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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

爽快な秋空の下、老境の日々が静かに流れ行く

2018年11月01日 | 日記・エッセイ・コラム
最近は爽快な秋です。
今朝見上げたらサバ雲が美しく広がっていました。



そのサバ雲の下の家の軒先には赤い干し柿が吊り下がっています。

午前中はブログの記事を書いてから、車を動かしスーパーへ買い物に行きました。
家内は重要な用事がある銀行へ自転車で出掛けました。
昼食は天麩羅ウドンです。
午後からは保険屋さんが来てくれました。9月30日の台風24号の我が家の被害の修理代を保険会社が出してくれる手続きをしてくれました。有難くも45万円ほど出してくれると言うのです。
その用事が済んでから家内とシクラメンの鉢3個を買いに行きました。例年、11月になると必ず3鉢買います。
行く道は武蔵野公園に沿った細いみちです。

この写真が武蔵野公園の今日の風景です。
そこから東八道路という4車線の大きな通りに出ます。
住宅街ですが写真のように柿の実がたわわになっている木があったので写真を撮りました。

自転車に乗った主婦は買い物に行くのでしょぅか。
東八道路をさらに東に行ったところにある大型ホームセンターでシクラメンを3鉢買いました。
帰りにある園芸店でさらにパンジー20株と腐葉土を2袋買いました。大きな台車をガラガラ押して嬉しそうに家内が車に戻って来ます。

家に帰ったら3時過ぎです。秋の日は短く、もう夕方の陽射しになっています。

こうして爽快な秋空の下、老境の日々が静かに流れ行くのです。
凡々と生きている幸せをしみじみ感じる毎日です。

蚕糸試験所跡の黄葉 の風景と養蚕の歴史

2018年11月01日 | 日記・エッセイ・コラム
多摩川の中流にある日野市は昔の甲州街道の宿場町でした。
家内の祖父がそこの地主でした。そんな関係で私は1960年の夏以来、日野に何度も出掛けていました。
当時は街道沿いに家々があるばかりで、家内の祖父の古い家の裏から多摩川までは一面の田圃でした。多摩川までは800メートル以上あり、水田だけが広がっていました。
その水田に浮かびように緑の雑木林に囲まれた蚕糸試験所があったのです。
それは不思議な美しい風景でした。
その後しばらくしてから蚕糸試験所が廃止になり、跡地に「蚕糸の森公園」が出来ました。
そこへ行くと若かった頃の家内の姿を思い出します。
何度も行く公園ですが、昨日の午後にも久しぶりに行きました。
撮って来た「蚕糸の森公園」の写真をお送りいたします。まだ黄葉していませんが、お楽しみ頂けたら嬉しいです。









昨日は公園を少しだけ歩きながら養蚕や絹織物の歴史を考えていました。
昔、学校で習ったことですが朦朧として断片的なことしか思い出せません。
帰宅後いろいろネットで調べました。沢山情報が出ています。
その中から、大日本蚕糸会のHPの「養蚕の歴史」を選びました。
文章がよく推敲されている上に、何と言っても養蚕や絹織り物に愛情が感じらるのです。
冷たい知識の羅列でないのです。
皆様は養蚕や絹織物の歴史はよくご存知のこととは思いますがお送りいたします。
大日本蚕糸会、http://www.silk.or.jp/kaiko/kaiko_yousan.html からの抜粋です。

養蚕や絹織物の歴史の目次;
1、古代(こだい)~江戸時代
2、明治~第二次世界大戦
3、 戦後~現在
4、 皇居で作られた繭を使って正倉院の宝物の織物を復元
5、 今にのこる風習・ことば
6、カイコからのおくりもの

1、古代~江戸時代
カイコを育てて繭(まゆ)をとることを養蚕(ようさん)といいます。
養蚕(ようさん)は、中国の黄河や揚子江流域で野生のクワコを家畜化したのがはじまりといわれます。今から5,000~6,000年も前のことです。
はじめは中国の宮廷内だけで秘密に行われていた養蚕も、紀元前1000年くらいになると、一般の農家に養蚕をさせるようになりました。でも、できた絹は、宮廷ですべて取り上げてしまいました。
紀元前200年くらい、漢の時代になると西域との貿易が始まり、異民族を支配するためのほうびとして使われました。こうして、絹の魅力は、中近東へ、そして、ローマまで広まっていきました。やがて、この交易ルートが「シルクロード」(絹の道)といわれ、東西文化の交流に多くの役割をはたしました。

卑弥呼の時代には中国に絹織物を贈っていた 日本の養蚕
日本への養蚕技術が伝わったのは紀元前200年くらい、稲作といっしょに中国からの移住者(日本人の祖先のひとつ)が、伝えたといわれています。さらにAD195年には百済から蚕種が、283年には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えました。
奈良時代には、東北・北海道を除き全国的に養蚕が行われ、産地ごとに等級が決められていて、税として朝廷に集められました。
平安時代になると服装も日本風に変わり、日本独自の紋様の絹織物が作られるようになりました。
鎌倉時代になると質素を好む武士が中心となり、京都の織物は衰退しましたが、地方の産業振興が行われ、絹織物の技術が地方にも広がっていきました。
室町・桃山時代になると、中国から糸に撚りをかける撚糸(ねんし)の技術が伝わり、西陣織が生まれました。京ちりめん、丹後ちりめんなどがこのころから作られるようになりました。能装束や小袖飾りなど実用性を離れ権力を誇示するためのものが多くなりました。

日本の銅がなくなるくらい生糸を輸入した江戸時代;
江戸時代になると、武士以外の人びとの絹着用は禁止されましたが、能装束や小袖などの高級織物は保護され、中国から生糸が輸入され、その支払いには国産の銅があてられました。輸入の増加により国内の銅の大半がなくなるほどでした。こうして幕府は、中国からの生糸の輸入を減らすため養蚕を奨励しました。一方、各藩でも財政の建て直しや下級武士の救済のために、西陣から技術を学び、金沢の友禅染め、山形の米沢織、茨城の結城紬、仙台の仙台平など独自の織物を生み出しました。


2、明治~第二次世界大戦
江戸時代末から勧められた製糸の機械化は、明治時代になるとさらに進み、殖産興業方針により、1872年には群馬県の富岡に官営富岡製糸場がフランス人の設計で建設され、フランス式の最新機械が導入され、フランス人指導者のもとで多くの技術者たちが育ち、各地の製糸技術の向上に貢献しました。

また、関東・中部地方を中心に近代的な製糸工場が建設されました。同時に繭を作る養蚕農家も全国に広がり、養蚕業の最盛期1930年代には、農家の40%で養蚕が行われていました。

日本の近代化を支えた生糸
明治から昭和初期にかけて生糸は日本からの輸出の70%~40%を占めていました。
1900年ころからは中国を抜いて世界一の生糸輸出国になりました。最大の輸出先はアメリカでした。つまり、生糸が稼いだお金で近代化のための機械などを買っていました。

化学せんいの登場により生糸生産量は減少
成長を続けた養蚕業にも転機がきました。1929年アメリカから広がった世界恐慌により生糸が売れなくなりました。さらに、1940年には生糸の最大の輸出先のアメリカで、生糸に代わってナイロンが使われるようになりました。その後、低価格で大量生産ができるさまざまな化学せんいが開発されるようになりました。

3、戦後~現在、

そして戦後の復興期を経て、昭和30年~40年頃に再び養蚕はピークを迎えます。
その当時の様子を聞いたことがありますので紹介しましょう。
■朝の5時から夜まで、桑畑と家をトラックで行ったり来たり
現在は桑の木の垣根で囲った畑で野菜を作る神奈川の白井さんの話です。
普通は倉庫に桑の葉を貯めておくんだけど、たくさん蚕を飼うと倉庫の分では間に合わなくなって、朝の5時にもなると畑でとった桑をトラックで運んで、そのまま蚕に与えて、また畑に桑採り、朝の5時から夜の10時まで、家中で大変だったよ。当時は新聞社なんかで、養蚕農家の表彰もやっていて、それをもらったりもしたよ。真っ黒になって一生けんめい働いたってことだね、と最後に付け足しました。
■昭和初期の養蚕農家の収繭光景
おじいちゃん、おばあちゃんから子供たちまで家族総出で繭を集めています。いそがしい養蚕を終えて、子供たちまでほっとした表情で仕事をしています。回転マブシが普及する前で、ワラで編んだマブシから繭を取っています。

その後、都市近郊の宅地化や農業人口の減少、さらに化学繊維の発達により、養蚕農家は急速に減少しました。こうして、かつては世界一位の生産量を誇った日本の繭生産量は、現在では最盛期の1%以下になっています。
しかし、衣類ばかりでなく、化粧品、食品などに繭が利用されるようになり、良質で安全な日本の繭への需要は強く、新しい養蚕業の創出が求められています。

4、皇居で作られた繭を使って正倉院の宝物の織物を復元;
皇室では古くから養蚕が行われてきました。一時中断していましたが、明治になり復活、皇后陛下が行われる養蚕ということで「皇后御親蚕(こうごうごしんさん)」といわれ、皇居の紅葉山御養蚕所でカイコが飼育されています。
皇室で飼育されているカイコのなかに「小石丸」という日本産種のカイコがいます。江戸時代から明治時代にかけて養蚕の主流でしたが、糸が細く収量が少ないので改良品種に代わってしまい、現在では飼育されているのは皇室と、特別な注文に応じて飼育する一部の養蚕家だけとなってしまいました。
この「小石丸」の糸の太さが古代の糸に近いことから、正倉院に保存されている織物の復元に使われました。
ひとつの繭(まゆ)から取れる糸の長さは小石丸の場合400~500メートルと短く、糸の太さも普通の繭糸にくらべ細いのが特徴です。

5、 今にのこる風習・ことば は省略します
6、カイコからのおくりもの  も省略します。


それにしても養蚕とか絹織物は長い歴史があるのですね。家内の和服は全て絹織物だと言うのですから驚きです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)