後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

経済制裁で激怒のイランとアメリカの立場を分かり易く書く

2018年11月06日 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ米政権はイランの核合意離脱を受けて、イランへの経済制裁を再開しました。
その前日の11月4日には、イラン人達が激怒して1979年11月に起きた在イラン米大使館人質事件を記念したデモで経済制裁を厳しく非難しアメリカへ反発したのです。

分かり難いニュースですが、簡単に言うとイランが核兵器開発を再開するというのでアメリカが怒って経済制裁を再び始めたのです。
これだけを見ると何が何んだか一向に判然としないニュースです。
これを理解するためには親米のパーレビ国王の追放とホメイニ師のイラン革命とそれに続くアメリカ大使館の占拠と大使館員の人質事件などの歴史を考える必要があります。

1941年から1979年までのパーレビ国王時代のイランはアメリカを手本にして近代化を進めた非常に親米的な国だったのです。
それが1979年のホメイニ師のイラン革命後は手のひらを返したようにアメリカの敵国になったのです。
1979年以来いろいろな抗争がありましたが、今回の経済制裁の再開もその一つに過ぎないのです。

今日は錯綜するアメリカとイランの敵対関係の歴史を写真に従って説明したいと思います。
まずパーレビ国王の写真です。

1番目の写真はパーレビ国王です。
彼の名前はモハンマド・レザー・シャーと言い、在位は1941年9月16日 - 1979年2月11日でした。
出生は1919年で死去は1980年(60歳没)でした。
パーレビ国王はイランを近代化した実に傑出した国王でした。
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/モハンマド・レザー・パフラヴィー からの抜粋です。
父である先代の皇帝レザー・シャーの退位により即位し、イランの近代化を進めたが、あまりのも急進的だったためにイラン革命により失脚したのです。

1960年代より、上からの改革を図って経済成長を目指すという、いわゆる開発独裁体制を確立します。
日本の飛躍的な経済成長に注目して1963年からは石油の輸出により獲得した外国資本とアメリカ合衆国による経済援助を元手に近代化革命に着手しました
土地の改革、国営企業の民営化、労使間の利益分配、婦人参政権の確立、教育の振興、農村の開発などの改革を実行してイランの近代化を進めました。
一方、親欧米路線のもと欧米諸国の外国資本の導入に努めたのです。
また自らも英語やフランス語を駆使して親欧米外交を進めるなど、政策の先頭に立っていました。

2番目の写真は1971年、訪米時のパーレビ国王とニクソン米大統領及びニクソン夫人の写真です。
パーレビ国王の政策を支持した欧米諸国、とりわけアメリカ合衆国は革命直前の1970年代に深い関係を続け、1970年代中盤には、まだ他の同盟国にも販売したことのない最新鋭のグラマンF-14戦闘機をイラン空軍に納入したほか、同じく最新鋭のボーイング747旅客機をイラン航空に販売するなど、イランを事実上の最恵国として扱っていたのです。
それは現在のイラン空軍の威力の基礎になっているのです。

ニクソン大統領を会見した後の1979年にはイラン革命が起きパーレビ国王は国外へ亡命します。
1979年1月16日に皇帝専用機のボーイング727を自ら操縦し、最初の妻の出身地でもあるエジプトに皇后や側近とともに亡命し、モロッコ、バハマ、メキシコ、アメリカへと転々としたのです。
するとホメイニ師は2月1日に15年ぶりの帰国を果たし、直ちにイスラム革命評議会を組織しバーザルガーンを首相に任命しました。
そして1879年11月にイランにあるアメリカ大使館の占拠と人質事件が起きたのです。

3番目の写真は大使館前で星条旗を逆さに広げる学生グループの写真です。
大使館の敷地には次々に学生たちが侵入してきたが、大使館の警備にあたっていたアメリカ海兵隊員も、事態の悪化を恐れてこれに対して制止、発砲することをしなかったのです。
学生たちは間もなく大使館の建物内に侵入しこれを占拠し、アメリカ人外交官や海兵隊員とその家族の計52人を人質に、元皇帝のイラン政府への身柄引き渡しをアメリカへ要求したのです。
アメリカはこれを拒否し、52人を人質を救出する特殊部隊を送ります。
しかしこの人質救出作戦は失敗に終わりました。

4番目の写真は人質救出作戦のイーグルクロー作戦中に事故を起こした輸送機の残骸です。
アメリカ政府はイラン政府を懐柔するために、パーレビ国王を12月5日にアメリカから出国させてパナマへ送ることで事態の打開を図ったのです。

その後、イランは仲介国と人質の返還でアメリカと合意し、レーガンが新大統領に就任し、カーターが大統領の座から退任する1981年1月20日に人質が444日ぶりに解放されました。

5番目の写真はアメリカ軍のボーイングVC-137輸送機で444日ぶりに帰国した人質の写真です。
このアメリカ大使館の占拠と人質事件はイランとアメリカの関係を決定的に悪くしたのです。面子を潰されたアメリカは長い間イランを恨み続けることになるのです。
今度の経済制裁の発動はこの延長にある一つの出来事なのです。
イランの核兵器開発再開は一つの口実ではありますが根が深いのです。

今回のアメリカの経済制裁の発動で喜ぶのはイランと敵対関係にあるイスラエル、サウジアラビアと湾岸諸国です。イランを引き込もうとしているロシアと中国です。
国際関係は複雑です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)