若い友人から自分で書いた本を送ってきました。読み始めたら大変面白く一気に読んでしまいました。何故面白かったか理由を書くのは後にしてこの本の表紙の写真を示します。

この幻冬舎の文庫本は660円で購入出来ます。「時代に創られた偉人黒澤止幾子伝の渾沌」を検索するとAmazonなどのネット販売のページが出てきます。
さて本の内容ですが、茨木県の地方史では有名な黒澤止幾子が何故「勤皇の女傑」と明治時代に有名になり、昭和時代には「日本最初の女教師」として有名になったのかその理由を明快に書いた本です。そして湯浅由三の見解です。「黒澤止幾子は「勤皇の女傑」でもなく「日本最初の女教師」でもなかった。短歌や長歌を沢山作った歌人だった」という結論です。
この本の面白みはこの2つの虚像の出来た茨木県の社会情勢のありさまを克明に調べ正解を出しているところが興味津々なのです。そして全ては虚像だというドンデン返しの謎解きがあるのです。
そのために 湯浅由三は茨木県にある黒澤止幾子に関する全ての文献を根気よく蒐集し読み下しています。その態度は地方史の文献調査をする学者のようです。
そしてドンデン返しの謎解きまでの構成が推理小説のようになっていて面白いのです。
ここで一休みして黒澤止幾子の略歴をご紹介いたします。
黒沢 止幾子は文化3年(1807年)に生まれ、- 明治23年(1890年)に亡84歳で亡くなりました。
常陸国茨城郡錫高野村(現・茨城県東茨城郡城里町)出身でした。名は止幾・登幾・止幾子(ときこ)とも言います。歌人としての号は李恭でした。
若い時代から寺子屋で物書きを子供たちに教えるなどしていましたが、26歳のときに夫と死別します。以降は実家へ戻り生活していました。
1858年に安政の大獄事件が起きます。郷里の殿様であった徳川斉昭を始めとする尊皇攘夷派が弾圧されたのです。黒沢 止幾子はそれを悲しみ斉昭らの無実を訴えに京へと上り、お上への献上歌を公家を通して手渡したのです。
このことが江戸幕府に知られ京都で逮捕されます。幕府が弾圧していた水戸藩とつながりがあると疑われ、厳しい尋問を受けたのです。その裁判の結果、常陸国や江戸への立ち入りを禁止されたために、故郷に近い今の栃木県茂木へと住むことになります。
その後茨木の錫高野村へと戻った止幾子は、村長から小学校の教師をしてくれと依頼され、1873年、正式に日本初の小学校女性教師となったのです。 1890年、85歳で死去しましたが、1907年に明治政府から従五位が追贈されました。
「勤皇の女傑、」と誇張された理由は京へ上りお上への献上歌を差し出したためです。「日本最初の女教師」は1873年、正式に日本初の小学校女性教師になった偶然から有名になったに過ぎないのです。
湯浅由三は最後に書いています。
・・・黒沢 止幾子本来の姿は、歌人、俳諧人としての生涯でした。・・・84歳の生涯の間、歌集35冊、短歌だけでも404首、他に漢詩、長歌、俳句などを数多く残しています。・・・
「くちせずば いつか渡らん みちのくの あぶくま川の そこのうもれ木」
なお。「時代に創られた偉人黒澤止幾子伝の渾沌」にある渾沌は湯川秀樹博士の物理学の随筆にある渾沌のことで普通の渾沌の意味ではありません。著者の博識に頭が下がります。
とにかく 湯浅由三著のこの本は完成度の高い黒澤止幾子の実像の評伝です。ご一読をお勧めします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

この幻冬舎の文庫本は660円で購入出来ます。「時代に創られた偉人黒澤止幾子伝の渾沌」を検索するとAmazonなどのネット販売のページが出てきます。
さて本の内容ですが、茨木県の地方史では有名な黒澤止幾子が何故「勤皇の女傑」と明治時代に有名になり、昭和時代には「日本最初の女教師」として有名になったのかその理由を明快に書いた本です。そして湯浅由三の見解です。「黒澤止幾子は「勤皇の女傑」でもなく「日本最初の女教師」でもなかった。短歌や長歌を沢山作った歌人だった」という結論です。
この本の面白みはこの2つの虚像の出来た茨木県の社会情勢のありさまを克明に調べ正解を出しているところが興味津々なのです。そして全ては虚像だというドンデン返しの謎解きがあるのです。
そのために 湯浅由三は茨木県にある黒澤止幾子に関する全ての文献を根気よく蒐集し読み下しています。その態度は地方史の文献調査をする学者のようです。
そしてドンデン返しの謎解きまでの構成が推理小説のようになっていて面白いのです。
ここで一休みして黒澤止幾子の略歴をご紹介いたします。
黒沢 止幾子は文化3年(1807年)に生まれ、- 明治23年(1890年)に亡84歳で亡くなりました。
常陸国茨城郡錫高野村(現・茨城県東茨城郡城里町)出身でした。名は止幾・登幾・止幾子(ときこ)とも言います。歌人としての号は李恭でした。
若い時代から寺子屋で物書きを子供たちに教えるなどしていましたが、26歳のときに夫と死別します。以降は実家へ戻り生活していました。
1858年に安政の大獄事件が起きます。郷里の殿様であった徳川斉昭を始めとする尊皇攘夷派が弾圧されたのです。黒沢 止幾子はそれを悲しみ斉昭らの無実を訴えに京へと上り、お上への献上歌を公家を通して手渡したのです。
このことが江戸幕府に知られ京都で逮捕されます。幕府が弾圧していた水戸藩とつながりがあると疑われ、厳しい尋問を受けたのです。その裁判の結果、常陸国や江戸への立ち入りを禁止されたために、故郷に近い今の栃木県茂木へと住むことになります。
その後茨木の錫高野村へと戻った止幾子は、村長から小学校の教師をしてくれと依頼され、1873年、正式に日本初の小学校女性教師となったのです。 1890年、85歳で死去しましたが、1907年に明治政府から従五位が追贈されました。
「勤皇の女傑、」と誇張された理由は京へ上りお上への献上歌を差し出したためです。「日本最初の女教師」は1873年、正式に日本初の小学校女性教師になった偶然から有名になったに過ぎないのです。
湯浅由三は最後に書いています。
・・・黒沢 止幾子本来の姿は、歌人、俳諧人としての生涯でした。・・・84歳の生涯の間、歌集35冊、短歌だけでも404首、他に漢詩、長歌、俳句などを数多く残しています。・・・
「くちせずば いつか渡らん みちのくの あぶくま川の そこのうもれ木」
なお。「時代に創られた偉人黒澤止幾子伝の渾沌」にある渾沌は湯川秀樹博士の物理学の随筆にある渾沌のことで普通の渾沌の意味ではありません。著者の博識に頭が下がります。
とにかく 湯浅由三著のこの本は完成度の高い黒澤止幾子の実像の評伝です。ご一読をお勧めします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)