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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

松崎の天才、入江長八の漆喰画(鏝絵)の世界

2012年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム

西洋の近代絵画、特に印象派以後の絵画だけを芸術と崇拝し、日本の絵画をひどく見降ろしている変な日本人がいます。明治維新以来の「上等舶来」(上等なものは全て西洋から船に乗って来る)という偏狭な思想に取りつかれた悲しいインテリ達です。そんな風潮のあった江戸時代末期と明治時代に江戸、東京で大活躍した天才左官、入江長八の鏝絵は大切にされませんでした。火災や戦災で東京にあった多数の長八の傑作は消滅してしまったのです。

しかし故郷の伊豆、松崎にあった長八の作品は戦災を免れ、最近、多くの人々の脚光を浴びるようになったのです。

長八は幕末に松崎の浄感寺にあった塾で学び、23歳で江戸に出て、狩野派の絵師に絵画を学び、それを漆喰細工へ応用し、独創的な漆喰を用いた「鏝絵」を生み出したのです。幕末の江戸で「鏝絵」が有名になり、多くの注文で多忙になります。しかし31歳の時、弟子2人を連れ、故郷へ一時戻ります。塾生として学んだ浄感寺への恩返しのために帰ったのです。そして本堂の天井に有名な龍の鏝絵や客間の欄間に天女の絵や室内を飾る鏝絵など合計20点の鏝絵を完成したのです。現在その本堂と左右の客間は「長八記年館」として公開されています。先週の5月15日に訪れてきました。

彼はその後また江戸へ戻り、明治維新後の東京で活躍します。

伊豆の松崎市はあちこちにある長八の作品50点を蒐集し、立派な「長八美術館」を建て、一般公開をしています。長八の作品は鏝絵だけではなく多くの建物の美しいナマコ壁としても残っています。

下にその作品の写真を示します。上の4枚は家内が撮ったもので、下の2枚は検索して転載した画像です。「長八の鏝絵」と検索すると非常に多くの写真が出て来ます。

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参考資料:

入江 長八(いりえ ちょうはち、文化128月518159月7 - 明治22年(188910月8)は江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した名工左官職人)、工芸家なまこ壁鏝絵といった漆喰細工を得意とした。

鑑賞に拡大鏡が必要であるほど緻密な細工をこらした作品が多い。入江の生活拠点が江戸であったため作品は東京地区に集中しており、大半が震災戦災で焼失してしまっている。現存する約45点は、東京都品川区高輪泉岳寺、同区東品川の寄木神社、足立区の橋戸稲荷、千葉県成田山新勝寺などに残っている。

故郷の静岡県松崎町には、前述の浄感寺の「長八記念館」に約20点と、1986に開館した「伊豆の長八美術館」に約50点が展示されている。また重要文化財の岩科学校や、春城院、三島市龍沢寺など故郷周辺に点在している。

文化12年(1815伊豆国松崎村明地(現在の静岡県賀茂郡松崎町)に貧しい農家長男として生まれた。6歳で菩提寺の浄感寺塾に学ぶ。11歳のとき同村の左官棟梁、関仁助のもとに弟子入りする。その当時から手先の器用さで知られた。

天保4年(183320歳のとき江戸へ出て御用絵師である谷文晁の高弟、狩野派喜多武清から絵を学ぶ一方、彫刻も学んだ。絵画や彫刻技法を漆喰細工に応用し、従来は建物の外観を装飾する目的で漆喰壁に鏝(こて)で模様を描いていたものを、絵具で彩色して室内観賞用の芸術品に昇華させた。26歳で江戸日本橋茅場町にあった薬師堂の御拝柱の左右に『昇り竜』と『下り竜』を造り上げて、名工「伊豆の長八」として名をはせた。弘化2年(184531歳の時に弟子2人を連れて生まれ故郷の浄感寺の再建に係わり、鏝絵を作成している。天井に描いた『八方にらみの竜』は傑作とされる。(2007現在、浄感寺の本堂は長八記念館となっている。)

入江は江戸に戻り、東京都台東区浅草寺観音堂目黒区祐天などを含む多くの場所で傑作を作り上げたと言われている。明治10年(1877)に第1回内国勧業博覧会に出品。晩年、明治13年(1880)にも65歳で故郷を訪れ、岩科町役場や岩科学校などで制作作業を行っている。明治22年(1889108日、深川八名川町(現江東区深川)の自宅にて74歳で亡くなる。墓は故郷の浄感寺と浅草正定寺の二箇所に設けられている。

山光荘[1]をモデルにした、漫画家つげ義春の作品「長八の宿」によって、知名度があがった。


誇り高い孤独死・・・山林の中で自然を愛し月日が流れて行く

2012年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム

その方は山林の中に自分で山荘を作り、30年以上独りで住んでいます。一生独身です。知り合ってから20年、30年という月日が流れて行きました。

時々、その山荘を訪れて他愛もないことどもを話します。心臓が弱くて無理は出来ない体です。

政治や社会を声高く論じることはしません。話題は山荘の周りの自然についてだけです。小さな草花の種類に詳しく、四季折々丁寧に育てています。何種類かの小さな花を貰ってきたこともあります。

山林の中で時が静かに流れ、独りで旅立って行くことを覚悟しています。いつかその死に方について語り合ったことがあります。彼は孤独に死ぬことを恐れていません。楽しみにしているわけでもありません。冬になれば草花が枯れるように、ごく自然に生を終えるのです。達観でも、諦めでもありません。これ以上自然な受け入れ方が無いと感じさせるのです。

彼は決して自分の人生の愚痴を言いません。辛い人生だったようですが笑いながら少しだけ過去のことを話します。

宗教に頼っているのではありません。私はカトリック信者なのでキリスト教の話をします。静かに聞いてくれますが、質問をしません。

菜食主義者ではありませんが肉や魚は殆ど食べません。山荘のまわりに生えているいろいろな山草の若葉を野菜とともに調理してオカズにします。米やかんづめは充分過ぎる位あります。

気が向けば自転車で近隣をサイクリングしています。

誰にも迷惑をかけず、誰にも干渉されずに毅然とした態度で生活を楽しんでいます。自慢したり、威張ったりは絶対にしませんが、何故か誇り高い男というものを感じさせるのです。その男がいつか一人で山荘の生活に終止符をうつのです。それを私は誇り高い孤独死と思っています。立派な死に方です。

彼と知り合ってから「誇り高い孤独死」というものをいろいろ考えています。そしてこのブログで孤独死について幾つかに文章を書きました。下にその題目の一覧があります。右端の投稿の年月日から記事は左サイドのバックナンバーから容易に検索できます。ご笑覧頂き、お楽しみ頂ければ嬉しく存じます。

彼の名前は鬼家雅雄と言います。「北杜市・自然の中で」というブログを書いて居ます。http://sizen068.blog95.fc2.com/ です。下に彼の撮った最近の草花の写真を示します。彼のブログを一度ご覧になってみて下さい。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。 後藤和弘(藤山杜人)

=====孤独死に関する掲載記事の一覧==============

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