フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

グラブソンのムッシュの一喝

2011年05月16日 | プロヴァンス
グラブソンのムッシュの一喝

南仏のアヴィニョンやその近辺の観光のため、適当なB&Bはないかとネットで探し、アヴィニョン近郊のグラブゾンという村にリーズナブルなB&Bを見つけた。

B&Bだから当然夕食がついてない。けれどそこは田舎だし車でない私には外食は無理、夕食も頼んだところ「やってみる。」と言う返事だった。

近郊の観光の送り迎えも、車でしてくれるというので、大変手間がかかる厄介な客として行くことになった。

アヴィニョンTGV駅まで迎えに来てくれるということになっていた。
駅を降りてもそれらしき人が見当たらず、携帯で電話をかけたら通じた。
もう駅に来ているという。

ふと向こうを見ると、日焼けした一人のムッシュが携帯で電話している。
それが彼だった。


B&Bは元農家の家だったみたいで、庭も広く、家も大きかった。
もともと奥さんの祖父の代に住んでいたところらしく、私の部屋は1階の奥さんのお祖母さんが使っていたというなかなか家具調度もいい部屋だった。

夕食は他の客はみな車で来ており、外食していた。
私はオーナー夫婦と、奥さんのお母さんと一緒に庭でディナーをいただいた。
どうやらあまりこういう客はいないみたいで、マダムが腕をふるった料理なのでお母さんも娘夫妻と一緒にお相伴ということらしい。3泊ともそうだった。

ムッシュは若いころ、パリでどうやら今で言うライトアップの仕事をしていたという。
電気の技師だったらしい。
しかしなかなか教養人で、夕食の後、1階にあるピアノでクラシックを弾いていた。
そしてオーナー夫妻は、別のところに住んでおり、夜は帰って行った。

アヴィニョンは勿論、アルルやリュベロン地方と言われるサンレミド・プロバンス、レ・ボー、セナンク修道院、ゴルド、ルションなどムッシュやマダムが交替で送迎してくれたり、一日中付き合ってくれたりした。
それぞれのところに、思い出はあるが、このムッシュとのかかわりで一つ印象に残ったことがある。

セナンク修道院を見て、ゴルドへ向かう途中、狭い道に差し掛かった。
こちらが登り、対向車が下りだった。3台の車と対向したが、相手は譲らず突っ込んできた。

すれ違う時ムッシュは、左の窓をするすると開け、大声で「登りが優先だ!」と一喝した。
毎晩ピアノを弾くし、車中でイブモンタンの「枯葉」を歌ってくれるし、ボードレールの詩をすらすら言ってくれたりで、穏やかな性格だと思っていたが、どうしてどうしてなかなかの体育会系である。

「パリ野郎めが!」と彼は怒って車内で吐き捨てた。ここにフランス南部に住む人の気骨を見た気がする。

フランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」は、フランス南部の港町マルセーユの義勇軍の革命歌だということを、改めて思った。

フランスは、パリだけが全てでは決してない。


ムッシュは.かくのとおりであったが、マダムについて一言述べるとすると、マダムの希望で着物を着せた時のことである。

彼女は顔が小さいのに比べ、非常に体格がよく、着物は手で押さえてないと前がはだける状態で、帯も一巻きしか巻けなかった。
失礼ながら横綱級のマダムであった。

それでもムッシュも大喜びで、写真を撮りまくっていた。
「彼女はインドのサリーも似合ったので買ったんだよ。」
そしてムッシュは続けて言った。
「着物も買ってあげよう。」


最近このB&BのHPを見ると建て増しをしたようで、繁盛しているのは同慶の至りである。


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