後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

東洋と西洋の融合(2)現在も生きている板垣退助の自由民権運動

2017年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
1789年にバスティーユ襲撃で始まったフランス革命は西洋諸国に自由と平等の民主主義を広めるきっかけになりました。
日本でも明治維新後この西洋の思想をいち早く取り入れます。それは自由民権運動として明治時代の初期に燃え上がったのです。
この自由民権運動も西洋の政治思想と日本の政治思想の融合の一つの例です。その結果、新しい日本の政治機構が議会制になり、それは第二次世界大戦後の民主主義へと繋がったのです。
この明治初期の自由民権運動の中心にいたのが板垣退助です。
1882年(明治15年)に暗殺されそうになりながら生き延びた板垣は『板垣死すとも自由は死せず』という有名な一句を残しました。
しかしこの「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は誰が言い出したかは不明なのです。板垣自身が後に「(襲撃を受けた瞬間は)アッと思うばかりで声も出なかった」とも書いており諸説あります。多分、大阪朝日新聞の記者が書いたのかも知れません。
それはさておき、板垣 退助は天保8年(1837年)に生まれ、 大正8年(1919年)に亡くなりました。享年82歳でした。
土佐藩士の武士で明治維新に活躍し新政府の要職につきます。
そして日本の各地で起きた激しい自由民権運動の主導者として知られます。そして「庶民派の政治家」として国民から圧倒的な支持を受けたのです。薨去後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられたのです。
この明治初期の自由民権運動はやがて強権的な明治政府に抑えされ明治天皇を戴く富国強兵策の中で弱体化して行く運命でした。
しかし自由民権運動が日本の民主政治の始まりでもありますのでもう少し詳しく見てみましょう。
自由民権運動を三つの段階に分けることができるようです。
第一段階は、1874年(明治7年)の民選議員の建白から1877年(明治10年)の西南戦争ごろまで。
第二段階は、西南戦争以後、1884・1885年(明治17・8年)ごろまででの運動の最盛期。(この間の明治15年に板垣が襲われたのです。)
第三段階は、条約改正問題を契機として、この条約改正に対する反対運動として、民党が起こしたいわゆる大同団結運動を中心と明治20年前後の運動である。
(以上は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E6%A8%A9%E9%81%8B%E5%8B%95 よりの引用です。)
1873年(明治6年)、板垣退助は征韓論を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視らの国際関係を配慮した慎重論に敗れ、新政府は分裂します。板垣は西郷隆盛・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らとともに下野します。これが明治六年政変です。
下野した板垣は翌1874年(明治7年)、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らと愛国公党を結成します。
政権側の専制を批判するとともに、民撰議院設立建白書を政府左院に提出して、高知に立志社を設立します。
この建白書が新聞に載せられたことで、運動が広く知られるようになります。
この建白書を巡って、民選議院を設立すべきかどうかの論争が新聞紙上で交わされました。
翌1875年(明治8年)には全国的な愛国社が結成されますが、大阪会議で板垣が参議に復帰した事や資金難により、愛国社はすぐに消滅します。
江藤新平が建白書の直後に士族反乱の佐賀の乱(1874年)を起こし、死刑となっていることで知られるように、この時期の自由民権運動は政府に反感を持つ士族らに基礎を置き、士族民権と呼ばれるものでした。武力を用いる士族反乱の動きは1877年(明治10年)の西南戦争まで続くが、士族民権は武力闘争と紙一重であったという見方が正しいようです。。
しかしその後、自由民権運動が高揚します。
1878年(明治11年)に愛国社が再興し、1880年(明治13年)の第四回大会で国会期成同盟が結成され、国会開設の請願・建白が政府に多数提出されます。地租改正を掲げることで、運動は不平士族のみならず、農村にも浸透していったのです。
特に各地の農村の指導者層には地租の重圧は負担であった。これにより、運動は全国民的なものとなっていきました。
例えば現在の東京都多摩地方や町田市でもこの頃、豪農達による自由民権運動が燃えあがったのです。その実態は町田市立の「自由民権運動展示館」に詳しく展示してあります。
この展示館を注意深く見ると、この時期の農村の自由民権運動は地主や豪農を中心にした運動であり、「豪農民権運動」というものでした。
この豪農民権が自由民権運動の主体となった背景には、1876年(明治9年)地租改正反対一揆が士族反乱と結ぶことを恐れた政府のあいまいな政策が原因とも考えられます。
その上、士族民権や豪農民権の他にも、都市ブルジョワ層や貧困層、博徒集団に至るまで当時の政府の方針に批判的な多種多様な立場からの参加が多く見られたのです。
民権運動の盛り上がりに対し、政府は1875年(明治8年)には新聞紙条例の公布、1880年(明治13年)には集会条例など言論弾圧の法令で対抗しました。
このような社会運動の経過なかで明治天皇を中心にした帝国議会の制度が確立しやがて日清戦争や日露戦争が起きたのです。
一般に外国との戦争が起きると国民は一致団結し政府の言うことを聞くようになります。
その後の日本は戦力を増強し西洋諸国の植民地政策に習い海外領土の獲得に努力した歴史は皆様ご承知の通りです。
フランス革命の自由と平等の民主主義が日本へ導入され
日本の社会に融合するためには長年の苦しみがあったのです。
しかしそのお陰と、アメリカ占領軍の指導で、現在の日本はより完全な民主国家になったのです。
このような歴史を想う時、日本と西洋の融合は困難な道のりであったことを知ることが出来ます。

今日の挿し絵代わりの写真は先日撮ってきた信州の仁科3湖の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は北アルプス主峰連山と仁科3湖の写真です。中綱湖は小さいので写っていません。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E7%A7%91%E4%B8%89%E6%B9%96 です。

2番目の写真は木崎湖です。

3番目の写真は中綱湖です。

4番目の写真は青木湖です。

5番目の写真も青木湖です。

東洋と西洋の融合(1)ロダンと荻原碌山

2017年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
信州、安曇野に彫刻家、萩原碌山の美術館があります。
碌山は明治12年安曇郡東穂高村に生まれ30歳結核で死にました。郷里の相馬愛蔵・黒光の店である新宿中村屋で亡くなったのです。

碌山はパリでロダンの作品に感動し、日本へ西洋の彫刻を導入したのです。その功績を忘れるべきではありません。
今回、碌山美術館を見ながら東洋と西洋の文化の衝突と融合を考えました。
明治維新以後にいろいろな分野で起きた東西の文化の衝突と融合を考えながら客のほとんどいない静かな美術館を歩みながら考えました。『東洋と西洋の融合』という連載記事を書いてみようと考えていました。
萩原碌山はニューヨークに住みながらパリにも滞在しました。そこでロダンの彫刻を見て感動し、自分でもブロンズ像を作り始めます。
その前に彼の日本での生活を見てみましょう。
1879年(明治12年)に長野県南安曇郡東穂高村に5人兄弟の末っ子として生まれます。
少年の頃にキリスト教に接し、安曇野で断酒会に入会します。洗礼も受けたのです。
この経験が西洋へ目を向けるきっかけになったと考えられます。
明治34年より渡米、ニューヨークで西洋画を学びます。そして1904年 (明治37年)パリでオーギュスト・ロダンの「考える人」を見て感動し、彫刻家になる決心をします。
1906年 (明治39年)に再び渡仏し、アカデミー・ジュリアンの彫刻部に入学します。
1907年 (明治40年)にはロダンに面会をはたします。そして「女の胴」や「坑夫」などを制作します。
彼はパリで西洋文化の彫刻の魅力を身をもって理解したのです。これこそが東洋と西洋の融合の一例ではないでしょうか?
1908年(明治41年)に帰国し、新宿にて彫刻家として活動を始めます。
そして「文覚」が第二回文展で入選します。
1909年 (明治42年)には「デスペア」を制作し。第三回文展に「北条虎吉像」と「労働者」を出品します。
1910年 (明治43年)に「母と病める子」や「女」などを制作しますが、4月22日急逝します。しかし第四回文展にて「女」を文部省が買上げました。
萩原碌山は30歳の若さでこの世を去りましたが、日本では生前から高く評価され、文部省主催の『文展』にも何度も彫刻を出展したのです。西洋の彫刻の魅力を紹介したのです。このお陰で日本でも数多くの西洋流の彫刻家が育って来たのです。
さてロダンと碌山の彫刻の違いは何でしょうか?
ロダンの彫刻は上野の西洋美術館や箱根の彫刻の森美術館にあります。
そのロダンと碌山の違いを私個人の感じで言えばロダンは力強く自分の哲学を主張しています。西洋人の特徴の自己主張が強いのです。
しかし碌山の彫刻は内省的、繊細で東洋的な美しさを感じさせます。
例えば代表作の『女』は両手を後ろに回し縛られているように見えます。顔は天を仰ぎ悲し気です。体のフォルムは東洋の女です。何故か女の悲しみが感じられるのです。
ロダンの力強い自己主張を真似た「文覚」や「労働者」という作品もありますがロダンほど力に溢れていません。
ですから萩原碌山は彼の独創性で西洋と東洋の文化の融合を示したのです。
そんなことを考えさせる信州、安曇野の碌山美術館への旅でした。
写真で碌山美術館の様子を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は蔦の覆われた碌山美術館の様子です。

2番目の写真は明治42年の第三回文展に出展した「労働者」です。

3番目の写真は碌山美術館の内部の様子です。

4番目の写真は遺作・明治43年の第四回文展で文部省が買い上げた「女」です。

5番目の写真は萩原碌山です。