の奥にあったお寺のことは忘れがちになりました。
しかし老境にいたると無性にそのお寺のことが懐かしくなります。
そして祖父母の暮らしを客観的に考えるようになります。
とにかく貧乏なお寺で、後に叔父に聞いたことですが現金収入が一切無かったそうです。
お寺の裏側は山が迫っていて墓地を作れないのです。 集落の端の山裾の彼方此方に墓があったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

「野火止の平林寺」

2024年04月08日 | 写真
埼玉県の新座市にある平林寺をご紹介いたします。
野火止用水のある平林寺界隈には昔ながらの武蔵野の森があちこちにあります。
1番目の写真は平林寺の付近にある武蔵野の森です。農地が広がり、その向こうに森があるのです。
2番目の写真は平林寺の表門です。道の左右には巨大なケヤキが繁っています。
3番目の写真は平林寺の東側にある南北の道路です。道の両側が森になっています。
4番目の写真葉は平林寺の仏堂です。

平林寺は埼玉県、新座市の市役所の向かい側にあります。
南北朝の時代の1375年に大田備中守によって同じ埼玉県の岩槻に創建されました。そして1663年に松平伊豆守信綱の遺児、輝綱によって現在地へ移築されたお寺です。この平林寺は禅の修業で有名なのです。
その境内の雑木林が広大で散策に良いお寺です。
正門前の有料駐車場は駐車料500円です。総門左の受付けで入場料300円を払います。山門、仏殿、本堂を色々な角度から見て楽しことが出来ます。
読経の声が何処からともなく流れて来て良いものです。今日はそんなことを思い出しました。

「私は寺が好きだ!そして東京で最古の寺、深大寺」

2024年04月08日 | 日記・エッセイ・コラム
父の実家は兵庫の片田舎にあるお寺でした。毎年夏になると一家でそのお寺に泊まりに行きました。それでお寺に楽しい思い出がいっぱいあります。私にとってお寺は楽しい所です。そんな訳で近所のお寺へよく散歩に行きます。
今日は少し有名な深大寺をご紹介します。国宝の飛鳥時代の銅造釈迦如来像(白鳳仏) もあります。
さて深大寺は733年に創建され、浅草寺と並んで東京では最も古いお寺の一つです。天台宗別格本山の寺です。武蔵国の国分寺は760年代始め頃に完成していますので、それより20年も古いお寺です。
以前に撮った門前の店と山門などの写真をお送りします。
1番目の写真は山門の左にある店です。門前には名物の「深大寺ソバ」の蕎麦屋や土産物屋が沢山並んでいます。深大寺ソバは家内と何度も食べました。
この土産物屋だけ特に示した理由は店の右に坂道があり、そこを登ると神代植物公園の東口があるからです。
2番目の写真は深大寺の山門です。
3番目の写真は本堂です。阿弥陀如来が本尊の本堂です。
4番目の写真は本堂の左にある元三大師堂です。天台座主、元三慈恵大師の像を本尊にしています。

5番目の写真は深沙大王の像を祀った「深沙大王堂」です。「深沙大王堂」は本堂から離れた場所にありますが、私は必ずお参りします。玄奘三蔵法師を尊敬しているからです。

深大寺を創建した満功上人は玄奘三蔵法師の弟子がはじめた法相宗を学び、玄奘三蔵法師を深く尊敬していました。三蔵法師がインドへ旅した途中、西域の大河、流砂河を渡るときその河の砂の中に住む水神の深沙大王に助けられました。その経緯から満功上人はお寺の名前を深大寺として、650年には深沙大王の像を安置しました。ですから「深沙大王堂」は深大寺で一番古いお堂なのです。
その後、750年頃、このお寺は天台宗に変わります。その関係で、991年には天台座主、元三慈恵大師の像を本尊にし、「元三大師堂」を本堂の左に作りました。以後、江戸、明治、現在に至るまで「元三大師堂」は人々の信仰を集めています。ですから元三大師堂も深大寺で非常に大切なお堂です。

深大寺の本堂は元三大師堂の右側にあります。それは江戸時代からあったものを大正時代に建てかえたものです。
深大寺の寺領は現在の神代植物公園も含めて広大であったといいます。多数の小作人を擁し、寺領の畑には蕎麦を栽培して来ました。江戸時代は代代の将軍へソバを献上し、元三大師堂への参拝客相手のソバ屋が多数あったと伝えられています。現在も参道にはソバ屋が並んでいます。

 深大寺・神代植物園へは中央線吉祥寺駅、三鷹駅からバスが便利です。また京王線の調布駅からも深大寺方面へのバスがあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===深大寺の詳しい歴史===============
もう少し詳しい歴史を加えておきます。(https://www.jindaiji.or.jp/about/ )
(1)天台の法流を汲み、東国第一の台密道場へ
平安時代、清和天皇の貞観年中(八六〇年頃)、武蔵の国司蔵宗が反乱を起こし、この降伏を祈念するために、修験の達者である比叡山の恵亮和尚が勅命をうけ東国に下りました。特に恵亮和尚は深大寺を道場に定めて、逆賊降伏の密教修法を行ない、その平定の功により清和天皇は、近隣七ヶ村を深大寺に寄せられ、寺を恵亮和尚に賜りました。

(2)比叡山より「元三大師自刻像」を迎える
正暦二年(九九一年)第十八代天台座主、慈恵大師すなわち元三大師の自刻像が、大師の高弟である慈忍和尚、恵心僧都両師の意を受けた寛印により遥か叡岳より深大寺に遷座されました。

(3)「元三大師信仰」大いに振るう
徳川期、深大寺の元三大師像の開帳が明和二年(一七六五)七月と文化十三年(一八一六)六月の二回、両国の回向院で執行されています。江戸時代には元三大師堂へ参拝するのが重要だったのです。「元三大師信仰」大いに振るっていたのです。関東地方に比叡山の慈恵大師すなわち元三大師の信仰があるのは珍しいのです。深大寺はその意味で東京では特別な古刹なのです。

(4)銅造釈迦如来像(白鳳仏)の鑑定と国宝指定
像高 83.9㎝のこの釈迦如来像は明治42年(1909)に飛鳥時代7世紀~8世紀初と鑑定されました。そして大正2年に国宝指定となったのです。寺院伝来の仏像としては都内寺院唯一で東日本最古の国宝仏なのです。銅造釈迦如来像(白鳳仏)は「元三大師堂」の左にある特別な建物の中で一般公開されています。

深大寺は古いお寺なのでいろいろな歴史があったのです。例えば深大寺は江戸時代に「元三大師信仰」で大いに賑わったのです。江戸から参拝の来る人が沢山いたのです。現在、元三大師の名前を知っている人はいません。しかし江戸時代には皆が知る重要な信仰対象だったのです。これも歴史の流れです。