フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

優しい微笑みを残し、彼は旅立った。

2012年07月14日 | パリ9区

この一文もシャンソニエ、ラバン・アジルの名ピアニスト、アンリ・モルガンさんへの追悼の続きである。

 

彼に最初に出会ったのは2005年春の宵のことであった。

場所はラバン・アジル、彼が演奏するすぐ横に座っていた私は、彼の演奏に聴きほれ見惚れた。

彼は私の前で、右方向に向かいピアノを弾いていた。

彫りの深い横顔は、音楽の情操の深さを象徴しているかのようだった。

あごのひげを綺麗に整えていたし、来ているベストが良く似合っていた。

 

長い指が鍵盤の上を滑らかに泳ぎ、ゆったりと体は揺れ、肩は腕とともに波打った。

彼はじっと見入る私に気付いたのか、顔をこちらに向け目と目が合った。

 

 

2007年春、再びラバン・アジルを訪れた時、未だ開演前であったので、楽屋がちらと見えた。

そこに懐かしい彼がいた。

 

吸い寄せられるように彼に近づき、二年前に来たけれど彼のことを覚えていると話しかけた。

この時のことは以前ブログに書いた。

 

あれ以来、私達は親しくなり、彼は私の家に毎年来た。

通算5回、宿泊した友人の中で回数としては彼が最高である。

 

一昨年、胃がんの治療中に来た彼は相当弱っていた。

しかし昨年はかなり元気になり、神戸のステーキが食べたいと言うので、神戸に居るスカイプを通じての彼の日本語の先生である若い女性とその彼と一緒に神戸牛を食べた。

 

しかし今年、再発したのである。

 

今年彼の望むボルドーへ行くことをためらったが、一方で今行かないと後悔すると言う無意識の焦りもあった。

 

もう一つ彼はブルターニュの知人宅へ私を連れて行きたがっていた。

その知人はベトナムで知り合ったフランス人のお医者さんであった

 

独身で家族のいない彼は、この知人と家族的な付き合いをしており、この5月にも行ってきたそうだ。

 

ここにはついに行けなかった。

結果的に彼はそこにもお別れに行って来たのだ。

 

いまボルドーへだけでも、よく一緒に行っておいたものだと思う。

彼は私が行くのを気力で待っていてくれたのだ。

 

しんどかったろう。

そんな時でも、カメラを向けると何とも言えない微笑を浮かべる。

 

今その時のどの写真を見ても、彼は微笑んでいる。

あと1か月も無い命をその時彼は知らなかった。

こんなに早く別れが来るとはもちろん私も、ボルドーに居る彼の姪御さん(女医さん)も予想しなかった。

 

日本に帰ってから彼から来た「これから3か月治療を受け良くなるから」というメールの言葉を信じた。

 

私以外にも多くの日本人がラバン・アジルの彼に感動した。

それは、あちこちのブログに書かれている。

 

私の知る彼の日本人の多くの友人が、彼の訃報に泣いた。

 

ピアニストが彼の天職だった。

死の直前まで、ラバン・アジルで演奏していた。

 

彼は日本が好きだった。

日本人が好きだった。

そして日本語も毎年上手になっていた。

 

若い頃は東南アジアを、音楽を仕事に渡り歩き、恋の遍歴もあったらしい。

麻薬を断ち切ろうとして苦しみ、それを乗り切った話も聞いた。

 

長い変化に富んだ人生で味わったいろいろなことが、彼の風貌に表れていた。

優しい微笑みを残し、彼は旅立った。

有難う。アンリ



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