明治維新によって西洋の宗教が日本に奔流のように流れ込みました。そして当時の学生たちはキリスト教をこぞって受け入れたのです。
札幌の農学校や熊本の洋学校などの新しい学校にはプロテスタントの宣教師が招聘されていたのです。
その結果、明治初期の学生たちはキリスト教に従うとい誓約を集団的に宣言し、各地にこの集団組織が出来ました。この集団を「バンド」と呼びます。
札幌バンド(メソジスト)と横浜バンド(長老派)と熊本バンド(会衆派)は明治初期の三大バンドと言い、その後の日本のプロテスタント系の教会やミッションスクールの発展のもとになったのです。
それはまさしく西洋と日本文化の融合の一つの例です。
そこで今日は明治維直後に出来た「バンド」について概観したいと思います。
まず内村鑑三や新渡戸稲造などを輩出した札幌バンドを見てみましょう。
札幌バンドは、日本のプロテスタントの発祥地の1つと言われています。札幌バンドの中の内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾を中心とする青年の活躍は注目され、横浜バンド、熊本バンドと並んで日本のプロテスタント発祥の3基点の1つに数えられてます。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89 より抜粋)
ウィリアム・スミス・クラークの感化でキリスト教信者になり、「イエスを信ずる者の契約」に署名をした札幌農学校の学生集団は札幌バンドと呼ばれているのです。「誓約」は、キリストの告白、十字架のキリストへの感謝、その表現としての「真実基督教徒たる諸々の義務」を求めると共に、信仰の基準としての聖書を「神の人の言語を以て顕せる唯一なる直接の天啓」として信ずることも要求されていました。ことに注目されるのは、適当な機会がくれば、信仰の諮問を受けた上で受洗し、「或る福音主義の教会に加入すべきこと」を誓約しました。そして青年達は、1878年(明治11年)、メソジスト派の宣教師M.C.ハリスから洗礼を受けました。
1882年(明治15年)、札幌バンドのメンバーは「札幌独立基督教会」を設立してその教会員になります。しかし、その後、宣教師との関係の悪化により、メソジスト派との関係を絶つことになるのです。後に、新渡戸稲造はクエーカー派の信徒になり、内村鑑三は無教会を創始するのです。
一方、熊本バンドは、1876年(明治9年)1月30日に熊本県熊本市の花岡山で、熊本洋学校の生徒34名が、米国人教師L.L.ジェーンズの影響を受けて、自主的に奉教趣意書に署名してプロテスタント・キリスト教に改宗し出来上がりました。この盟約を交わした集団を熊本バンドと言います。しかしその直後に、熊本洋学校は閉校になり、その後、熊本の学生達は新島襄の同志社英学校に移り、卒業後は同志社大学、日本組合基督教会の重鎮になり基礎を築いたのです。
横浜バンドは1872年にアメリカ長老派教会のジェームス・カーティス・ヘボン夫妻と1859年11月にアメリカ・オランダ改革派教会のサミュエル・ロビンス・ブラウンを中心につくられました。日本初のプロテスタントの教会を日本基督公会といい、この集まりは横浜バンドと呼ばれるようになったのです。
そしてヘボンはヘボン式ローマ字を作り、さらに明治学院を創立したのです。
以上のような明治初期のバンドは日本各地に出来、プロテスタント教会が日本の学生社会を風靡したのです。
その様子は下記の日本各地のバンドから想像が出来ます。
築地バンド(長老派、アメリカ合衆国長老教会、日本基督一致教会、日本基督教会)
神戸バンド(会衆派)
阪神バンド(会衆派、アメリカン・ボード、日本組合基督教会)
静岡バンド(メソジスト、カナダ・メソジスト教会)
弘前バンド(メソジスト)
パーム・バンド(長老派)、スコットランド一致長老教会
松江バンド(きよめ派、日本伝道隊)
松山バンド(会衆派、同志社)
鳥取バンド(会衆派、)
ホーリネス・バンド(きよめ派、東洋宣教会、日本ホーリネス教会)
以上のような各地のバンドは日本各地にプロテスタント系のミッション・スクールを開設して日本の教育に大きな貢献をしたのです。
例えば私の郷里の仙台市には宮城学院や東北学院があります。
宮城学院は押川方義が創設したキリスト教(プロテスタント、福音主義:日本基督教団)系の学校で、1886年9月に創立されています。
アメリカ合衆国の改革派教会宣教師W.E.ホーイと押川方義をはじめとする日本人キリスト者たちによって、初めは「宮城女学校」が創立され初代校長にエリザベス・R・プールボーが就任しました。
女性の高等教育機関がほとんどなかった当時の仙台市で宮城女学校はキリスト教に基づく女子の高等教育を行う学校として注目を集めたのです。現在この宮城学院には幼稚園から大学まであり発展しています。
ミッションスクールとしてはこの他に聖公会の立教学院やカトリックの上智大学、フェリス学院、活水学院などなど数多くの学校があります。
このように明治初期に出来た各地のバンドや聖公会やカトリックは日本の教育界に大きな寄与をしてきました。
しかし洗礼を受ける人はごく少なく、日本のキリスト教信者は総人口の3%を越えることはありません。
これも西洋の文化と日本社会の融合のありかたの一つとして興味深い独特の文化的風景と静かに眺めています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は札幌農学校の札幌バンドの青年たちです。
2番目の写真は札幌バンドの内村、新渡戸、広井、伊藤、大島です。
3番目の写真は日本組合基督教会の熊本バンド出身者です。
札幌の農学校や熊本の洋学校などの新しい学校にはプロテスタントの宣教師が招聘されていたのです。
その結果、明治初期の学生たちはキリスト教に従うとい誓約を集団的に宣言し、各地にこの集団組織が出来ました。この集団を「バンド」と呼びます。
札幌バンド(メソジスト)と横浜バンド(長老派)と熊本バンド(会衆派)は明治初期の三大バンドと言い、その後の日本のプロテスタント系の教会やミッションスクールの発展のもとになったのです。
それはまさしく西洋と日本文化の融合の一つの例です。
そこで今日は明治維直後に出来た「バンド」について概観したいと思います。
まず内村鑑三や新渡戸稲造などを輩出した札幌バンドを見てみましょう。
札幌バンドは、日本のプロテスタントの発祥地の1つと言われています。札幌バンドの中の内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾を中心とする青年の活躍は注目され、横浜バンド、熊本バンドと並んで日本のプロテスタント発祥の3基点の1つに数えられてます。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89 より抜粋)
ウィリアム・スミス・クラークの感化でキリスト教信者になり、「イエスを信ずる者の契約」に署名をした札幌農学校の学生集団は札幌バンドと呼ばれているのです。「誓約」は、キリストの告白、十字架のキリストへの感謝、その表現としての「真実基督教徒たる諸々の義務」を求めると共に、信仰の基準としての聖書を「神の人の言語を以て顕せる唯一なる直接の天啓」として信ずることも要求されていました。ことに注目されるのは、適当な機会がくれば、信仰の諮問を受けた上で受洗し、「或る福音主義の教会に加入すべきこと」を誓約しました。そして青年達は、1878年(明治11年)、メソジスト派の宣教師M.C.ハリスから洗礼を受けました。
1882年(明治15年)、札幌バンドのメンバーは「札幌独立基督教会」を設立してその教会員になります。しかし、その後、宣教師との関係の悪化により、メソジスト派との関係を絶つことになるのです。後に、新渡戸稲造はクエーカー派の信徒になり、内村鑑三は無教会を創始するのです。
一方、熊本バンドは、1876年(明治9年)1月30日に熊本県熊本市の花岡山で、熊本洋学校の生徒34名が、米国人教師L.L.ジェーンズの影響を受けて、自主的に奉教趣意書に署名してプロテスタント・キリスト教に改宗し出来上がりました。この盟約を交わした集団を熊本バンドと言います。しかしその直後に、熊本洋学校は閉校になり、その後、熊本の学生達は新島襄の同志社英学校に移り、卒業後は同志社大学、日本組合基督教会の重鎮になり基礎を築いたのです。
横浜バンドは1872年にアメリカ長老派教会のジェームス・カーティス・ヘボン夫妻と1859年11月にアメリカ・オランダ改革派教会のサミュエル・ロビンス・ブラウンを中心につくられました。日本初のプロテスタントの教会を日本基督公会といい、この集まりは横浜バンドと呼ばれるようになったのです。
そしてヘボンはヘボン式ローマ字を作り、さらに明治学院を創立したのです。
以上のような明治初期のバンドは日本各地に出来、プロテスタント教会が日本の学生社会を風靡したのです。
その様子は下記の日本各地のバンドから想像が出来ます。
築地バンド(長老派、アメリカ合衆国長老教会、日本基督一致教会、日本基督教会)
神戸バンド(会衆派)
阪神バンド(会衆派、アメリカン・ボード、日本組合基督教会)
静岡バンド(メソジスト、カナダ・メソジスト教会)
弘前バンド(メソジスト)
パーム・バンド(長老派)、スコットランド一致長老教会
松江バンド(きよめ派、日本伝道隊)
松山バンド(会衆派、同志社)
鳥取バンド(会衆派、)
ホーリネス・バンド(きよめ派、東洋宣教会、日本ホーリネス教会)
以上のような各地のバンドは日本各地にプロテスタント系のミッション・スクールを開設して日本の教育に大きな貢献をしたのです。
例えば私の郷里の仙台市には宮城学院や東北学院があります。
宮城学院は押川方義が創設したキリスト教(プロテスタント、福音主義:日本基督教団)系の学校で、1886年9月に創立されています。
アメリカ合衆国の改革派教会宣教師W.E.ホーイと押川方義をはじめとする日本人キリスト者たちによって、初めは「宮城女学校」が創立され初代校長にエリザベス・R・プールボーが就任しました。
女性の高等教育機関がほとんどなかった当時の仙台市で宮城女学校はキリスト教に基づく女子の高等教育を行う学校として注目を集めたのです。現在この宮城学院には幼稚園から大学まであり発展しています。
ミッションスクールとしてはこの他に聖公会の立教学院やカトリックの上智大学、フェリス学院、活水学院などなど数多くの学校があります。
このように明治初期に出来た各地のバンドや聖公会やカトリックは日本の教育界に大きな寄与をしてきました。
しかし洗礼を受ける人はごく少なく、日本のキリスト教信者は総人口の3%を越えることはありません。
これも西洋の文化と日本社会の融合のありかたの一つとして興味深い独特の文化的風景と静かに眺めています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は札幌農学校の札幌バンドの青年たちです。
2番目の写真は札幌バンドの内村、新渡戸、広井、伊藤、大島です。
3番目の写真は日本組合基督教会の熊本バンド出身者です。