goo blog サービス終了のお知らせ 

後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「八ヶ岳の清泉寮と若かった妻の思い出」

2025年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム
八ヶ岳の麓の清春に清泉寮があります。新婚の頃若かった妻が目を輝かせて清泉寮の素晴らしさを話していました。学生時代に泊まって感動したと話していました。

そのせいで私も何度も泊りに行きました。
八ヶ岳の麓の清泉寮かいわいの写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。
1番目の写真は八ヶ岳です。
2番目の写真は清里の清泉寮です。清泉寮の売店でジャージー種の牛乳で作ったソフトクリームを販売しています。
3番目の写真は清泉寮の前に広がる牧場です。
4番目の写真は八ヶ岳の麓を走るJr小海線です。

「楽しいホテルの思い出(10)日光の金谷ホテルと中禅寺湖、竜頭の滝の紅葉など」

2025年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日光の金谷ホテルをご紹介して、続いて中禅寺湖、竜頭の滝などの紅葉風景を示したいと思います。
1番目の写真は日光の金谷ホテルです。このホテルは現存する最古のリゾートホテルで国の登録有形文化財です。3度ほど泊りましたがサービスの質が高いのに驚きました。箱根の宮の下の富士屋ホテルと同じ雰囲気です。
階段の手すりに擬宝珠がついていたり、部屋のバスタブは猫足だったりして明治の香りが漂っています。夕食に出た鱒のムニエル等も当時の料理法かクラシックは感じでした。
雅楽の「笙」の奏者であった金谷善一郎がアメリカ人のヘボンを自宅に招き入れたのがホテルの始まりでした。
ヘボンは医師でありヘボン式ローマ字の考案者としても知られています。明治4年のことでした。写真の出典は、https://www.smbc-card.com/mem/hitotoki/watch/kanaya_hotel.jsp です。

2番目の写真は金谷ホテルの特別ダイニンフルームです。
3番目の写真は中禅寺湖の「半月山展望台」から見た男体山と中禅寺湖です。
紅葉の八丁出島と秋深まる男体山の風景が静まりかえっています。
中禅寺湖とは湖畔の立木観音を本尊にした中善寺という古いお寺があるのでそういう名前の湖になったのです。どっしりとした本堂があります。
写真の出典は、https://www.pixpot.net/articles/u_d_view/364/hangetsuyama-nikko です。
4番目の写真は竜頭の滝の紅葉です。この写真は竜頭の滝の一番下の滝でここから中禅寺湖に水が流れ落ちています。滝の一番下の龍頭乃茶屋から撮った写真です。
写真の出典は、https://imatabi.jp/theme/16452 です。
/
5番目の写真は竜頭の滝の上の方です。多量の水が勢い良く流れ下っている光景は圧巻です。滝の一番下の龍頭乃茶屋から一番上の橋まで300mほどこのような急流が続いています。
写真の出典は、https://www.360navi.com/13tochigi/03chuzenji/03ryuzu/ です。
6番目の写真は戦場ヶ原の草紅葉の写真です。ここは広い湿原でここが水源になり湯の滝、湯ノ湖、竜頭の滝と流れ中禅寺湖へと流れ込みます。
なお戦場ヶ原は関東で最も綺麗に星空が見られる場所として有名です。
写真の出典は、https://matome.naver.jp/odai/2144242184146337601/2144248810399454803 です。
7番目の写真は観光客に公開されている元イタリア大使館の別荘です。現在は栃木県が所有しています。場所は立木観音の中禅寺の先にあります。訪れると優雅な気分になります。
写真の出典は、https://minkara.carview.co.jp/userid/396979/spot/406301/ です。

今日は日光の金谷ホテルをご紹介して、続いて禅寺湖、竜頭の滝などの紅葉風景をご紹介しました。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「楽しいホテルの思い出(9)軽井沢の万平ホテルや三笠ホテルなど」

2025年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム
明治維新で西洋の文化が日本に入って来ました。ホテルも入って来ました。それは西洋文化の発信基地でした。多くの外国人が日本に来るようになり、ホテルが必要になったのです。
以前の日本には旅館や宿屋といった宿泊施設は存在しておりました。現存する世界最古の宿は西暦705年(飛鳥時代)に創業した、山梨県の慶雲館という旅館でギネスにも認定されているそうです。
私は昔から西洋文化に憧れていました。ですから旅行に行くとホテルに泊ります。いろいろなホテルの思い出があります。
今日は軽井沢の万平ホテルと「ゆとりろ軽井沢ホテル」と三笠ホテルをご紹介致します。何度か行った軽井沢で泊まったり訪問したホテルです。
軽井沢には明治27年創業の万平ホテルがあります。そして明治39年創業の三笠ホテルも現在は廃業していますが、その建物は国の重要文化財として保存、展示されています。
その一方、軽井沢には戦後に創業した新しいホテルも沢山あります。
軽井沢だけでなく日本全国を見回すと、戦前から営業している所謂、クラシックホテルと戦後の新しいホテルが数多くあります。
今日は軽井沢の場合を例にして、クラシックホテルと新しいホテルをご紹介いたします。そしてその長所と短所を比較したいと思います。
万平ホテルと新しい「ゆとりろ軽井沢ホテル」を取り上げます。
クラシックホテルと新しいホテルの大きな違いは、それぞれの文化の違いです。
比較検討の前に、万平ホテルと三笠ホテルの写真を示します。続いて「ゆとりろ軽井沢ホテル」の写真を示します。この7枚の写真は家内が撮ったものです。
1番目の写真は明治27年創業の万平ホテルです。写真の本館は昭和11年頃に作られたままの姿です。
2番目の写真は万平ホテルのテラスレストランです。この軽食用のレストランの内側には広いメインダイニングルームがあります。古い内装で、窓からは昔風の庭が見えます。
3番目の写真は現在は廃業している三笠ホテルです。国の重要文化財として公開、展示されています。中に入ると明治時代の古風な客室が並んでいます。
4番目の写真は新しいホテルの「ゆとりろ軽井沢ホテル」の玄関です。
5番目の写真は「ゆとりろ軽井沢ホテル」の結婚式用のチャペルです。
6番目の写真は「ゆとりろ軽井沢ホテル」のメインダイニングから庭を見た風景です。
7番目の写真は「ゆとりろ軽井沢ホテル」のオードブルの写真です。季節の食材や地元の野菜を使った細やかな一皿です。簡素なフレンチコースで、この他にスープ、オーブンで焼いたチキン、パンとバター、それにデザートとコ-ヒーがついていました。ワインなどは別料金です。

さて、クラシックホテルと新しいホテルの大きな違いは、それぞれの文化の違いです。もっと分かり易く具体的に書きます。

(1)宿泊料金のこと
大雑把に言って、クラシックホテルの宿泊料は新しいホテルより2割から5割高いのです。
私共は高齢者なのでシーズンオフの平日に泊まります。以前、万平ホテルに泊まったときは、朝夕2食付きで1人当たり20000円位でした。
一方、「ゆとりろ軽井沢ホテル」は朝夕2食付きで1人当たり12000円位でした。
クラシックホテルの宿泊料はシーズンオフの平日をインターネットで探し、申し込むと意外に安いのです。上高地の帝国ホテルに格安で泊まったこともあります。

(2)ホテルの施設、設備のこと
クラシックホテルの全ての施設は重厚ですが古色蒼然としています。一方、新しいホテルは軽やかで楽しい内装になっています。
ですから重厚で昔の雰囲気が好きな人にとってクラシックホテルはたまらない魅力なのです。
しかし子供連れの家族にとっては新しいホテルの方が楽しめるのです。
一般的に言えばクラシックホテルの雰囲気は老人に向いています。新しいホテルの雰囲気は若い家族連れに向いています。雰囲気の違いは文化の違いの一例です。

(3)バリアフリーと障害者への配慮について
私は歩くのが困難な後期高齢者です。軽度の障害者です。従ってホテルの施設が障害者に配慮して作ってあるかを敏感に感じます。
室内に段差あるのは駄目です。トイレは車椅子がそのまま入れるように広く作ってあると幸せな気分になります。
その点、万平ホテルは問題です。努力して改造していますがまだまだです。
一方、「ゆとりろ軽井沢ホテル」には感心しました。まず身障者用の駐車場が玄関のすぐ脇に作ってあるのです。そして簡単な歩行器を押しながら庭から結婚式用のチャペルまで歩いていくと段差が完全に無いように小道が出来ているのです。障害者への暖かい気持ちが感じられるのです。
一方、古い有名は旅館やホテルには障害者への暖かい気持ちがあまりありません。一応、段差を無くす努力はしていますが、肝心な所に段差があるのです。気持ちがこもっていないのです。これは日本の新しい文化と古い文化の差のようです。

(4)接客態度やサービスについて
よくクラシックホテルはサービスが洗練されていて非常に良いと言われています。サービスが良いから料金が高いのですと言われています。同感です。
それでは新しいホテルの接客態度やサービスはどうでしょうか?
これこそ玉石混淆なのです。悪い所もあれば非常に良いホテルもあります。
「ゆとりろ軽井沢ホテル」は満点でした。フロントもダイニングでも良かったです。庭を夫婦で散歩していたらダイニングからウエイターの辺見さんが飛び出して来て、夫婦一緒の写真を撮ってくれたのです。夕食・朝食のサーヴスも行き届いていました。

このようにクラシックホテルと新しいホテルの比較をしているともっと書きたいことがありますが、あまり長くなるのでこの辺で止めます。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

====日本最古の宿、山梨県の慶雲館============
慶雲2年(705年)に当地で狩猟を行った藤原真人が、狩猟を行った際に川の岩の間より盛んに噴き出している温泉を発見。険しい山道を切り開き、湯壺を造営して開湯したのが始まりとされている。慶雲年間に造られたことから「慶雲館」と命名され、以降武田信玄や徳川家康の隠し湯としても利用された。
写真は現在の山梨県の慶雲館です

「思い出の温泉、秋保温泉、酸ケ湯、乳頭温泉、鳴子温泉、鬼首温泉、裏見ケ滝温泉、」

2025年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は懐かしい温泉の写真をお送り致します。少し説明をつけます。

昭和11年生まれ、24歳になるまで仙台に住んでいたました。近くには作並温泉や秋保温泉、鳴子温泉などがあります。当時は他にあまり楽しみが無いのでよく温泉へ行ったのです。そして東北地方にある数々の温泉へも行きました。東北の人はよく温泉に行きます。温泉文化の地なのです。

東北地方の温泉では農閑期や冬には湯治が普通で、旅館には湯治客専門の部屋と共同炊事場があり調理器具、食器を貸してくれます。他にすることが無いので朝、昼、夜と数回、温泉につかります。これを数日繰り返すと体の疲れがすっかり取れ、爽快な健康体になるのです。温泉は万病に効くとはこのことです。

東北地方では温泉はつかるものであり、体は洗わないのです。ですから洗い場が無いのです。

自分が入った温泉で印象深いのは酸ケ湯、ふけの湯、乳頭温泉、鬼首温泉などです。どれも草深い人里離れた山にあります。恐ろしいような独特な雰囲気の谷間にあるのです。土俗的な神が住んでいるような山奥です。これが東北の独特な温泉文化なのです。

しかし東北地方に限らず、温泉が好きな人は全国に多いと思います。若い人々も好きです。

特に最近は地方の自治体が立派な温泉センターを建設してい地域の活性化をそています。山梨県にある私の山林の中の小屋の近くにも「武川の湯」と「尾白の湯」という広大な浴槽の温泉があります。色々な野天風呂やサウナやレストランもあり、実に豪華な施設です。お湯は地下1000メートルからの天然温泉です。

最近このような豪華な温泉センターが全国に多くなりました。温泉文化の隆盛です。

自分が入った数々の温泉を懐かしく思い出しながら時の流れの早さに茫々とします。特に独特な雰囲気の谷間にある土俗的な酸ケ湯、ふけの湯、乳頭温泉、鬼首温泉などを懐かしく思います。


写真に幾つかの温泉を示します。

それはぞれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りします。  後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は秋保温泉の「ホテル華の湯」です。

2番目の写真は酸ケ湯の温泉旅館です。  3番目の写真は乳頭温泉の写真です。  4番目の写真は鳴子温泉街の写真です。  5番目の写真は鬼首温泉の写真です。6番目の写真は写真は八丈島、裏見ケ滝温泉です。7番目の写真は八丈島の裏見ヶ滝温泉 です。裏見ケ滝温泉はなにか東北の温泉文化に共通するものがあります。

「楽しいホテルの思い出(8)ホテル「KKRかわゆ」に3泊し荒涼たるトドワラ、ナラワラ、野付湾へ」

2025年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
長い人生でいろいろな所へ旅をしました。印象深い旅もありました。感動的だった旅は北海道の東の端にある荒涼たるトドワラ、ナラワラ、野付湾への旅です。
それは北海道の東部を巡る旅でした。川湯のホテルの「KKRかわゆ」に3泊し、トドワラ、ナラワラ、野付湾、摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖などを訪れました。
「KKRかわゆ」は国家公務員共済組合連合会の川湯保養で質素な宿でした。

1番目の写真は3泊した「KKRかわゆ」です。トドワラや摩周湖やサーモンセンターをそれぞれ訪問しました。
道東には広大な大地が広がり、牧場がえんえんと続いています。その先にトドワラ、ナラワラ、野付湾、があるのです。2012年9月17日から20日のことでした。野付半島は巨大な砂州で出来た半島です。下の写真のように野付湾を囲んでいるのです。

2番目の写真は野付湾の航空写真です。出典は、 http://kagamiclover.blog110.fc2.com/blog-entry-4097.htmlです。
北海道の東部根室市の北に、多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)があります。その南にあるのが野付半島です。
幅が数十メートルから数百メートルしか無い砂洲で出来た細い半島が、湾曲しながら26kmも伸び野付湾を囲んでいます。
砂洲の上には舗装道路が延々と続き、野付灯台まで車で入れます。
そして野付灯台の手前にはトドワラとナラワラという枯れたトドマツの原とナラの原が広がっている場所があります。地盤沈下で海水に漬かってしまったトドマツの木とナラの木が枯れて、白い骸骨のように立っています。不気味です。

3番目の写真はナラワラの風景です。写真はインターネットからお借りしました。

4番目の写真はトドワラです。ナラワラとトドワラは野付半島の入り口にあります。
ナラワラとトドワラの白骨のような林が野付湾の風景を荒涼とさせています。人間の住む世界ではありません。行った日が暗い曇り日だったので一層荒れ果てた風景に見えました。
しかし野付湾には美味しい縞エビが棲んでいて、夏にはその味を楽しむことが出来ます。
川湯温泉から車で3時間の野付湾で名物の茹でた縞エビを食べました。
野付湾を右手に見ながら細い砂洲の上の舗装道路をえんえんと辿って行くとやがて右手にナラワラがあります。よく見ると2番目の写真のようにナラ林全てが立ち枯れになっている場所です。ナラワラを通り過ぎ、野付灯台の傍まで行くと立派なビジターセンターがあります。駐車場に車を停めて、ハマナスの紅い花と実を見ながら、ぬかるみの小道を1.2kmほど歩くとトドワラがあります。3番目の写真です。トドワラは立ち枯れた木が倒れた場所です。立ったままの林もあります。木道は高く狭いので、強い海風や雨が吹き付けると落ちそうになり怖かったです。
野付半島の海では縞エビが獲れます。

5番目の写真は北海縞エビ漁の船です。三角の白帆を上げ網をゆっくり引いて行きます。写真はインターネットからお借りしました。
野付半島の向かい側、16km沖には国後島があります。天気が悪く見えませんでいでしたが、野付港は国後島の町や村に行く船の発着場として昔は賑わっていたそうです。
訪れたビシターセンターの2階には昔の択捉島や国後島の町や村落の写真が沢山置いてあります。丁寧に見て行くと択捉や国後には多くの日本人が住み、鮭やニシンを取っていたことが判ります。日本人の先祖代々のお墓も沢山残っているに違いありません。雨のそぼ降る道を帰って来ました。暗い淋しい小さな旅でした。
荒涼としたナラワラやトドワラと野付半島への旅日記でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=======================
野付半島は知床半島と根室半島の中間にあり、オホーツク海に腕を伸ばすようにして広がっています。全長約26kmの日本最大の砂し(さし)です。
 砂州とは、海流により運ばれた砂が、長年に渡って堆積して作られた地形のことです。
 野付半島沖の海底は起伏が多く、潮流も早いことから、道内でも有数の漁場となっています。

野付半島 ~その歴史、https://hokkaido-travel.com/unknown-hokkaido/kiraku/ より抜粋。
・・・
ちなみに、加賀伝蔵や「野付通行屋・番屋跡遺跡」に関する資料は、別海市街にある「別海町郷土資料館」に展示されています。
別海町郷土資料館を取材すると、
「野付通行屋には通行屋、下宿所、蔵などが建てられました。さらに野付崎の外海は、春の鰊(にしん)漁の時期になると根室地方の各番屋から人々が集まり、居小屋、蔵などが 50~60軒建ち並び出張番屋群が形成されました」
と、ここまでは歴史的な事実。
 野付通行屋跡遺跡には江戸時代の残る墓石も残されていますし、野付番屋跡遺跡は、もはや海の下に没していますが、海が引いたときには食器や鉄鍋などの生活用品が散乱しているのを見学することができます。・・・・


「楽しいホテルの思い出(7)北海道のホテル・ピアノ」

2025年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
感動したホテルをご紹介致します。大規模で贅沢なリゾートホテルの北海道のキロロのホテル・ピアノです。
日本が高度成長していた頃に設計され建設された驚異的な施設です。
2010年の6月に行き、感動しましたので、何度かホテル・ピアノに泊りました。
キロロはアイヌ語で「心」を意味するそうです。小樽から毛無山峠を越して、深い山に入った北海道余市郡赤井川村にあります。
ホテルの部屋も広く、インテリアも落ち着いています。食事も美味しかったです。ホテルから続くレストラン街も良い雰囲気でした。そんな風景を写真で示します。
まず2010年の6月の新緑の頃に撮った2枚の写真を示し、その下に晩秋の風景写真を2枚示します。季節によって風景が変化している様子をお楽しみ下さい。アクセスや宿泊料など詳しくは、http://www.kiroro.co.jp/  をご覧下さい。
  1番目の写真と2番目の写真は6月の新緑の頃撮った写真です。白樺林が新緑です。
3番目の写真と4番目の写真は10月の晩秋の頃の写真です。白樺林が落葉してしまっています。

今日は大規模で贅沢な北海道のホテル・ピアノをご紹介いたしました。感動的なホテルでした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「中國の北海公園と仿膳飯荘と北京ダックの写真」

2025年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム
1981年に周栄章さんと2人で一緒に初めて行った北京の北海公園と仿膳飯荘をご紹介したいと思います。
中国人は権力者に表向きは従いますが、心の中では個人的な信義を一番大切にしている民族なのです。
周栄章さんと2人だけで北海公園を歩いていました。その先にある仿膳飯荘で北京鋼鉄学院の学長が私の歓迎会をしてくれるというのです。

1番目の写真は北京の北海公園の石の回廊です。写真の出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-57.htm です。
歓迎会で当時あった「茅台酒(マオタイシュ)」の乾杯の応酬で、私もいささか酔いました。

2番目の写真は仿膳飯荘の入り口です。写真の出典は、http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htm です。
出された料理は女性権力者の西大后の好きそうな小さく綺麗に盛り付けた、いわゆる宮廷料理でした。
周栄章さんの招きで2年後に行った家内はその精妙さと美味しさに感激していました。

3番目の写真は仿膳飯荘の宮廷料理です。写真の出典は、http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htm です。
周栄章さんは北京鴨の有名店でなく裏町の小さな北京鴨店へ何度も連れて行ってくれました。
冷蔵庫が無いのか、あまり冷えていない五星ビールが出ます。前菜でビールを飲んでいるとやがて見事に焼きあがった鴨が出てきます。

4番目の写真は北京ダックの写真です。写真の出典は、http://imagenavi.jp/search/#!/ です。
北京鴨は自分で皮を切り取って、薄い白い餅に乗せ、ネギと味噌を塗って、餅でくるりと巻いて食べるのです。
皮を全て食べ終わると料理人が出て来て、皮の無い鴨を下げます。調理場で肉を取って、2種類くらいの料理に仕上げて、又持ってきます。それを食べ終わる頃に鴨の骨でダシを取ったスープが出て来ます。これで終わりです。
周栄章さんは私を中国の観光地に案内してくれました。北京原人の周口店、明の13陵、頤和園、天壇、大鐘の寺、長城、承徳、そして西安の秦の始皇帝の墓、兵馬俑、などなどへ案内してくれたのです。しかし話が長くなるので、ここでは北京郊外の離宮の頤和園の写真を1枚だけ示します。写真はインターネットからお借りしました。

5番目の写真は頤和園の前に堀って作った湖とその土で出来た山です。 頤和園は私の好きな離宮なので写真を示しました。写真は「頤和園の写真」を検索してネット上にあるものからお借りしました。
その周栄章さんを私も日本に招びました。自宅に泊まってもらい、いろいろな観光地へも案内しました。
周栄章さんは2004年に亡くなりました。亡くなって21年たちましたが彼の温かい友情を思い出す度に胸が熱くなります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「共産党独裁の中国における宗教の驚くほどの隆盛」

2025年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム
神の存在や宗教を否定するのが本来の共産主義です。ところが中国共産党は宗教の自由を保障し、経済は資本主義の市場経済主義をとっています。
ですから中国は共産主義を捨てているのです。共産党という名前と独裁政治だけが残りました。
中国の宗教は共産党独裁に反対しないかぎり全く自由です。もっとも全ての宗教組織は当局に届けなければなりませんが、届けてない組織も多いと言われています。
元来、宗教というものは政治には関心があってはいけないものなのです。カトリックのミサでの説教では政治の話題は禁物です。
したがって中国の全ての宗教組織は共産党と仲良く出来るのです。例外は法輪功だけです。
中国の宗教には仏教、道教、回教(イスラム教)、カトリック、プロテスタント系キリスト教、その他の原始宗教があります。
中国には宗教を信じている人が数千万人から数億人いると言われていますが、統計の不備で実数は分かっていません。
しかし多数の道教の寺院や仏教寺院や回教(イスラム教)の寺院、あるいはカトリック(天主教)の教会の写真を見ると宗教の隆盛に驚かざるを得ません。

今日は写真で中国の宗教的風景をご紹介いたします。
まず蘇州の道教寺院の玄妙観での光景の写真をご覧ください。玄妙観は蘇州にあります。
1番目の写真は夕暮れの玄妙観の境内です。人々が寛いで歩いています。乳母車を押している母親もわき見をしながらのんびり歩いています。のどかで平和な光景です。
2番目の写真は祀ってある神々の像です。本尊を補佐する神々のようです。道教は元来、多神教です。
3番目の写真では女性が膝まづいています。
以上の写真は、中国に住んでいた親しい友人が2014年9月に蘇州で撮ったものです。
中国の道教寺院は日本の神社のようなものです。家内安全を祈る場所です。商売がうまく行くように祈る場所です。祀ってある神は関帝や昔の偉人などなどいろいろです。道教は中国で生まれた宗教であり、その歴史は1700年以上も前に遡ります。国内には道教寺院1500ヶ所があり、2万5千人以上の道士がいるそうです。
道教は仏教と儒教とともに中国の三大宗教と言れています。ですから大部分の中国人はこの三大宗教を信じています。そのどれかを信じる人もいますが、多くは同時に、それぞれを信じています。
4番目の写真は中国のある回教、イスラム教の寺院です。中国の仏教風の寺院のようですが、塔の上の球体と三日月から回教(イスラム)寺院ということが分かります。回教寺院には必ず清真寺という名前が付いています。
この写真の出典は、http://4travel.jp/travelogue/11129689 です。
なお回教のお寺は北京にも多数あります。街で白い布を被って歩いている人が回教徒で、多数見かけます。
イスラム教は7世紀に中国に渡りました。イスラム教は主に回族、ウイグル族など少数民族の他に、多数の漢族にも信仰されています。信者はおよそ1800万、モスクは3万ヶ所あると言われていますが実数は分かりません。
5番目の写真は仏教寺院の写真です。
写真の出典は、http://blog.livedoor.jp/shyougaiitisekkeisi2581/archives/51818531.html です。
中国の仏教は2千年の歴史を誇ります。中国には現在、仏教寺院がおよそ1万3千ヶ所あり、出家した僧侶・尼僧は20万人、そのうち西蔵(チベット)系仏教のラマ僧は12万人、活仏は1700人、寺院は3千ヶ所、巴利語系仏教の比丘(びく)や長老はおよそ1万人、寺院は1600ヶ所に上ると言われています。
6番目と7番目の写真は中国のあるカトリック(天主教)の教会の風景です。
写真の出典は、http://blog.goo.ne.jp/sakurasakuya7/e/04e67def473bfbaf22720ac2634718fc です。
カトリックは7世紀に中国に渡り、1840年のアヘン戦争後、信者の規模が増えます。中国には現在、カトリック信者400万人、教職員4千人がおり、教会などの活動施設4600ヶ所があると言われています。
カトリックの他にプロテスタントのいろいろな宗派もあり、キリスト教信者総数は少なくても1000万人以上、数千万人以上とも言われています。宣教師1万8千人がおり、また教会は1万2千ヶ所、そしてその他の集会所2万5千ヶ所があると言われています。

最近、中国は宗教ブームでいろいろな宗教が活性化し、それぞれの信者数が急増しているようです。 その理由は独裁政治を続けている中国共産党が宗教の自由を大幅に認めているからです。中国の民主化を主張したり、独裁政治を批判しない限り、自由に宣教し、自由に信仰してて良いのです。ただし全ての宗教組織は政府へ届けるのが命令されています。
この宗教の流行は今後も続き、中国では宗教はますます盛んになると思われます。
しかし最後に一言付け加えると、中国本土のカトリックはローマ法王傘下に入れません、共産党政府がローマ法王組織から台湾のカトリックを切り捨てれば本土のカトリックがローマ法王傘下に入っても良いというのです。非道な話です。

中国の宗教については末尾につけた参考資料をご覧下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
======参考資料:「中国の宗教政策」===========
 1997年10月発表の中華人民共和国・国務院報道弁公室の宗教に対する政策の概略;
http://j.people.com.cn/special/religion/baishu.html
1.中国の宗教の現状
2.宗教信仰の自由の法的保障
3.司法と行政による宗教信仰の自由の保障および監督
4.独立自主運営の宗教事業に対する支持
5.少数民族が宗教を自由に信仰する権利の保護

1.中国の宗教の現状

中国では様々な宗教が信仰されている。中国には主に、仏教、道教、イスラム教、カトリック、キリスト教の信者がいる。中国公民は、信仰する宗教を自由に選び、自分が信じる信仰を表現することができ、また宗教的身分を明らかにすることができる。統計によると、国内には宗教を信仰している人々は1億人おり、宗教活動施設は8万5千ヶ所、宗教関連の教職員はおよそ30万人、3千以上の宗教団体がある。これらの宗教団体は、宗教関連の教職員を育成するための宗教学院・大学74ヶ所を運営している。

中国の各宗教団体は自主的に教務活動を進めており、必要に応じて、宗教学校の開校、宗教経典の発行、宗教的刊行物の出版、社会公益事業を行なっている。中国は各国同様、宗教と教育の分離を原則としており、国民教育に宗教教育が持ち込まれることはない。一部の大学や研究機関では、宗教学教育や研究が行なわれている。各宗教組織が運営する宗教学校では、その宗教の必要性に基づいて、宗教的な専門教育が行なわれている。宗教教職員による正常な教務活動については、宗教活動の場所で、あるいは宗教的習慣に基づいて信者の自宅で、あらゆる正常な宗教活動が行なうことができ、これらは法的により保護されており、いかなる干渉も受けない。以下省略。

「私のアイヌの友人への追憶」

2025年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道に旅をすると、あちこちにあるアイヌ民族の博物館を見ます。
1番目の写真は丸木舟に乗り魚を釣るアイヌ人です。

2番目の写真は戦前のアイヌ人です。
写真にあるようなアイヌ独特の着物は鎌倉時代以降にアイヌ文化が成立していくうちに出来たアイヌの正装です。この服装はアイヌ部落が消滅して行く終戦後まで北海道で見られたのです。
しかし1945年の終戦になると、北海道のアイヌ人たちはより良い生活環境を求めて東北地方の開拓地などに移住して来たのです。その結果、私は一人のアイヌ人と友人になったのです。
私は仙台市に生まれ育ちました。その仙台へもアイヌ人一家が移住して来たのです。私の家の近所の雑木林を切り開いて生活をしようとしていたのです。私はそのアイヌ人の一家の少年と仲良くなります。
仲良くなったのですが、ある時フッと消えてしまいました。二度と会えません。89歳になった現在でも、その頃の事をよく思い出します。
終戦後の小学5、6年のころ、私は仙台市の郊外の向山という所に住んでいました。小学校の裏山にある開拓部落の一軒にアイヌ人家族が移住して来たのです。その一家には同じ年ごろの少年がいたのでよく遊びに行きました。トタン屋根に板壁、天井の無い粗末な家の奥は寝室。前半分には囲炉裏があり、炊事や食事をしています。建坪が10坪くらいの小さな家でした。
父親は白い顔に黒い大きな目で豊かな黒髪に黒髭でした。母親も黒髪で肌の色はあくまでも白いのです。
一家の人々の服装は日本人と同じでしたが、色が白く、目鼻立ちの彫りが深く、滅多に声をあげない静かな人々でした。
私が仲良くなった少年は学校に来ません。遊びに行くと、1人で家の整理や庭先の畑の仕事をしています。無愛想でしたが歓迎してくれているのが眼で分かります。夕方、何処かに、賃仕事に行っていた両親が帰って来ます。父親が息子と仲良くしている和人の私へほほ笑んでくれました。それ以来時々遊びに行くようになります。アイヌの一家はいつも温かく迎えてくれます。いつの間にか、アイヌの少年と一緒に裏山を走り回って遊ぶようになりました。
夏が過ぎて紅葉になり、落ち葉が風に舞う季節になった頃、開拓部落の彼の家へ行きました。何も無いのです。忽然と家も物置も消えているのです。白けた広場があるだけです。囲炉裏のあった場所が黒くなっています。黒い燃え残りの雑木の薪が2,3本転がっています。
アイヌ一家にはなにか事情があったのでしょう。さよならも言ないで消えてしまったのです。これが、私がアイヌと直接交わった唯一回の出来事でありました。70年以上たった今でもあの一家の顔を鮮明に覚えています。
消えてしまった私の友人一家も住み慣れた北海道に帰ったのでしょう。

今日は私のアイヌの友人への追憶を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「アイヌ民族の文化と生活の様子」

2025年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム

北海道にはアイヌ民族が縄文時代より以前の大昔から住んでいました。北海道の先住民です。第二次大戦の直後までアイヌ民族だけの村落が北海道に散在していたのです。それが現在は忘れられています。

そこで今日はアイヌ民族の文化と生活の様子をご紹介したいと思います。

さて私がアイヌ民族に興味を持つきっかけになったのはモースが撮ったアイヌ人の1枚の集合写真です。エドワード・モースは大森貝塚の発見で有名ですが、それ以上に日本の陶磁器の収集と民具や風景写真の収集でも偉大な功績を上げました。その中に次の写真があったのです。

1番目の写真はモースが明治20年代(1890年頃)に撮った北海道のアイヌの集合写真です。写真の出典は、小学館の「百年前の日本」(1983年11月25日初版発行)という写真集です。

明治時代のアイヌは伝統的な服装と家に住み純然たるアイヌ文化を維持していたのです。一緒に写っている白人はクラーク博士でアイヌにも興味があったそうです。この写真でアイヌ民族を興味を持った私は他の写真をさがしました。

(1)アイヌ人の写真と家族の写真

アイヌ人の写真は明治時代から現在にいたるまで沢山あります。もっとも現在の写真は観光用のアイヌの祭りに出演するアイヌ人たちです。和人と結婚したアイヌ人達です。写真を示します。   2番目の写真はモースが明治時代に撮ったアイヌ民族です。こんな服装は1945年の大二次世界大戦の終戦まで続きました。北海道のアイヌ村落では皆んながこの服装をしていたのです。 3番目の写真は観光用のアイヌの祭りに出演したアイヌ人たちです。日本の経済の高度成長とともに北海道旅行が盛んになり大勢の観光客がアイヌの祭りのショーを見に行きました。ショーの出演者はアイヌの血を引く日本人です。   4番目の写真は観光用のアイヌの女性たちです。化粧や服装は伝統的なアイヌを忠実に再現しています。口の周りの入れ墨は墨で描いたもので入れ墨ではありません。   5番目の写真は口で震わせるアイヌ独特の楽器を演奏するアイヌの女性です。 北海道のアイヌ人は明治以後は日本の小学校に行くようになり次第に伝統的なアイヌ民族の文化が消えて行きました。北海道開拓のために入植した日本人によって土地を奪われ、狩猟を禁止され、川を遡るサケを捕ることさえも禁じられたのです。アイヌの村落は貧しい生活を強いられていました。それでもアイヌ村落は終戦後まで存続していたのです。第二次大戦中までは北海道にはアイヌ人達だけの村落があちこちにあったのです。 (2)アイヌ人の住居

昔アイヌ村落のあった日高の平取や白老、そして旭川の郊外などには現在は民族博物館があります。そしてアイヌの村落が復元して展示されています。復元し展示してある村落の写真を示します。   6番目の写真は白老にあるアイヌの村落です。復元したものです。

  7番目の写真はアイヌの家の内部です。アイヌの住居チセ(cise)は、地面を踏み固めた上に藁やゴザ、毛皮を敷いて床とした平地式住居で、その中央に木尻席を欠いた大きな囲炉裏が設けられていました。この囲炉裏に数個のシュワッ(自在鉤)が下げられ、そこに和人との交易で得られた大小のシュー(鉄鍋)がかけられていました。    8番目の写真も展示されているアイヌの村落の風景です。

さて北海道大学の付属植物園の中にある博物館にはアイヌ民族関連の数多くの展示物もあります。函館市にもアイヌ文化を展示した博物館もあります。しかし現在はアイヌ人だけの村落は消えて無くなってしまったのです。

北海道に行くと、私は復元した村や博物館を見て回りました。北海道・日高の平取町二風谷では、町営のアイヌ歴史博物館を見ました。その向かいには、純血のアイヌ人が個人的に経営しているアイヌ文化の博物館もありました。

(3)アイヌ人の食生活

アイヌ民族の食糧は簡単に獲れるエゾシカの肉と多量に獲れる鮭の干物でした。ヒグマはまれにしか食べられませんでした。クジラやトドなどの海獣も食べましたがニシンやイワシが主でした。若めや昆布も食べました。

その他に植物を食べていました。そして肉食と草食のバランスを取りながら北の大地で豊かな食生活を楽しんでいたのです。アイヌは和人と同様に生食を好み、素材の新鮮さを最大限に生かした「刺身」や「肉や魚のたたき」が大変に好まれていたのです。加熱調理については、炉の直火と鍋のみで可能な調理法、すなわち「あぶる」「焼く」「煮る」「ゆでる」「灰の中で蒸し焼き」でした。

以上の写真と文章の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E6%96%99%E7%90%86 です。

今日はアイヌ民族の写真とともにその村落、住居、食生活をかなり詳しくご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「札幌の大通り公園 、北大植物園など、そしてアイヌ民族の悲劇」

2025年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は北海道の思い出をお送り致します。札幌の大通り公園 、北大植物園、ポプラ並木、開拓村などの思い出です。
まずロマン溢れる札幌です。中心にある大通り公園が四季を通じて楽しい場所なのです。札幌はその広大な大通り公園の回りに高層ビルが美しく並んでいるのです。
そばには北海道大学の植物園があり、明治を偲ばせるレンガ建ての道庁があります。花の咲いている百合が原公園 や八紘学園花菖蒲園 もあります。
北海道大学の有名なポプラ並木もロマンチックです。郊外には手稲山ジャンプ台があり眺望絶佳です。さらに北海道開拓村が北海道の開拓の歴史を展示しています。それではこれらの写真を示しましょう。
1番目の写真は札幌の百合が原公園 です。
写真の出典は、https://uu-hokkaido.jp/flower/summer.shtml、 悠悠北海道 です。

2番目の写真は札幌の八紘学園花菖蒲園 です。
写真の出典は、https://uu-hokkaido.jp/flower/summer.shtml、 悠悠北海道 です。
3番目の写真は北海道大学の植物園です。自分で撮った写真です。
4番目の写真は北海道大学の植物園のニレの大木です。自分で撮った写真です。

5番目の写真は大通り公園 のイルミネーションです。自分で撮った写真です。

6番目の写真も大通り公園 のイルミネーションです。自分で撮った写真です。

7番目の写真は北海道開拓村の中心の大通りです。通りの左右に明治の北海道開拓時代の建物が移築されています。当時の札幌の街の雰囲気です。
出典は、https://bunblo09.exblog.jp/30617618/ です

8番目の写真は北海道開拓村の馬に引かれた乗り合い橇です。開拓村では冬の体験をさせる企画がいろいろ行われています。
出典は、https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2345/ です。

さて北海道開拓村とアイヌ民族の運命について説明をお送り致します。
北海道開拓村には明治の北海道開拓時代の札幌の街並みや北海道各地の古い建物が移築され展示してあります。
政府が建てた役所は堂々として立派ですが一般の民家は木造の小さな家です。
これらの北海道開拓村の雪景色を見ると南から北海道に移住し開拓に努力した明治の人々の苦労が偲ばれます。北海道の開拓は生易しいものではなかったのです。
しかし一方、そこに平和に住んでいたアイヌ民族にとっては日本人による開拓は悲劇の始まりでした。アイヌ民族の人権は蹂躙され生活が困窮したのです。
現在の北海道には人々が豊かな暮らしをしています。幸せな土地になりました。しかしアイヌ民族の悲劇的な運命を私は忘れることが出来ません。
北海道には明治32年から平成9年、1997年まで北海道土民保護法という法律が存在していました。
具体的には 次のことを実行するための法的根拠だったのです。
1、アイヌの土地の没収
2、アイヌの収入源である漁業・狩猟の禁止
3、アイヌ固有の習慣風習の禁止
4、日本語使用の義務
5、日本風氏名への改名による戸籍への編入
1997年5月の〈アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律〉(略称,アイヌ文化振興法)の成立にともない廃止となりました。しかし北海道土民保護法は長い間、アイヌ民族の人権を蹂躙しアイヌ民族の財産を収奪して来たのです。1997年の廃止は遅すぎました。

明治の開拓以後は次第に伝統的なアイヌ民族の文化が消えて行きました。北海道開拓のために入植した日本人によって土地を奪われ、狩猟を禁止され、川を遡るサケを捕ることさえも禁じられたのです。アイヌの村落は貧しい生活を強いられていました。
しかし、第二次大戦中までは北海道にはアイヌ人達だけの村落があちこちにあったのです。
そして、昔アイヌ村落のあった日高の平取や白老、そして旭川の郊外などには現在は民族博物館があります。アイヌ村落を復元した展示もあります。特に白老の国立アイヌ民族博物館は2020年7月からウポポイというアイヌ民族の芸能や生活を再現して見せる活動を大規模に実施しています。
以前、北海道の日高の平取町二風谷で、町営のアイヌ歴史博物館を見ました。その向かいには、純血のアイヌ人が個人的に経営しているアイヌ文化の博物館もあります。
アイヌ民族と和人は縄文時代までは同じで一緒でした。弥生時代以後、和人とアイヌ民族は離れ離れになり独自の文化を育てていったのです。この話は長くなるので止します。

今日は北海道の大通り公園 、北大植物園、開拓村などの写真を示しました。そしてアイヌ民族の悲劇的な運命を少しご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「奥多摩の魅力と写真」

2025年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム
奥多摩は東京都ですが魅力的な自然が広がっています。多摩川上流と支流の秋川に沿った山郷に人々が静かに暮らしています。そして渓谷と山々の絶妙な組み合わせで美しい風景になっています。
今日は奥多摩の美しい風景を写真でご紹介致します。
1番目の写真はJR御岳駅からほど近い国際鱒釣りセンターのある多摩川です。鱒を沢山多摩川に放流してお客が釣っています。ここは車で河原に降りれる唯一の場所です。奥多摩は自分の家から2時間以内に行けるので何百回も行きました。この写真も昨日家内が撮った写真です。
これからご紹介する風景写真4枚の出典は以下の通りです。但し6番目と7番目の写真は以前自分が撮ったものです。
https://www.jalan.net/kankou/spt_13228ab2042087037/?screenId=OUW1701&influxKbn=0
https://travel.rakuten.co.jp/mytrip/ranking/spot-okutama
https://www.yamagirl.net/guide/804/
2番目の写真は奥多摩周遊道路から見下ろした奥多摩湖です。この湖の西から山梨県になります。奥多摩湖はこのように見下ろした風景も良いのですが沿岸のドライウエイからの眺めも変化に富んで良いものです。
3番目の写真は奥多摩観光で見逃せない御岳山頂上からの眺めです。御岳山に登るケーブルカーがあるので誰でも気軽に行けます。頂上に山岳信仰の神社と宿坊があります。宿坊に泊まったこともありましたが部屋に暖房施設が無くて寒かったのが忘れられません。
4番目の写真は渓谷美を誇る鳩ノ巣渓谷です。鳩ノ巣へは電車で御岳駅からすぐです。鳩ノ巣渓谷へは急な坂道を注意深く下りていきます。鳩ノ巣渓谷は家内と結婚する前に訪れた曾裕の地です。
5番目の写真は紅葉の頃の秋川渓谷の風景です。奥多摩は秋川沿いの桧原村と多摩川沿いの奥多摩町に分かれています。秋川渓谷は桧原村の役場付近にあります。桧原村には数馬の郷という昔風の山里があります。

小澤酒造は奥多摩で元禄15年創業されました。東京以外にお住みの皆様は「澤乃井」という地酒の名前はご存知ないと思います。「澤乃井」は奥多摩の「沢井村」で出来た酒なのでそう命名したものです。
なお詳しくは、『地酒のロマン・甲州と奥多摩の酒蔵の物語』(2021年03月19日 掲載記事)にあります。

さて奥多摩にはもっと沢山見逃せない所があります。桧原村の役場の前の丁字路を右へ入った奥にある払沢の滝と天狗の滝です。有名な那智の滝ほどではありませんが、払沢の滝は東京では一番見事な滝です。それから奥の日原の鍾乳洞は本格的な鍾乳洞です。秋吉台の大規模な鍾乳洞ほどではりませんが、ライトアップされた数多くの鍾乳石や石筍が幻想的な景観を見せています。

今日は奥多摩の魅力的な風景の写真をご紹介致しました。奥多摩へは東京駅から中央線で1時間の立川駅で青梅線へ乗り換え、さらに1時間で行けます。日帰りで充分ですので是非お出掛け下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「思い出多い多摩川と妻のスケートの趣味」

2025年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は思い出の多い多摩川について書いてみたいと思います。
多摩川のお世話になったのは、1962年に東京に住むようになって現在までの60年間以上です。東京の西郊の小金井市に住み始めたので、週末は必ずのように娘と息子を連れて多摩川上流に行き、川遊びや焚火や釣りを楽しんだのです。当時は川原で焚火をするのが普通で、子供たちに枯れ木にマッチ一本で火をつける方法を教えたものです。
一番、足しげく通った場所は御岳駅のそばにある国際マス釣り場の川原でした。川原が広がっていて流れも浅く子供の水遊び適していたからです。3歳の息子が浮き輪に乗って流れてしまい、家内が必死に追いかけた光景が忘れられません。
そして御岳駅のそばの玉川屋というソバ屋にもよく行ったものです。高い場所にある茅葺の昔風の家です。近くには多摩川に沿って幾度も訪れた玉堂美術館や古風な旅館の河鹿苑があります。
玉川屋からは山が見渡せて気分の良いソバ屋です。玉川屋の下に東華園という中華店もありました。
多摩川の面白さはその支流の川原にもあります。例えば都立養鱒試験場の脇の荒れた山道を根気よく車で登って行くと小さな盆地に出ます。真ん中を多摩川の支流が流れています。浅いので車をそのまま入れて渡ると焚火の跡があちこちにある小さな盆地に出ます。大げさに言うと自分達だけの桃源郷のような感じがする場所なのです。何度も、何度も行きました。焚火をして持参のオニギリを食べます。
このように多摩川は私共家族の遊び場であり週末を楽しむ場所でもありました。青梅にあった室内スケートリンク、御岳駅の傍のリンクや沢井の天然氷のスケート場などは家内が60歳になるまで通ったものです。
さて多摩川の水源です。山梨県の笠取山を源とし、上流部では柳沢峠から流れ込んでくる柳沢川と合流し、そこから下流は丹波川(たばがわ)と呼ばれ奥多摩湖に注いでいます。
多摩川と呼ばれているのは奥多摩湖の湖水の出口である小河内ダムより下流からなのです。
多摩川は両岸に堤防のない部分が多いので、野草や野鳥が数多く自然豊かな昔のままの川なのです。それこそが多摩川上流の一番の魅力なのです。

さて奥多摩湖ですが、この山奥の大きな湖は第二次大戦をはさんで困難な工事の末、1957年、小河内ダムの完成により出来た人造湖なのです。

1番目の写真は自分で撮った奥多摩湖の写真です。
巨大なダムの上を歩いていると周囲の山々の緑が碧い湖面に映って素晴らしい景観を見せてくれます。
湖岸をさらに奥に行くと、左手に奥多摩周遊道路があり、そのまま直進すると柳沢峠を越えて甲府盆地に抜けられます。

奥多摩にある美術館は多摩信用金庫が作った多摩美術館と御岳駅の下の河合玉堂美術館があります。
玉堂美術館には大作が展示してあるので何度も行きました。

2番目の写真は玉堂美術館の入り口の写真です。
川合玉堂は日本画壇の巨匠です。昭和19年から昭和32年に亡くなるまでの10余年を御岳駅のそばに住んでいました。

3番目の写真は彼の作品の一例です。私の好きな絵を勝手に選びました。
玉堂は自然を愛し、人を愛し、その人柄は土地の人々からも慕われました。
玉堂は伝統的な日本画の本質を守り、清澄にして気品のある独自な作風を展開しつつ、明治・大正・昭和にわたって作品をえがいて来ました。
次は御岳神社をご紹介いたします。

4番目の写真は御岳神社です。この御岳神社の奥の御岳山頂に登ったり尾根の縦走もよくしました。その他の奥多摩の山々にも登りました。
御岳神社は文暦元年(1234年)に大中臣国兼が荒廃していた社殿を再興し、以降は修験場として知られ、関東の幕府や武士から多くの武具が奉納されています。
ケーブルの山上駅から武蔵御嶽神社へ続く参道、門前町の集落には、天然記念物「神代ケヤキ」、二十数軒の宿坊、御岳ビジターセンターがあります。奥に奥の院、その奥に大岳山があります。
次は鳩ノ巣渓谷です。

5番目の写真は鳩ノ巣渓谷です。 JR鳩ノ巣駅で下車、青梅街道を渡って下に降りると、そこは清流が縫う鳩の巣渓谷があります。多摩川の上流部です。
都内とは思えないほど美しい自然に恵まれた観光地です。
全くの余談ですが、1960年の夏に婚約時代に家内と初めて小さな旅をしたところがこの鳩ノ巣渓谷でした。もう65年も昔の話です。
写真にもっと奥多摩の風景をお送りいたします。自分で撮った写真です。
6番目の写真は御岳駅の近くの國際マス釣り場上流の多摩川です。
7番目の写真は御岳駅の近くの國際マス釣り場です。多摩川そのものに多量のマスを放流して釣り客に楽しんでもらっています。
8番目の写真は中流の羽村の堰の丘の上から見た多摩川と奥多摩の山波です。羽村の堰から江戸まで玉川上水があり江戸へ生活用水を供給してました。

9番目の写真は羽村の堰のすぐ上流の多摩川です。見晴らしが良いのでよく行った所です。
今日は最後に妻のスケートの趣味を書きたいと思います。妻は奥多摩、諏訪湖、富士山、白樺・蓼科、西武園、読売ランドなどの屋外スケート場で滑りました。強風や吹雪がふきつけてくる零下10度や15度の中で妻が娘と息子を従えて滑っていたのです。結局、妻がスケート靴を脱いだのは60才の時でした。 

10番目の写真は何度も行った奥多摩の沢井の天然氷のスケート場での妻です。

今日は思い出の多い多摩川について書きました。娘と息子を連れて川遊びや焚火や釣りを楽しんだ清流の川でした。そして何度も行った奥多摩の沢井のスケート場の写真をお送り致しました。

考えてみると奥多摩は私どもの人生を楽しくしてくれました。豊かにしてくれました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「山梨県の山林の中の小屋」

2025年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム
水の流れる風景に誘われて、1975年に山梨県の山林に小屋を建てました。
早速その小屋を建てた場所を写真で示します。山梨県の甲斐駒岳の麓です。

1番目の写真は山梨県の北杜市から見上げた甲斐駒岳連峰の写真です。晩秋に撮った写真です。右手の山が甲斐駒岳で中央の雪のある所が朝日尾根です。山から流れて来るのは石空川(イシウトロガワ)です。景色だけを眺めていれば良かったのですが、無謀にも小屋 を建ててしまったのです。場所は写真の中央部の山林の中です。

2番目の写真は甲斐駒岳の麓の森の奥にある私の山小屋です。晩秋に撮ったので木々が紅葉しています。電気、ガス、水道の無い小屋でした。スウェーデンの学生さん達も来ました。楽しい思い出がたくさんある小屋です。
3番目の写真は小屋に登って行く雪道です。こんな森の中の道を2Kmほど登ると小屋があります。写真にポツンと小さく写っている人間はよく一緒に行った家内です。

4番目の写真は小屋の窓から見た光景です。一年中、水の涸れない小川が流れていてヤマメが棲んでいます。小川の水は小屋に泊まるときの生活用水です。飲み水は自宅から持って行きます。
冬は非常に寒く日本酒が氷になります。

山林の中の小屋に通うことは寒くて辛い思いをする苦しい趣味です。冬の夜は日本酒さえ凍る寒さです。周囲には人家がなく真っ暗です。梟の鳴く声がします。しかし朝になるとキジや山鳩の声で目が覚めます。春のウグイス、カッコウ、夏の蝉たちなどの声が楽しいのです。いろいろな野生動物にも会えます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「嗚呼、過ぎ去りし日々よ、甲斐駒の麓の思い出」

2025年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム
過ぎ去りし日々を振り返って人生のいろいろを思い出しています。老境にある人は皆同じように自分の人生を時々思い返していると思います。 我が人生で最大の思い出は良き妻を得たことです。68年間一緒に幸せに暮らしてきました。
妻の自慢話を書いたら長くなります。 そこで今日は私が建てた山林の中の小さな小屋の話を書こうと思います。我が人生に深い影響を与えた体験です。 その小屋は八ヶ岳の見える甲斐駒岳の麓の山林のなかにあります。 
甲斐駒岳を見上げると夏に学生君たちと登ったことを思い出します。息子と2人だけで登ったことも思い出します。 そしてスウェーデンやドイツから来た学生のことも思い出すのです。 この山を見る度に登高の情熱と山頂に立った時の高揚感を思い出します。熱い血潮が老境にある私の体にも流れるように感じるのです。 
甲斐駒岳を見上げながら小屋へと上がっていく雑木林のなかの道も思い出します。 晩秋には落葉して明るい陽射がさし込んでいますが、夏には鬱蒼とした暗い道なのです。 
この道を上がっているとスウェーデンから来たバウク君のことを思い出します。小屋に泊まった夜に、彼は暗い雑木林の中を独りで歩き回ってきたのです。 懐中電灯も持たないでよく歩けるねと私が言ました。すると、スウェーデンでは暗い森や厳寒の山で軍事演習を受けたので平気ですと答えたのです。 国の防衛のために若者のすべてが軍事演習に参加しているのです。彼は祖国を守る決心をしました。 
小屋の前に小川が流れています。落ち葉がつかえてダムのようになって池が出来ていました。 この小川のほとりで学生さんたちと夏の夜に一緒にビールを飲んだものです。 

1番目の写真は小屋の前を流れる小川です。
当時は缶ビールが無く全て瓶に詰まっていました。そして生ビールは木の樽でしか配達してくれました。 小屋の下の方の村落にあった野本商店という酒屋さんの若い主人が生ビールの樽を担いで届けてくれました。 それは個人向けの小さな樽でしたが、20リットルくらいは入っていました。十数人で長い夏の夜にゆっくり飲んでは雑木林の中を散歩したものです。
夜の雑木林と言えば犬と一緒に散歩していた若い奥さんのことを思い出します。 私が、「犬が用心棒のような役目をするから怖くないのですね」と言いました。するとすかさず、「いえ、私が犬の用心棒なのです」という答えが返って来ました。 絵を描いていて展覧会に出展していました。毎年花を描いた年賀状が届きました。 
この小川のほとりでは近所の山荘に独りで住んでいるKさんとはバーベキューをしたこともあります。 一緒に遊んだKさんの山荘に歩いて行く道を思い出します。 家内と一緒に草をかき分けて何度も入って行きました。 この道は以前は松の大木の森の中でした。それが数年まえに一切伐採されて明るくなったのです。新しく落葉松が植林さています。 
Kさんは山荘に独りで住んでいました。大きな山荘で別棟の離れもあります。 このKさんは庭に沢山草花を咲かせていました。小川のほとりには水芭蕉も咲かせていました。そしてクリタケやシイタケを栽培していました。モリアオガエルも保護していました。 私の山遊びの指導者のような人です。 クリンソウやカタクリの株、クリタケもシイタケも貰いました。
山林の中の小屋に行くと必ずのように寄りました。 そして昔、乳牛を沢山飼っていた石原さんの家に挨拶に寄ります。 
昔は石原さんの母上がよく搾りたての牛乳を一升瓶に入れて孫と一緒に山林の中の小屋にとどけてくれたものでした。 私の家内や2人の子供たちを可愛がってくれて遊びに行くとナマコ餅、草餅や甘い赤飯、白菜漬けを出してくれました。
ある時は竹林へ行って筍を掘ってくれたこともあります。 
このように山林の中の小屋に行くと楽しかったことが沢山蘇ってくるのです。特にまだ若かった家内とは何度も何日も泊まった楽しい思い出があります。 

今日は私の山林の中の小さな小屋にまつわる思い出をいろいろ書きました。過ぎ去りし日々の思い出のいろいろです。 

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)