後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

東洋と西洋の融合(5)明治維新と札幌、横浜、熊本バンドの結成

2017年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム
明治維新によって西洋の宗教が日本に奔流のように流れ込みました。そして当時の学生たちはキリスト教をこぞって受け入れたのです。
札幌の農学校や熊本の洋学校などの新しい学校にはプロテスタントの宣教師が招聘されていたのです。
その結果、明治初期の学生たちはキリスト教に従うとい誓約を集団的に宣言し、各地にこの集団組織が出来ました。この集団を「バンド」と呼びます。
札幌バンド(メソジスト)と横浜バンド(長老派)と熊本バンド(会衆派)は明治初期の三大バンドと言い、その後の日本のプロテスタント系の教会やミッションスクールの発展のもとになったのです。
それはまさしく西洋と日本文化の融合の一つの例です。
そこで今日は明治維直後に出来た「バンド」について概観したいと思います。
まず内村鑑三や新渡戸稲造などを輩出した札幌バンドを見てみましょう。

札幌バンドは、日本のプロテスタントの発祥地の1つと言われています。札幌バンドの中の内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾を中心とする青年の活躍は注目され、横浜バンド、熊本バンドと並んで日本のプロテスタント発祥の3基点の1つに数えられてます。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89 より抜粋)
ウィリアム・スミス・クラークの感化でキリスト教信者になり、「イエスを信ずる者の契約」に署名をした札幌農学校の学生集団は札幌バンドと呼ばれているのです。「誓約」は、キリストの告白、十字架のキリストへの感謝、その表現としての「真実基督教徒たる諸々の義務」を求めると共に、信仰の基準としての聖書を「神の人の言語を以て顕せる唯一なる直接の天啓」として信ずることも要求されていました。ことに注目されるのは、適当な機会がくれば、信仰の諮問を受けた上で受洗し、「或る福音主義の教会に加入すべきこと」を誓約しました。そして青年達は、1878年(明治11年)、メソジスト派の宣教師M.C.ハリスから洗礼を受けました。
1882年(明治15年)、札幌バンドのメンバーは「札幌独立基督教会」を設立してその教会員になります。しかし、その後、宣教師との関係の悪化により、メソジスト派との関係を絶つことになるのです。後に、新渡戸稲造はクエーカー派の信徒になり、内村鑑三は無教会を創始するのです。

一方、熊本バンドは、1876年(明治9年)1月30日に熊本県熊本市の花岡山で、熊本洋学校の生徒34名が、米国人教師L.L.ジェーンズの影響を受けて、自主的に奉教趣意書に署名してプロテスタント・キリスト教に改宗し出来上がりました。この盟約を交わした集団を熊本バンドと言います。しかしその直後に、熊本洋学校は閉校になり、その後、熊本の学生達は新島襄の同志社英学校に移り、卒業後は同志社大学、日本組合基督教会の重鎮になり基礎を築いたのです。

横浜バンドは1872年にアメリカ長老派教会のジェームス・カーティス・ヘボン夫妻と1859年11月にアメリカ・オランダ改革派教会のサミュエル・ロビンス・ブラウンを中心につくられました。日本初のプロテスタントの教会を日本基督公会といい、この集まりは横浜バンドと呼ばれるようになったのです。
そしてヘボンはヘボン式ローマ字を作り、さらに明治学院を創立したのです。

以上のような明治初期のバンドは日本各地に出来、プロテスタント教会が日本の学生社会を風靡したのです。
その様子は下記の日本各地のバンドから想像が出来ます。
築地バンド(長老派、アメリカ合衆国長老教会、日本基督一致教会、日本基督教会)
神戸バンド(会衆派)
阪神バンド(会衆派、アメリカン・ボード、日本組合基督教会)
静岡バンド(メソジスト、カナダ・メソジスト教会)
弘前バンド(メソジスト)
パーム・バンド(長老派)、スコットランド一致長老教会
松江バンド(きよめ派、日本伝道隊)
松山バンド(会衆派、同志社)
鳥取バンド(会衆派、)
ホーリネス・バンド(きよめ派、東洋宣教会、日本ホーリネス教会)

以上のような各地のバンドは日本各地にプロテスタント系のミッション・スクールを開設して日本の教育に大きな貢献をしたのです。
例えば私の郷里の仙台市には宮城学院や東北学院があります。
宮城学院は押川方義が創設したキリスト教(プロテスタント、福音主義:日本基督教団)系の学校で、1886年9月に創立されています。
アメリカ合衆国の改革派教会宣教師W.E.ホーイと押川方義をはじめとする日本人キリスト者たちによって、初めは「宮城女学校」が創立され初代校長にエリザベス・R・プールボーが就任しました。
女性の高等教育機関がほとんどなかった当時の仙台市で宮城女学校はキリスト教に基づく女子の高等教育を行う学校として注目を集めたのです。現在この宮城学院には幼稚園から大学まであり発展しています。
ミッションスクールとしてはこの他に聖公会の立教学院やカトリックの上智大学、フェリス学院、活水学院などなど数多くの学校があります。
このように明治初期に出来た各地のバンドや聖公会やカトリックは日本の教育界に大きな寄与をしてきました。
しかし洗礼を受ける人はごく少なく、日本のキリスト教信者は総人口の3%を越えることはありません。
これも西洋の文化と日本社会の融合のありかたの一つとして興味深い独特の文化的風景と静かに眺めています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 

1番目の写真は札幌農学校の札幌バンドの青年たちです。

2番目の写真は札幌バンドの内村、新渡戸、広井、伊藤、大島です。

3番目の写真は日本組合基督教会の熊本バンド出身者です。

戦前の日本の朝鮮併合は正しかったという考えの問題点

2017年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は幾ら年をとっても驚くことが絶えません。次から次へと良い驚き、悪い驚きがあります。
例えば日本が戦前に朝鮮を併合したことは悪いことだったと書きますと、それに対して激しく反発する人が沢山います。
朝鮮併合は朝鮮側から日本政府に依頼してきたのです。近代化の遅れた朝鮮を併合して経済的発展をしてあげたのです。日本が併合しなければロシアが朝鮮を占領したのです。欧米諸国が植民地を持っているので日本も見習っただけです。
種々の理由で、朝鮮併合は朝鮮人にとっても幸せなことだったのです。正しい政策だったのです。
このような主張が安倍政権になり憲法改正が具体的に進みはじめると次第に盛んに言われうようになりました。流石にこのような意見は大新聞には掲載されませんが、インターネットの意見交換の場では盛んになされています。
誤解を避けるために始めに書きますが、私は憲法改正に賛成です。安倍政権にはかなり満足しています。
しかし日本と異なる言語と伝統文化を有する他民族を併合することは悪いことです。倫理的に悪いだけでなく、併合は日本の負の遺産として、将来、日本を苦しめます。
欧米が植民地政策という悪い政策をしているからといって、その悪を見習えば日本も悪いことをすることになるのです。
このように書くと、「人類の歴史は武力占領の繰り返しだったのです。ですから弱い国が併合されるのは当然なことです」というような反論がなされます。
しかし当然のことでも倫理的に悪いことが沢山あります。悪いことは必ず負の遺産として残ります。
それでは朝鮮を併合しないで、一体どうすれば良かったのしょうか?
朝鮮を独立国家として認め、日本が軍事的な支援をしてロシアに対抗する可能性も考えられます。併合しないで保護国として朝鮮固有の文化を尊重するのも可能だったかも知れません。
日本のやり方が乱暴すぎたのかも知れません。
朝鮮併合で上海に出来た朝鮮の亡命政府が現在の韓国政府に連続しているのです。韓国の憲法にそのように明記してあります。
上海にあった亡命政府の代表の一人だった李承晩が戦後の韓国の初代大統領になったのです。彼は一方的に李承晩ラインを日本海に引き日本の漁船を締め出したのです。
このような日本と韓国の間の歴史を大きな視野で考えることが将来の日韓関係にとって重要なことではないでしょうか?

慰安婦問題だけに感情的にならないで大きな視野で考えることが重要だと思う今日この頃です。

今日の挿し絵代わりの写真は、KITAHOさんの「デジカメ散歩」からお借りした花の写真です。出典は、http://kitaho321.blog25.fc2.com/ です。
写真は順々に、ゲラニューム・ジョリー・ビー、トマトの花、山椒の実、ヤマアジサイ、そして最後はオカトラノオです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)