後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

可憐な野菊の写真をお楽しみ下さい

2013年11月03日 | 写真

Img_1487

Img_1514

Img_1491

Img_1499
今日は午前中にミサに行き、午後から府中郷土の森博物館公園を散歩しました。

カエデやケヤケの紅葉が始まったばかりで、見ごろは来週になりそうです。

道辺にいろいろな色の可憐な野菊の改良種?が咲いていました。上の写真がその一部です。

ついでにプラネタリュームに入り、秋の星空をゆっくり眺めて来ました。こんな美しい星空はプラネタリュームでしか見られなくなった現在の夜空を悲しく思います。他には「FURUSATO 宇宙からみた世界遺産」という世界の3ケ所の世界遺産の大型映像の映写が圧巻でした。

実は明日の午前11時から「銀河鉄道の夜」の正座と大型映像があるので明日も行くつもりです。

この公園には広い無料駐車場があり、公園への入場料が大人200円です。

その中の立派な常設展示館は無料ですが、プラネタリュームへの入場には更に400円かかります。子供はすべて安くなります。

このような広大で、常設展示館もプラネタリュームある公共の施設へ感謝の気持ちが湧いてきます。行く度に感謝しています。

下にプラネタリューム関連の写真を示します。

 

是非、一度お出掛けになってみて下さい。
Img_1521 Img_1522


ヨーロッパ文化の闇(5)ドイツ騎士団が武力で異教徒をキリスト教へ改宗させる

2013年11月03日 | 日記・エッセイ・コラム

中世ヨーロッパにおいて重要だった騎士修道会のことを日本では騎士団と略称して、修道会を省略します。ですからそれを領主や王様に雇われた騎馬軍団と誤解されています。

しかしこの組織で一番重要なことは修道僧が騎士を兼ねていることです。

修道僧ですから、その一生を神へ捧げ、独身を通し、従順、献身、などの厳しい戒律を守っています。白い僧衣を着て毎日、早朝から何度も祈るシトー派修道会の戒律に似た規律を作って守っています。

それを私が何故、「ヨーロッパ文化の闇」と書くのか、その理由はこの記事の最後に書きます。

それよりもまず分かりやすい2つのことから書きます。

現在、ハンガリーで事業をしているある友人から直接聞いたことです。ハンガリーで救急車を呼ぶとよくドイツ騎士団の救急車が来るそうです。他の組織の救急車は来るのが遅くてあてにならないそうです。

驚きは、とっくに消滅したと思われているドイツ騎士団が現在でも存在していることです。ドイツ語のHPも持っています。(http://www.deutscher-orden.at/content/site/home/index.html

騎士が馬のかわりに救急車に乗って急病人を助けに来ることです。

さてドイツ騎士修道会はどこからその潤沢な活動資金を得たのでしょうか?

それは中世のヨーロッパの数多くの領主や王族が進んで寄付をしたのです。

そのようなこの世の権力者達はイエス様の教えの、「肉欲を捨て、隣人を助け、神に祈れ」という言葉を守れないのです。それを自分たちの代わりに実行してくれる騎士修道会へ罪障の気持ちも込めて多額の寄付をするのです。

その上、うまくすると騎士たちは自分の領土も守ってくれると期待するのです。

そのような訳で中世の騎士修道会は資金が余り、王族にお金を貸したりするものさえありました。

これらの中で、ドイツ騎士修道会は現在のリトアニア、ポーランド西北部、ロシアのカリーニングラード、に跨るバルト海東南沿岸を占領し、プロイセンという国家を作ってしまったのです。

その大義名分はバルト海沿岸に住む異教徒を征服し、カトリックに改宗させることにありました。当然、ローマ教皇も大きな支援をします。

それは1236年の頃でした。ドイツ騎士団がバルト海沿岸の武力制圧を完成したのです。

そしてそれがドイツ騎士団領となり後にプロイセン国家になったのです。

この国家は1466年にポーランドに敗北し、ポーランドの従属国家になったのです。

このドイツ騎士団の活躍の詳細については下の参考資料をご覧下さい。

中世の騎士修道会を私が何故、「ヨーロッパ文化の闇」と書くのか?

その理由を最後に書きます。

それはイエス様が武力を使うことを禁じたからです。「私はローマ人をエルサレムから追い出すために、武力を使わない」と言って、武力蜂起を期待していた人々へ宣言したのです。

イエス様の役目は全ての人々の罪の償いのために十字架につくことだったのです。

イエス様は、「騎士の武力で異教徒をカトリックに改宗させなさい」とは絶対に言わなかったのです。武力行使はこの世の欲望に弱い人間が勝手にすることなのです。

異教徒の改宗のために武力を使ったことは、「ヨーロッパ文化の闇」の一つなのです。ついでに言えば私の心にもそのような闇が沢山あります。私はドイツ騎士団を尊敬はしませんが軽蔑は出来ません。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=======参考資料============

(1)ドイツ騎士修道会:増永純也の研究資料:http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~tamaki/joyama/joyama99/99msng.htm#hajimeni

十二世紀末に創設されたドイツ騎士修道会(ドイツ修道騎士団、ドイツ騎士団とも通称される)は、十字軍運動のただなかにあったこの時代に成立した特殊な宗教的・軍事的組織たる「騎士修道会」のうちの一者であり、同種の組織としては著名なテンプル騎士修道会・聖ヨハネ騎士修道会とならび三大騎士修道会とも称されるものである(1)。

 これらの騎士修道会(2)とはいずれも、キリスト教徒の保護およびそれを脅かす異教徒に対する攻撃というカトリック的理念、そして騎士制度と修道会制度の結合とに基づいて結成された組織である。彼らは封建貴族勢からなる一般の軍隊に比して高い士気と優れた組織力によって聖地周辺における十字軍の主要な一角を担い、またキリスト教徒の巡礼や傷病者の保護・救済にも多大な成果を発揮した。このような理念と活動とによって、また霊肉の合一を成し遂げた理想的人間像の集団と見なされたがゆえに、騎士修道会は当時の社会において軍事的・宗教的に重要な意味を有し、ヨーロッパ全土の世俗君主を中心とする無数の人々から土地・貨幣をはじめ様々な形態の莫大な寄進を受けることとなった。同時に教皇は騎士修道会を自身に直属する特別な地位に置き、この組織に対して数々の特権を授与した。こうして獲得された財産はシトー派修道会制に基礎を置いた強固な規律と統制のもとで運用されることによって更に増加し、騎士修道会の有する経済的影響力は拡大されていった。その結果、先に述べた三大騎士修道会はいずれも広汎な地域にまたがる所領群と莫大な財貨、精強な軍事力を兼ね備えた強力な組織へと発展したのである(3)。

(2)ドイツ騎士団   http://kotobank.jp/word/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E5%9B%A3

中世の三大宗教騎士団(十字軍時代に、騎士道精神と修道院精神との結合を目ざし、聖地巡礼の守護を主任務として結成された修道会。テンプル騎士団・ヨハネ騎士団・ドイツ騎士団などがあり、対異教徒戦や辺地の開拓に活躍した。騎士修道会。)の一。第3次十字軍の際に創設されたドイツ兵救護のための病院を起源とする。13世紀から14世紀にかけてドイツ東北部の植民と改宗運動を行い、プロイセンの基礎を築いたが、次第に勢力が衰え、16世紀初頭に解体。チュートン騎士団。

ドイツ騎士団の絵(http://www.hobbyshop-sunny.co.jp/www/scale/view.php?id=13190

60191

(3)北方十字軍(ほっぽうじゅうじぐん)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%96%B9%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8Dあるいはバルト十字軍は、カトリックのデンマーク、スウェーデン、リヴォニア帯剣騎士団、ドイツ騎士団によって開始された十字軍のことで、すなわち北ヨーロッパおよびバルト海沿岸の異教徒に対して行われたカトリック教会諸国の同盟による遠征である。

12世紀までに、現在はエストニア、ラトビア、リトアニアとして知られている土地に住んでいた非キリスト教徒の人々は、興隆するキリスト教国(カトリックの西欧諸国と、正教会のロシア諸公国)の間に「異教のくさび」を形成していた。その後150年以上の間、この地域へのドイツ人十字軍の到来にはじまって、エストニアはロシアの諸公国から、またデンマークとスウェーデン王国から13回もの攻撃をうけた。エストニア人の一部はデンマークとスウェーデンに対して反撃を加えた。(以下省略)

=====================

(4)http://drupal.cre.jp/node/1719 も見よ。

Rekiwestasia241

http://blog.goo.ne.jp/abc88abc/e/00f8149ad182dce6515fa7b249b697dd

==========================

(5)ドイツ騎士団 http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E5%8C%97%E6%96%B9%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D_%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E5%9B%A3

北方十字軍は、12世紀終わりにパレスチナで設立されたドイツ騎士団のドイツ人騎士たちに、成長と拡大のための理論的根拠を提供した。ムスリムによって聖地が再支配され、シリアおよびパレスチナにあった十字軍国家がすべて消え去ったことにより、騎士団は新たな使命をヨーロッパで探していた。また、騎士団は当時拠点としていたハンガリー王国でハンガリー王と対立していた。1226年、異教のプロイセン人の度重なる侵入に悩んでいたポーランドのマゾフシェ公コンラート1世は、騎士たちに東部国境守護とプロイセン平定を依頼した。ドイツ騎士団はマゾフシェ公国の傭兵としてプロイセンを征服すると、リトアニア大公国と戦った。

リヴォニア帯剣騎士団が1236年の太陽の戦いでリトアニア人に敗れたとき、同時にエストニアでも反乱が続発し、リヴォニア騎士団はドイツ騎士団によって吸収合併され、ドイツ騎士団にはバルト海地域を支配した。この支配権の正当性を巡ってはポーランドとの間で争いが発生した。ドイツ騎士団は最終的にリトアニアの征服に失敗したが、リトアニアは1385年、公式にキリスト教に改宗した。しかし、のちのコンスタンツ公会議で示されたようにドイツ騎士団はこのキリスト教化を全く認ず、偽りの改宗であり大罪であるとした。また、プロイセンに居座った騎士団とポーランドとの間の争いも深刻化した。(以下省略)