梅原龍三郎はパリに5年間住んでルノアールに師事しました。
色彩豊かな絵画を自由奔放に描いて日本の絵画界の重鎮として有名な画家です。特に絵に質感があり見た人に充足感も与えます。
今日はまずフランスで描いた3枚の絵と帰国後に描いた4枚の絵をご紹介いたします。
1番目の写真は南フランスの「カンヌ風景」です。
2番目の写真はパリの「ノートルダム寺院」です。
3番目の写真はパリで描いた「少女アニーン」です。
4番目の写真は帰国後の作品です。梅原龍三郎の傑作と言われている「竹窓裸婦」です。
5番目の写真は「薔薇柿図」です。薔薇の絵は非常に多数描きましたがこれはその一枚です。
6番目の写真は「噴煙」です。
7番目の写真は「北京秋天」です。北京でも紫禁城や天壇の絵を何枚も描きました。
梅原 龍三郎は日本では非常に有名な画家ですので、皆様よくご存知とは思いますが以下に略歴を改めてご紹介いたします。
梅原 龍三郎は1888年(明治21年)に生まれ 1986年(昭和61年)に98歳で没しました。
ヨーロッパで学んだ油彩画に桃山美術、琳派、南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れました。
京都府京都市下京区生まれ生家は染物問屋でした。
京都府立第二中学校を中退し伊藤快彦の画塾、鍾美会で学んだ後、浅井忠が主催する聖護院洋画研究所に入ります。尚、同時期に安井曾太郎も一緒に学んでいました。
1908年(明治41年)フランスに留学し、帰国する高村光太郎のアトリエを引き継いでパリに滞在しました。
パリではアカデミー・ジュリアンに通いながらルノワールの指導も受けました。
1913年(大正2年)に帰国すると、白樺社の主催により東京神田で個展「梅原龍三郎油絵展覧会」を開催します。
このとき白樺社同人の武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦らの知遇を得ました。
翌1914年(大正3年)には二科会の設立に関わり洋画家の亀岡崇の妹、艶子と結婚しました。二人の間には長女、紅良と長男、成四が生まれました。
1920年(大正9年)には前年に死去したルノワールを弔問する名目で再び渡仏します。
1935年(昭和10年)には帝国美術院(現・日本芸術院)会員となり東京美術学校(現:東京芸術大学)教授にもなります。
1952年(昭和27年)に日本が主権を回復し海外渡航が再びできるようになると、梅原は早速東京美術学校教授を辞任して渡欧、ヴェネツィア・ビエンナーレの国際審査員を務めました。
1952年、文化勲章受賞し、翌1953年(昭和28年)に長野県軽井沢町にアトリエを設けます。
1957年(昭和32年)には日本芸術院会員をはじめさまざまな役職を辞し、以後は渡欧を繰り返して自由な立場から制作に励みました。
少年時代からの良きライバルだった安井曽太郎とともに洋画界の頂点を極め、「日本洋画壇の双璧」と謳われたのもこの頃でです。
1973年(昭和48年)、フランス芸術文化勲章コマンドール章受賞します。
1986年(昭和61年)満98歳で死去しました。
晩年に使用した吉田五十八設計の東京都市ヶ谷のアトリエは、山梨県北杜市の清春芸術村に移築されて一般に公開されています。
余談ながら北杜市の清春芸術村は私の山の小屋に近いのでこのアトリエは何度も見ました。シトローエンをアトリエに改造した車も庭に展示してあります。
さて梅原龍三郎の絵画について少し私見を記します。
一言で言えば彼の画風が好きになれません。絵に対する真剣さと丁寧な仕上げに欠ける絵が多いのです。
彼は気楽に多すぎる絵画を描いた結果、完成度の悪い絵が多数市場に出回っているのです。
日本人が何故に梅原龍三郎の世界がそんなに好きなのか私には理解出来ません。
そう言いつつも梅原龍三郎の色彩と質感の豊かさに魅了されています。
今日選んだ7枚の絵はそんな絵の例なのです。やはり梅原龍三郎は日本が誇る不出世の天才です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)