後藤和弘のブログ

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ヨーロッパ文化の闇(6)1000万人もの奴隷貿易と広大な植民地

2013年11月04日 | 日記・エッセイ・コラム

ヨーロッパ文化の悪口を書くのは簡単なことです。しかし書きながら日本文化の暗い闇を考えています。人間やることは似たりよったりと思いながら書いています。しかし彼らのやることはスケールが圧倒的に大きいのです。もし善悪に大小があるならヨーロッパの悪は抜群に大きいのです。

例えば「奴隷貿易」で奴隷として売買されたアフリカの黒人の総数は、いろいろな研究によると900万人から1100万人となっています。

「奴隷貿易」は15 世紀から19世紀前半まで続行されましたが、それに関わる国は、スペン、ポルトガルから次第にイギリスへと変わりました。そして、その貿易形態は、イギリス(フランスも含む)とアフリカと南北アメリカの「三角貿易」に変わって行くのです。

奴隷を集めるのは主にアフリカ人自身で、仲買をするのがアラブ人。船で運んで売るのがヨーロッパ人。買う人はカリブ海の欧米の植民地諸島や南北アメリカのヨーロッパ人農園経営者。こんな構図で行われていたようです。下の絵はその様子はを描いたものです。

Africanslavestransport1
(出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93です)

この奴隷貿易は人道上許されるものではありません。

流石に欧米人もそのことに気づき、イギリスは1807年に奴隷貿易禁止を決め、その後、カリブ海の植民地の島々では19世紀中ごろまでに奴隷貿易が禁止されました。北アメリカでも南北戦争で北軍が勝つと奴隷制度の廃止が宣言されました。

奴隷貿易や奴隷制度が廃止されましたが奴隷の子孫たちは差別され、北米では黒人差別として長く残ったのです。

アメリカ大統領に黒人のオバマ氏が就任しましたが黒人差別は完全に無くなった訳ではありません。

さてもう一つの「ヨーロッパ文化の闇」は世界中に植民地を作って、他民族を搾取したことです。

特にイギリスはカナダ、オーストラリア、ニュージーランドを連邦国として併合し、アジアでは香港、シンガポール、マレーシア、ボルネオの一部、ミャンマー、インド、パキスタンなどを植民地にしたのです。そしてオランダはインドネシア、フランスはベトナム・ラオス・カンボジアを植民地にしました。フィリッピンはアメリカの植民地です。この趨勢ではやがて日本も欧米の植民民地になるのは時間の問題だったのです。

現在のイスラム過激派のテロ行為は欧米が地中海南岸のアフリカ地域と中近東のイスラム教圏を保護領にしたり植民地にして、中世の十字軍国家の設置を再び再現したことが大きな原因になっているのは明らかなことです。

フランスはスペインの対岸のモロッコとアルジェリアを植民地にし、イギリスはエジプトを保護領にします。そして現在紛争の絶えない中近東地域をフランスとイギリスはモザイク模様のように保護領という名称の植民地にしたのです。

その上、イギリス、フランス、ドイツなどはアフリカ全土に植民地を持ったのです。

この地域のイスラム諸国が欧米を恨みに思い、機会があれば復讐しようとするのは人間としての当然な考え方です。

その上、イスラム圏のパレスチニアにユダヤ教のイスラエルという国家を欧米の力で無理やり作ってしまったのです。これがイスラム諸国の反感を一層かきたてたのです。

このような「ヨーロッパ文化の闇」を考えると20世紀末から21世紀にかけてのイスラム過激派のテロ行為には長くて深い歴史的な原因があるのです。

そのテロ行為の復讐戦としてアメリカはアフガニスタンとイラクを占領し、そこに親米傀儡政権を樹立しています。そしてパキスタン西部に潜むイスラム過激派を無人機で攻撃し、その幹部を殺戮し続けているのです。

これではイスラム過激派と欧米のテロによる局地戦はいつまでも続くはずです。

この21世紀の戦争も「ヨーロッパ文化の闇」が生んだ一つの鬼っ子とも言えます。

そのような闇は私の心にも日本文化にも根付いているのですから困ったものです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

======奴隷貿易に関する参考資料================

奴隷貿易とは?:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93

大航海時代に、15世紀から19世紀の前半まで、とりわけ16世紀から18世紀の時期に、主にヨーロッパ(イギリス)とアフリカとアメリカ大陸を結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民を対象として展開され、西インドのプランテーション経営に必要な労働力となった(→三角貿易)。

人数:

約3世紀に及ぶ奴隷貿易で大西洋をわたったアフリカ原住民は1,500万人以上と一般にはいわれているが、学界では900万人-1100万人という、1969年のフィリップ・D・カーティンの説を基にした数字が有力である。多数の奴隷船の一次記録の調査で、輸送中の死亡率がそれまで考えられていたほど高くなかった(平均13%、なお奴隷船は船員にとっても過酷な職場であり、船員の死亡率は20-25%に達している)、輸出先での人口増加率が意外に高いと推定される、というのが説の根拠である。ただし、カーティンの説(彼自身は900万人強を提唱していた)には、一次記録が存在しない16、17世紀初頭に関しての推定数が少なすぎるという批判もあるが、そうした批判を踏まえても1200万人を超えることはないと考えられる。

初期の貿易のシステム:

1480年代にはエルミナ城(黄金海岸)が建設される。特に1480年代には、ポルトガルとスペインで独占的な奴隷貿易会社ギニア会社が設立されるにいたった(勅許会社)。この時代、カリブ海地域のスペイン領向けとして、ポルトガルの独占下で奴隷を売ってもらえないイギリスの「冒険商人」による「奴隷狩り」が散発的に行われ、中でもジョン・ホーキンスとフランシス・ドレークの航海は有名である。しかし、誤解も多いが、映画に見られるような白人による「奴隷狩り」はごく稀なケースである。その後、奴隷貿易の主導権がオランダ、フランス、イギリスなどに移り変わっても、特許会社が現地に要塞/商館/収容所兼用の拠点を置き、現地勢力が集めた奴隷を買い取って収容し、それをさらに船に売り渡すという形式のみとなる。そして時代が下るにつれて、ウィダー王国、ダホメ王国、セネガンビアなど西アフリカ地域のアフリカ人王国は、奴隷貿易で潤うようになる。売られた人々は、もともと奴隷、戦争捕虜、属国からの貢物となった人々、債務奴隷、犯罪者などだったが、コンゴなどでは、ヨーロッパ人に売却する奴隷狩りを目的とする遠征も頻繁に行われた。16世紀には、ナイジェリア(ラゴス)などでも奴隷をポルトガル商人に売却するようになった。(以下省略)

奴隷貿易の禁止:

奴隷貿易に対しては、その開始と同時に宗教的および人道主義の立場から批判が起こっていたが、特に18世紀後半以降、宗教的/人道主義的意見と、奴隷価格の高騰という植民地側の事情がかみ合った。19世紀初頭には、まず(奴隷制度では無く)奴隷貿易禁止の機運が高まり、イギリスは1807年、世界に先駆けてアフリカ人奴隷貿易禁止を打ち出し(en:Slave Trade Act 1807)、ナポレオンとの戦いで海軍力が慢性的に不足している中でも、アフリカ沿岸に多数の艦艇を配置して奴隷貿易を取り締まり、ラゴスなどポルトガル人の奴隷貿易港湾を制圧した。奴隷貿易廃止によってボーア人の深刻な労働力不足が引き起こされた不満から1835年にグレート・トレックが起こっている。なお、奴隷貿易廃止と植民地化に伴う現地の労働力の確保と結びつける考えがあるが、これは全く根拠の無い間違いである。奴隷貿易の中心である西アフリカ、東アフリカの沿岸地帯の植民地化が始ったのは、少なくともイギリスに関しては、19世紀半ば以降のことで、1880年には南アフリカでボーア戦争が開始された。

その後、カリブ海地域で成立した近代奴隷制は、19世紀前半期に次々に廃止されていった。イギリス領諸島では1833年、スウェーデン属領では1846年、フランス領では1848年、オランダ領では1863年に、奴隷制が廃止された。こうした動きの中、アメリカ合衆国では南北戦争での連邦軍の勝利によって奴隷制は全廃された。(以下省略)