中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

背くらべ地蔵と朝鮮人街道(旧中山道を歩く 314)

2012年04月09日 10時18分10秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(背くらべ地蔵堂とその看板)

(武佐宿 6)
その先の交差点の左手に、背くらべ地蔵がある。
背くらべ地蔵ってなんだろうと説明文を読むと、
(この大小の石仏は鎌倉時代のもので、
中山道を行き交う旅人の道中を守ったと伝えられています。
また、当時は乳児がよく死んだので、
子を持つ親たちが、
「我が子もこのお地蔵さんくらいになれば、後は良く育つ」
と背くらべさせるようになり、
いつしか「背くらべ地蔵」と呼ばれるようになりました。)
(野洲町指定文化財)とある。

右手の小さな地蔵が「背くらべ地蔵」で
左手は阿弥陀如来立像である。
地蔵堂(小屋)の左には、
沢山の地蔵さまが旅人の道中を守って並んでいた。


(背くらべ地蔵尊右側の小さい方)


(小屋の左に並ぶ地蔵群)

地蔵堂の奥には、行事神社の鳥居がある。
神社前の道路を隔てて向い側には小公園があり、
脇に水路が流れている。
水路脇の公園の一角に(行合の水辺修景整備)と題し、
山を背景に農耕を営む人たちのレリーフが埋め込まれている石碑がある。
その脇に、
(史跡・祇王井川
江辺庄に生まれた祇王(ぎおう)は故郷の水利が悪く旱魃に悩まされていることを、
「平清盛」に訴え、承安三年(1173)野洲川のほとりから、
琵琶湖野田浦に至る三里(約十二キロ)の間に水路を作らせました。
その恩恵を讃えて、この水路を「祇王井川(ぎおういかわ)」と名づけられました。
このレリーフは、当時の水路工事の風景を描写したものです。)とある。
(滋賀県野洲町)


(行事神社の鳥居)


(神社向かいの小公園と祇王井川)


(祇王井川掘削のレリーフ)

中山道に戻り進むと、左手に仏身山唯心寺があり、
道路突き当たりを右折した右角に蓮照寺がある。
ここには朝鮮人街道分岐点にあったとされる、道標がある。
山門をくぐると正面に本堂と白い象、右側に鐘楼があり、
鐘楼手前にその道標はある。
「右 中山道」「左 八まん道」とある。


(道路を突き当たる手前左にある唯心寺)


(右手にある蓮照寺)


(奥の本堂と白い象と手前右側の鐘楼)


(鐘楼脇の道標、「右中山道 左八まん道」と読める)

中山道を進むと、左手に古いお堂がある。何のお堂であるか不明だ。
地蔵堂なのか、あるいは阿弥陀堂であろうか。
道なりに進むとコミュニティバスの停留所があるが、
これに(おのりやす)と関西弁というか、
京都弁で書かれているのが、ほほ笑ましい。


(阿弥陀堂?)


(「おのりやす」のバス停=「どうぞおのりくださいませ」にきこえる。)

この先で東海道線のガードをくぐり、やがて野洲川に近づくと、
右手に十輪院がある。道路向かい側に地蔵尊が山と積まれている。
脇を通り抜けて野洲川の橋に出る。
左を見渡すと三上山の近江富士が美しい姿を見せている。
野洲川は夏と秋には水量がなくなり、徒歩渡りであるが、
水量が多い時は船渡しであったという。


(道路先に見える東海道線のガード)


(十輪院)


(道路を挟んで並ぶ沢山の地蔵尊)


(野洲川橋)


(野洲川)

後ほど草津の交流館での話では、
皇女和宮の渡河の時は水量が無かったといわれる、と聞いた。
橋を渡り終え、いよいよこれから守山宿に入る。

(野洲川の土手から見た三上山(近江富士)




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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
JR新快速で大阪駅からこの辺りで一時間が経過す... (鉄ちゃん爺や  黒田)
2012-04-09 19:28:04
JR新快速で大阪駅からこの辺りで一時間が経過すると言う辺りですね。

西側の遠くにはもう比叡山が見えているでしょうな。

お隣の栗東には仕事の関係でよく訪れましたけど。





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鉄ちゃん爺やさん (hide-san)
2012-04-09 19:57:50
鉄ちゃん爺やさん

コメント有難うございます。

よく晴れた日で楽しく歩きました。
JR瀬田駅近くに泊りました。
返信する
乳児を背中に…当時の女性は逞しかっただろうな! (164abemasa)
2012-04-10 17:15:44
乳児を背中に…当時の女性は逞しかっただろうな!
子供に優る宝は無かった!
栄養不十分のなかで母乳…命に代えての子育て
一日でも早く、地蔵様の背丈に…強い願望

いまの女性とは大違い?
男社会で嫁として家事の責任は重大
子育て嫌なら三行半~時代逆行はないが将来懸念大
返信する
164abemasaさん (hide-san)
2012-04-11 10:48:53
164abemasaさん

コメント有難うございます。
一般的に戦前は男子の出生率が高く、女子の出生率は低かったようですが、
男子の死亡率が高く、成人するに及んで男女同じくらいになった様です。
栄養の面もあるのでしょうが、今は幼児死亡率が減って男子の方が多くなっているようです。
昔の女性はよく子を産みました。
ボクも兄弟六人です。他に二人は乳幼児の時死んでおります。
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