親しかった人や愛する人との別れは悲しいものです。悲しい惜別です。
そして別れにもいろいろあります。
もう随分と昔の、1973年の頃ですが、ある方と不思議な別れ方をいたしました。
カトリック立川教会で知り合った神学生の山本さんと門間さんが神父になって何処かに行ってしまったのです。お二人とはほんの立ち話をするだけでしたが、その清々しい雰囲気に圧倒されていました。それから間もなく東京カテドラルで彼らが神父になる叙階式があったのです。
出席してその叙階式の一部始終を見ました。途中で新しく神父になる人が床に長々とうつ伏せになったのです。下の写真では2人の叙階を受ける人が床にうつ伏せになっています。
それは不思議な光景です。この世と別れて自分は死にます。そしてこの身を神へ捧げますという意味のように見えます。
ああ彼等とはもう気楽に話も出来ない遠い所に行ってしまったのです。
一緒に出席していた家内が「叙階式は結婚式とお葬式を一緒にしたようですね。嬉しくて悲しい不思議な式ですね」と言います。新しく神父になる山本さんと門間さんの母親の気持ちを想像していたようです。
私も何故か悲しい思いをしながら叙階式から帰って来ました。
その山本神父は洗礼を受けたとき私の代父をしてくれた山本大二郎さまの息子さんだったのです。
山本量太郎神父さんとはそれ以来会っていませんでした。
ところが2000年頃になって、私共の通っているカトリック小金井教会の主任司祭として着任したのです。それは劇的な再会でした。そして10年間お世話になったのです。
このようなこの世での別離には再会の喜びがあるものです。
そして、この体験は私どもにとっては小さな奇跡のように思えたのです。
このように再開出来る別れもありますが、人間の死に会えば、この世での再会はかないません。永遠の別れです。それだけに悲しみも深いものです。
そこで人々はお葬式を行います。日本では仏教に従ったお葬式が多いようです。
その仏教的教えでは僧侶がお経をあげて故人をあの世へ送り出す儀式です。
そして送る出すとき故人に戒名を与えてお釈迦様の弟子にしてから送り出すのです。ですから、お葬式はあたかも故人の出家の儀式のような意味を持っています。これは宗派によって多少違いますが、そのような宗派が多いのです。
お釈迦さまの弟子になってあの世で幸せに暮らせるように祈ることが「冥福を祈る」ことになります。この仏教式お葬式については下記の記事で説明しましたので今日は致しません。
趣味としての宗教あれこれ(14)何故、お葬式でわけの分からないお経を読むのか?(5月14日掲載記事)
キリスト教では死とは天にもともとあった自宅に帰ると考えます。ですから死ぬことを帰天と言います。
親しかった人や愛する人との別れは悲しいものです。深い海のように底知れない悲しみです。宗教だけで癒されるものではありません。周囲の人々の暖かい支えも重要です。
そして宗教的な理解の仕方も少しは役に立つと信じて、少しだけ書いてみました。
死者に手向ける花々は春の花が良いと思い下にこの春に撮った写真をお送りします。
一番下の写真の小道を見て、私は親しかった故人たちが歩いて去って行った道を想像しています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
(上の写真は東京司教区ニュース:http://www.tokyo.catholic.jp/text/kyokunews/2002/kn191b.htm から転載しました。)
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