★ 「あらゆるものの間近にいようなどとしないこと」、これはまさに直接性の信仰に対する警告でもあります。サルトルの思想がもたらした熱狂や流行は、エジプトの若者が抱いたような欲望にそれが応えてくれるかに見えたからであったかもしれません。しかし、それから、わたしたちは「経験を積み」、用心深くなっています。サルトル以後、なにもかもを直接「知ろう」とする欲望にわたしたちは飽いて、「礼節」を守りながら、世界に別の仕方でアプローチしようとしているところかもしれません。ただそうした境地にわたしたちが立つことができるとすれば、それはサルトルを読むことによって、真理に直接到達しようとする欲望がどこに通じており、どこで行き詰るかを知ることができたからです。
★ ただ、わたしたちが、直接的な知への欲望をどこまで断ち切れているかは定かでありません。そもそも、哲学とはそうした真理への欲望に突き動かされてあるのではなかったでしょうか。だから、この欲望を断ち切ることなどできず、いつでも真理に迫ろうとする思いはよみがえるでしょう。そのとき、わたしたちはもう一度サルトルを読み返さなければならないのです。
★ 直接性に到達するためには、直接性を迂回し、むしろ媒介された関係性に身を投じなければならない――これこそはサルトルの試みを踏まえて、これから考えていくべき課題なのです。
★ 最後にもう一度『嘔吐』の最後の場面に戻ってみましょう。そこでロカンタンは「最後にもう一度」ジャズナンバー「いつかある日に」に耳を傾けます。そのとき、世界が一瞬停止し、瞬間と永遠が、自由と必然性がいっしょになり、「救い」がやってきます。では、わたしたちが世界としっかりつながり、そこで存在があるがままに肯定される瞬間というものが、やはりあるのではないでしょうか。世界があるがままに現前し、それがそのまま光り輝いて存在する瞬間があるのではないでしょうか。サルトルが抱いたその思いは、わたしたちが共有するものでもあります。この世界の輝きをわたしたちはどのように受け止めればいいのでしょうか。サルトルが描いた「最後にもう一度」訪れる完璧な瞬間に感動するものは、おそらくまだ存在の直接的な充足の願いをもちつづけているのです。この願いがあるかぎり、わたしたちはサルトルの同時代人でありつづけるでしょう。
<梅木達郎『サルトル 失われた直接性を求めて』(シリーズ哲学のエッセンス2006)>