西洋の近代絵画、特に印象派以後の絵画だけを芸術と崇拝し、日本の絵画をひどく見降ろしている変な日本人がいます。明治維新以来の「上等舶来」(上等なものは全て西洋から船に乗って来る)という偏狭な思想に取りつかれた悲しいインテリ達です。そんな風潮のあった江戸時代末期と明治時代に江戸、東京で大活躍した天才左官、入江長八の鏝絵は大切にされませんでした。火災や戦災で東京にあった多数の長八の傑作は消滅してしまったのです。
しかし故郷の伊豆、松崎にあった長八の作品は戦災を免れ、最近、多くの人々の脚光を浴びるようになったのです。
長八は幕末に松崎の浄感寺にあった塾で学び、23歳で江戸に出て、狩野派の絵師に絵画を学び、それを漆喰細工へ応用し、独創的な漆喰を用いた「鏝絵」を生み出したのです。幕末の江戸で「鏝絵」が有名になり、多くの注文で多忙になります。しかし31歳の時、弟子2人を連れ、故郷へ一時戻ります。塾生として学んだ浄感寺への恩返しのために帰ったのです。そして本堂の天井に有名な龍の鏝絵や客間の欄間に天女の絵や室内を飾る鏝絵など合計20点の鏝絵を完成したのです。現在その本堂と左右の客間は「長八記年館」として公開されています。先週の5月15日に訪れてきました。
彼はその後また江戸へ戻り、明治維新後の東京で活躍します。
伊豆の松崎市はあちこちにある長八の作品50点を蒐集し、立派な「長八美術館」を建て、一般公開をしています。長八の作品は鏝絵だけではなく多くの建物の美しいナマコ壁としても残っています。
下にその作品の写真を示します。上の4枚は家内が撮ったもので、下の2枚は検索して転載した画像です。「長八の鏝絵」と検索すると非常に多くの写真が出て来ます。
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参考資料:
入江 長八(いりえ ちょうはち、文化12年8月5日(1815年9月7日) - 明治22年(1889年)10月8日)は江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した名工(左官職人)、工芸家。なまこ壁、鏝絵といった漆喰細工を得意とした。
鑑賞に拡大鏡が必要であるほど緻密な細工をこらした作品が多い。入江の生活拠点が江戸であったため作品は東京地区に集中しており、大半が震災や戦災で焼失してしまっている。現存する約45点は、東京都品川区高輪の泉岳寺、同区東品川の寄木神社、足立区の橋戸稲荷、千葉県の成田山新勝寺などに残っている。
故郷の静岡県松崎町には、前述の浄感寺の「長八記念館」に約20点と、1986年に開館した「伊豆の長八美術館」に約50点が展示されている。また重要文化財の岩科学校や、春城院、三島市の龍沢寺など故郷周辺に点在している。
文化12年(1815年)伊豆国松崎村明地(現在の静岡県賀茂郡松崎町)に貧しい農家の長男として生まれた。6歳で菩提寺の浄感寺塾に学ぶ。11歳のとき同村の左官棟梁、関仁助のもとに弟子入りする。その当時から手先の器用さで知られた。
天保4年(1833年)20歳のとき江戸へ出て御用絵師である谷文晁の高弟、狩野派の喜多武清から絵を学ぶ一方、彫刻も学んだ。絵画や彫刻技法を漆喰細工に応用し、従来は建物の外観を装飾する目的で漆喰壁に鏝(こて)で模様を描いていたものを、絵具で彩色して室内観賞用の芸術品に昇華させた。26歳で江戸日本橋茅場町にあった薬師堂の御拝柱の左右に『昇り竜』と『下り竜』を造り上げて、名工「伊豆の長八」として名をはせた。弘化2年(1845年)31歳の時に弟子2人を連れて生まれ故郷の浄感寺の再建に係わり、鏝絵を作成している。天井に描いた『八方にらみの竜』は傑作とされる。(2007年現在、浄感寺の本堂は長八記念館となっている。)
入江は江戸に戻り、東京都台東区の浅草寺観音堂、目黒区の祐天寺などを含む多くの場所で傑作を作り上げたと言われている。明治10年(1877年)に第1回内国勧業博覧会に出品。晩年、明治13年(1880年)にも65歳で故郷を訪れ、岩科町役場や岩科学校などで制作作業を行っている。明治22年(1889年)10月8日、深川八名川町(現江東区深川)の自宅にて74歳で亡くなる。墓は故郷の浄感寺と浅草正定寺の二箇所に設けられている。