わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

宇宙神と同格ということについて

2010-10-31 11:08:47 | 癒し
 今まで何度か説いてきましたように、人間の生命の流れ

というものは、本来、宇宙神のずっと深いところまで

繋がっているんだというところまでお話ししたかと

思います。

 それでこの間、直線的に昌美が宇宙神と皆さんとは同格

であると、そういうことを言ったかと思います。それで今

聞いていると、諸説紛々だというので、じゃあちょっと

こちらからのメッセージを言ってみようかと思うんですけれど。


 同格というと、同格という言葉に又把われるのが人間

なんですね。じゃあ同格というと宇宙神とまるで同じと

いうことになると、じゃあ宇宙神というのは何かというと、

すべてのすべてなんですね。生命の元の元。人間の生命だけ

じゃなくって、この宇宙全体を造った、もう造ったも何も

造る前からいた。それと同じかということになると仰天しちゃう

訳なんです。


 何故かというと、人間というのは、この肉体という不自由な

ものを持ってまして、一日の内でも、何度も何度も言うように、

気分が変わる喜怒哀楽が出てくる。

 そういうものと宇宙神が同じだと言われてしまうと、とんでもない

という気持ちがまず出て来る。

 それでなくったって我々は凡夫なんだから、いただき直しの生命

なんだからといってずっと説いて来て、そして皆さんも祈っている。

 そういう中で、そういう風に言われてしまうとわあ─と思う。思う

けれども、昌美が言ったのはね、その生命の現われとしての宇宙神と

一緒なんだという風に捉えてしまうと、つまり、全体の存在と同格だ

という風に捉えてしまうと、皆困るんですね。そうじゃない。

じゃあ昌美は嘘を言ったのか、そうじゃあないですね。


 同格だというのは、何において同格かというと、皆さんの奥の奥の

悟ってる本体、神体ね、肉体じゃないですよ。

神体、本来心というものがね、何によってできているかというと、

宇宙神からの光明と(光と)ですね、愛と、そういうものによって

生きてる訳なんです。

 宇宙神の愛というのは、これはもう極まりのない愛なんですね。

 すべてのものを生かそう、すべてのものをより良くもって行こう、

敵も無いんです。味方も無いんです。あるがままなんですね。


 そういうものが、我々のこの肉体、我の強い肉体を通して光になって、

そして、我々は肉体の生命を養ってもらってる訳なんですね。そして、

自分の内の奥の奥にもそれと同じものがある。そういうことを

考えますとね、つまり、我々というのは意識するしないに関わらず、

愛したいと思う、仲良くやりたいと思う、平和にやりたいと思う、喧嘩を

したくないと思う、砕いて言えばですね、そういう気持ちね。

 つまり、世界人類が平和でありますようにという気持ち。何処にも

戦争がなくって無事に平穏に、皆がそれぞれに、それぞれの家庭で生きて

いけたらと思う。その祈りの気持ち。

 それは何かというと、ずっとつき詰めていくと、宇宙神があるがままの

生命を認めて、そのままにありのままに生かしていく。それが自分の望み

であり願いであり祈りであるんだと。

 その本来心の祈りを受けて、世界人類が平和でありますようにという

あの文句が出来た訳ですから。


 ということは、自分の中にも、ものすごく素朴だけれども、そういう風に

祈る、自分の家族のこと自分のことまわりのこと、そこからずっといって

世界人類のこと、本当に平和であればいいなと祈る。

 そういう何ともしれない思いが湧き起こる。湧き起こる時には、人間と

いうのは、その時には我には満たされてないんですね。やっぱりその時には

光になってるわけ。その光というのは、祈る時にもちろん強められるし深め

られるし、こっちから見ていると光明そのものになるけれども、祈る時だけが

光明かというとそうじゃない。


 普段は、自分が光明体であるということを皆忘れて生きているんです。何故

かというと、この世の中というのは、忙しいんですね。仕事しなきゃなんない、

連絡しなきゃなんない、子供の面倒はみなきゃなんない、夫婦の中で解決

しなきゃいけない問題がある、親子の中で解決しなきゃいけない問題がある、

家庭はある・・。そんな事で、自分が光明身だとか、そういう体を持ってる

とかということは、なかなか肉体のこの意識からはのぼって来ない訳なんです。


 で、心を鎮めて、皆で統一してさあ祈りましょうという時には、それは

スウーッと出て来やすい訳ね。それは、何も祈ったと同時に自分自身が

変わるんじゃないんです。自分自身というものは、本人が意識するしない、

あなた自身が意識するしないに関わらず、光なんです。

 何故かというと、神様から分かれて来ている生命だから、分生命だから

光なんです。それはどんなにその人が何を表面的にどうしようと、奥に

その光明があって、その光明が出たがってる。そして、その人本人のその

余分なものを取っ払っていったら、その人自身も光になる。

 で、その光は愛とゆるしと平和である。ということにおいて皆平等

なんです。同じなんです。


 その愛とゆるしと平等の元の元、平和の元、それが宇宙神なんですね。

 だから、あなた方は宇宙神と同格であるというのは、そういうもともと

あなた方の中の生命を生かしめている、思いだけじゃなくて、肉体も全部

含めてね、我々からすると煩わしいものも全部含めて、この世の中に

生かしめられて働かしめられてる、その元の元が愛とゆるしと平和だから、

その大元を辿って行けば、何度も言うけれども、つまり宇宙神だから、

それは本人が意識するしないじゃないんですね。


 昌美があの時あれを言ったというのは、もともと宇宙神と同格である

というのは、そういう分かれてきた生命の末、元と末ですから、で、その末

というのは萎びるんじゃなくて、これからもずっと続いていく末だから、

ずっと連らなってるものだから、もうそろそろあなた方が光明なんですよ

ということを、あそこであの子は言いたかった筈なんですね。そうして、

それぞれに分けられている光明身というものをずっと繋いでいって、祈りに

していって、そうして、世界人類がーとやっていけばね、そうしたらつまり、

それは宇宙神のみ心になる訳。宇宙神のみ心と一つになる訳です。そこに

入っちゃう訳ね。


 今は、魂というか、そういう本来心がどんどんどんどん磨かれていって、

どんな時にもみ心の中へ入るようにやっていかないと、この地球の汚れ

というものは、なかなか大変なんですね。今随分掃除が出来てるけれども、

でも根っこの所もまだまだ一杯大変なものがあるから。

 それで宇宙神と同格だというのは、それも本来本当の意味だけれども、

あなた方を励ます、ね。萎縮(いしゅく)するんじゃなくって、縮むんじゃ

なくって、そうだそうだ生命の本当の本当の底のところで我々はそうなんだと

宇宙神のみ心の中を見てみると、自分がまわりを平和にしたい、ゆるして

いきたい、自分もゆるしていきたい、健やかに育っていきたい、生きていきたい、

というのと、宇宙神の方からこちらを見て、いい人間一人一人を本当に愛して

ゆきたい、ゆるしていきたいというのと、一緒なんですからね。何にも変わる

ところがないんですよ。


 ただこの世の中では色んな煩いがあるから、そういう気持ちになるところが

少ないけれども。しかし、先程申しました様に、神様が生かしている間という

のは、悟ってる本体、あなた方の神体、霊体というのは、常に祈りを捧げて

いる訳、宇宙神と一緒になって捧げている訳、共に捧げている訳なんです。

 目には見えないけれどもね。ですから、分かれるも分かれないもね、ずーっと

一緒なんですよね。そういう意味で同格なんです。


 ですから生命のすべてを造った創造主としての宇宙神というものをへんに

想像してしまうと、そこでおかしなことになるけれども、そうではなくて、

つまり本当の心の底のところで、現われも何も超越したところで、我々は一本に

つながっているんだ。そこで我々は抱きとられてるんだ。愛されてるんだ。ゆる

されているんだ。だから我々もささやかでも、ゆるして愛してできるだけ平和に

という風に努力をしてやっていったら、その時に自分の中の霊性が目覚めて、

喜んで高まっていってね、自分の愛の光がゆるしの光がまわりに飛び交って、

そうして、皆の中にその光の輪が広がっていくというかね。祈りというものは

そういうものなんですね。


 だから、祈ってる時だけがただ光明心が出てくる訳じゃない。その時だけが

同格というのも、それも正確じゃない。

 常に常に自分の中で自分の知らないところで、自分の本体は本心は宇宙神と

同じような働きをしているんです。

 父子御霊とキリスト教でいいますよね、三位一体。あれは、父子御霊

という風に分けることが出来ないんです。あれは本当に一体なんです。


 たとえば、愛とゆるしと平和というものがそれぞれ違うもんですかといったら、

これはみんな一つらなりに連らなってるというのと一緒なんです。我々は神から

分かれてきた生命であるというのは、じゃあ神様と人間の生命とはどんな風に

違うんですかというのは、それは正解じゃないんです。一緒なんです。

 一緒なんだけれども、ただ今のこの世の中の色々な現われでもって、自分の状況

でもって、その言葉なりを測ってしまうと、自分の想像でもって測ってしまうと、

とてつも無くおかしな事になるわけね。


 そうではない。本体において神体において本来心において、我々は一時(とき)も

神様から離れたことはない。宇宙神から離れたことはないし、宇宙神も

離したことは無い。そういう意味において、不即不離なんだということね。

 これが、我々は宇宙神と同格なんだということの本当の意味なんです。

                         昭和63年6月13日
    
                              五井昌久

平和な心

2010-10-30 12:45:42 | 癒し
 私共にとって、心を平和にするということはなかなか出来ることでは

ありません。それは何故かと申しますと、一日の間にでも、色々悲しい

事が起ったり、厭なことが起ったり、悔しい事が起ったりして、心の

中を平和に保つということは、まことに難しい事だからであります。が、

それをどういう風にすれば平和にできるかと思って、人間というのは、

例えば、芸術方面で、美術を鑑賞したりあるいは書道をやったりお花を

したり、色んな心を和ませる様なことをして、そうして、自分の中の

雑駁なものを取ろうと取ろうと思って、一所懸命やるんだけれども。

 でも、花に向かい合ってる時には平和であっても、人間関係のギスギス

した現場へ戻って来ると、その平和であった穏やかであった心が元へ

戻ってしまって、元の木阿弥になってしまってね、それでどうにも

ならなくなっちゃう。こんな事では、いくらお金を使ってお稽古事を

やったって、何かもう自分の中のちょっとした気慰みにしか過ぎないじゃ

ないかという風な事で、そういう人が溜息ついたりするのを聞いてますと

ですね、自分の内の色んなゴタゴタをじゃあ何処へ捨てたらいいのかと

いうので、今、とっても悩んでる人が沢山いる訳ですね。


 例えば、山登りの好きな人など山に行くけれども、山の頂上に立って、

ああいい気持ちだなあ、人間は小さいなあ、と思う。その想った瞬間は

いいけれども、又こっちへ帰って来て駄目になる。その繰り返しなんです。

 それで、その慰めというか、もっともっと人間のその生命の萎びている

状態をなんとかしなきゃというので、何が出て来たかというと、文学が

出て来たり色々なものが出て来たりするけれども、結局落ち着かない。

 落ち着かないというのは、人間の肉体というのは何時も申しますように、

我でもって汚れている。そうして、色んな人の言うことなどが気になって、

自分の評判はどうだろうとか、自分の仕事は旨くいくだろうかとか、

そういう心配や不安、不平やら不満などですね、色んなものがこう

重なって檻みたいになってるもんだから、なかなか自分の心を落ち着ける

というところまでいかない訳なんです。


 それで、もちろん、レンブラントだとかミレーやゴヤだとか、東西の

色んな良い芸術家がおりますけれど、そういう人達、その天心を現わした

人達というのは、本当に導き手ではあっても、我々凡人がその人達と

一緒の心になれるかといったら、そうはいかない。それで、芸術なんか

と同時に、慰め以上のものとして、やっぱり、釈迦だとか孔子だとか、

それからキリストだとかですね、色んな人が出て来て、そうして道を

説いてる。何を説いてるかというと、祈るということについて説いてる

訳です。


 私は、祈りというのは、キリスト教などでは絶対者に対する全託と

いう風なことを申しますけれど、それは真実ではありますけれども、

この今生きてる人間が肉体人間のままで、じゃあ天父のごとく完全になれ

といったって、そんなに完全になれる訳はないのですから、この在りの

まんまで、神様のみ心の中へ入れちゃう。任せてしまう。弱いまんまで

いいんですね。


 不平不満を抱いているまんまでいいわけ。そうして、生命の洗濯と

いうものを本当にしていただいて。その為に祈りのエレベーターに乗って、

神様を呼んで、そうして、自分の中の本来のほがらかな生命の元の

根っこのところを見つめてですね、その根っこのところというのはこれは

宇宙神とつながっておりますから、その宇宙神とつながっているそういう

ところを見ていると、これは光明そのものなんですから、光明そのものの

自分を見るということにもなる訳なんです。


 宇宙神だけが光明じゃないわけね。自然の中も、それからありと

あらゆる息しているものね。動物にしろ植物にしろすべて生命あるものね。

 それから、鉱物にしろ何にしろ、我々からすると、言葉をもたない

無機物という風なものでも、ちゃんと守護する神様がいて、そうして

それを導いていく、そういう用命を持ってる神霊方がいる訳で、それは皆

光明を持ってる訳なんです。

 この宇宙の宇宙子というものは皆光明を帯びてる。その光明を帯びてる

同志が、奥の生命でもって呼びかけ合って、大調和と愛と平和という

ものが宇宙の根本の精神にもなり、それから秩序を保ってる。そういう

ものにもなってる訳です。


 ですが、その中で地球は、宇宙人がいつも幼ない兄弟と申しております

ように、霊妙な光明波動というものがなかなか届いてこない。

 人間というのは、自分の我でもって生きるから、自分が光明そのものだ

なんて思えないけれども、しかし、ずーっと日常の中で悩んだり苦しん

だり悲しんだりしている中で、自分をお任せして、そうして何か、本来の

生命の中に自分を入れていきますとね、そうしますと、自分が光で

あること、人も光であること、それからこの自然全体の中にとけ入ってる

生命の一部であること、自分自身がですね。そういうことが分かる訳です。

 そうして、もっともっと奥を見つめていくと何が分かるかというと、

神様が愛であるということが分かってくる訳ですね。

 例えば、世の中不公平なんで、才能がある人と無い人とある。それから、

お金持ちな人とそうじゃない人とある。色んな環境の違いというものは

あるけれども、しかし、それは皆想いの現われなんですね。あるいは、

人間の生命というのは、何時も申しますように、今だけの生命ではない。

 ずーっと前生、前々生からずーと生き通して来ている。そこで獲得

してきた色々な環境の末に、今の想いが重なって、今の環境が出来て

きている訳です。

 ですから、順境にしても逆境にしてもですね、一番難しいのは、心を

豊かにしてそうして愛深く、自分にも愛深く人にも愛深く生きるという

ことがなかなか難しい訳です。

 ですけれども、自分にも人にも愛深く接して行って、そうして、

不完全な自分ではあるけれども、それを一回お願いしますといって神様の

前に投げ出してしまった時に、神様がよしと引き受けてですね、引き

取ってね、光を与えて、今までより以上に光を与えてですね。そうして

本当に、その時には心が平和になってくるわけ。


 祈りの根本というのはそうなんですけれども、南無阿弥陀仏にしろ

南無妙法蓮華経にしろですね、主の祈りにしても他の祈りにしても、

皆祈りというものは、そういう奥深いものをもってる訳ですけれども。

 じゃあ南無阿弥陀仏といったって、なかなか今先入観があって、

極楽浄土のことしか浮んで来ないわけね。南無妙法蓮華経といったら、

日蓮宗のことしか浮んで来ない。じゃあ日蓮宗だけ信じていれば、他の

所は全部駄目なのかというと、そうじゃない。


 人間というのは、神様の生命の分かれですから、皆神の子ですから、

そういうものではない訳なんです。そういう所から見ますとね、生命の

奥の祈りのもっと奥の光明そのものに辿り着くその道筋というのは、

色々あっていいんだけれども、しかし、人間が本当にこの世に今現代に

生きてる我々が、ああそうだなあと納得ができる、つまり、理論的にも

納得し共感が出来て、そうして愛を呼び起す祈りとしては、世界人類が

平和でありますようにという祈りが一番心を落ち着かせる。静かにさせる

祈りである。と私は思う訳ですね。

 この光明心というものをずーっと散蒔いていきますと、自分自身も

浄まっていく、まわりも浄まっていく。別に宗教家になったり

しなくっても、要するに、これをやっていれば菩薩行をやっている様な

ことになる訳です。皆知らない内にやる訳ですね。


 いつも何時も、私は繰り返しこのところ申し上げていますけれども、

何時の間にか心が落ち着いていく。何時の間にか心が静かになる。

 そういうことが大事なんです。心を平和にしよう平和にしようと思って、

何か落ち着かせよう落ち着かせようとするとですね。例えば、胸が

ドキドキすると、ドキドキするのを何とか治めなくちゃあと思うけれども

治まらないと、興奮したり緊張したりすると、ますます顔が赤らんだり

心臓がドキドキしたり、それと一緒でですね。平和にしよう平和に

しようと思ってる間は、本当には平和にならないんですね。

 今、自分の心は平和じゃないけれども、しかし、すいません、この

ままでよろしくお願いしますと言ってしまいますと、もう神様というのは、

こちらから見てて、もう完全に抱きとって愛して赦しとってですね、

そうして何時の間にか落ち着かせるように、気持ちを持っていって下さる

訳です。


 自分の心は自分がよく知ってると言いますけれど、我々の中で知って

いるように思うのは、それは感情なんでしてね。肉体人間の中の我の

一番上の部分、氷山の一番見えてる部分しか分からない。心というものは、

ずーっと奥に行きますと本来心があって、本来心の奥は宇宙につながって、

宇宙の奥は神様につながってる訳なんです。非常に距離が遠いように思う

けれども、キリストが言いますね、「汝らの内に神あり」と。あれと

一緒で、人間の奥の奥には神様と同じ生命の流れがあるから、自分の中の

神様と話をしようと思ったら、自然に祈りに入っていけば神様の声が

聴こえるというか、神様がこう望んでいらっしゃるんだな、人間の生命

というのはこう進んで行くもんなんだな、あるいは、世の中の運行という

ものは本当の意味では公平なんだなということが分かって来るんですね。

 あるいは、もっとはっきり言ってしまえば、奥の体というものがそれは

もう分かってる訳なんです。


 ですけれども、我々何十年か生きてまいりまして、やっぱり、

それなりの社会的な地位だとか今の立場だとか、結婚してるとか結婚して

ないとか、色んな此の世的なとらわれがあります。こだわりもあります。

 そのとらわれとかこだわりを無理にとってですね、そうして、じゃあ皆

同じ様に宗教の道へ入れといったって、それは無理な話だから、その

こだわりはこだわりとしてそれを一見大事にしながら、本当に子供

みたいに祈っていくと、道というのは開けていくものなんですね。


 だから、目の前の表面的な現われてきた環境だけに把われていると、

本当のことというのは分かりにくい。そして、その奥のことというのは

本当に人間には分からない色々なものがある訳なんです。

 例えば、生死にしましても、何十年も健康でやっていけるだろうと

思った人が、ポックリ心臓で死んでしまったりとかですね、こんなに一杯

病気持ってる人がという人が、何十年も生きちゃったり、そういうことも

ある訳です。

 だけれども、それは神様の側から見ていれば、本当に大宇宙の中の

大きな流れの中の一滴として、人間の生命を器を使う。公平に使うという

ことが大大大奥にはある訳ですけれども、そこまでいかなくてもね、

祈りの階段を一歩づつ登るというのは、取り敢えず今の私をそのまま

正直に神様の前にさらけ出して、そして、「すいませんお願いします」と

言ってお祈りをする、続けていく。そうすると、いつの間にか平静に

なって、心が平和になって静かになって、自分で力むのでもなく、

まわりから色々な援助が来たり、あるいは、人の為に祈る気持ちが

起ったり、親切にする気持ちが起ったり、われしらず喜んだりする訳

なんですよね。


 心というものは放ったらかしておくと、本当に喜びたがるもの

なんですね。それに、この世の色んな枠なんかで、我々が色メガネで

世間というものをみて、自分の心というものを見てしまいますと、それは

もう我の世界と同じ様に見えてしまう。そうではなくて、心というのは

神様と繋がっているものですから。

 そういう心を我々はいただいて、そして平和に生きるようになってる

ものなんですから、平和にならないという方が、本当は原則から言えば、

普通ではないおかしいんです。

 ですから、本当は私の心は元々平和なんだなと思って、今の不安なり

不満なりをこちらに預けて下さったら、こちらの方でちゃんと浄めて

光を送って、そして、後で考えてみたら、あああそこで迷って悩んで

立ち止まって、お金は失くなったけど、あそこで宝を貰ったなあ、とか

ということが五年たったり十年たったりすると分かるようになる。

 そこまで連れていくのが私の仕事なんでして。喜びそうな事言って

五井先生は連れていくというけれども。


 そうじゃない。やっぱりこの世の中に生きることというのは、非常に

辛いことが多い訳です。その中で、世界人類が平和でありますようにと

言ったってですね、自分の気持ちが平和にならなければ、とてもじゃない

けれどやりきれない訳ね。人の為に祈るなんて、そんな気持ちになれない

人がこの世の中に一杯いる訳なんですよね。そういう時には、祈れと

言ったって祈れませんから、すいません私は今祈れませんよろしくお願い

しますと、もうとに角預けなさい。銀行じゃないけど、預けて預け

きったら、そこでふっと何だか訳の分からない道が開けてくる、と

いう風に私は言う訳なんです。その時に、預け切ってしまいますと、必ず

自分の生命の奥にある愛念というものがふーっと静かに昇ってきましてね、

誰を愛するとかいう理屈じゃなくって、何か心を一滴平和にする様な

ものがポッとおきる訳です。そこで、ああそうだ、それじゃあもう任せて

しまおうという気持ちになる。

 法然さんとか親鸞さんはそういう気持ちになって南無阿弥陀仏を

唱えたし、キリストというのはそういう気持ちになって神様を説いた。

 我々だって、そういう気持ちになって祈りを続けていけば、やって

いけないことはないんです。


 自分がやると思うからとっても大変なんですね。自分は何にも出来ない

です。自分の生命も何もかもこれは借りものなんですから、いただいてる

ものなんですから、自分のものというのは体の中に一本もない訳ですね。

 足の一本も造って生れて来た訳じゃない。全部神様からいただいてる

ものです。それで、私はこういう風に生きたいんですとこちらで自分の

人生を設計して、そうして、どうでしょうかと見取図を出す。そうすると、

神様の方で見て、ああここはちょっと道が曲がってるよなんていうことに

なると、ある計画がストップになったりですね、こっちで折角何か

しようと思ってるのにうまくいかなかったり、そういう形で現われてくる

かもしれないけれど、それは向こうの方が危ないと思ってるから

ストップをかけてる、というのが私には分かる訳ですね。

 ですから、個々色んな場合に色んな背景があるとは思いますが、それを

ひっくるめて、とに角祈って祈って祈り抜いて行く。祈ること即ち行

なんです。行というものは光に繋がる訳ですね。


 とに角何でもかまいません。べつに、世界人類が平和でありますように

でなくとも構わないんです。何にも宗教を信じていない人でも、太陽を

拝んで、ああ今日も一日ありがとうございましたと言ったら、その時

その人は光明になっているんです。

 そのように人間というのは赤ん坊みたいに、無邪気に明るく生きて

いければいい訳なんです。ただ私は、その立場立場のその方達の心の

本心を開くお手伝いをする。それが五井昌久の天命ですから、そういう

事を白光の方々も心がけて、そうして、ただ五井先生を拡めるとか、

これが一番いいお祈りですよとかいうのではなくて、その人の世界の

言葉でしゃべる。その人の世界の言葉でこちらから語りかけて、そうして、

頑なになってる心であればそれを抱くようにする。その時には私もそばに

居ますから。


 決して自分がするというのではなく、何か大きな神様の愛があって、

その大きな神様の愛によって我々は生きているんだということを、

しっかりそこだけを間違わないで、そうして、お浄めでも何でもさせて

いただく様になればですね、その人自身の余分なものは離れていくし、

それから、自分自身も浄まっていく訳ですね。

 そうして、この世の中の生活というものも大事ですから、その生活の

中で出来る時に祈って行けば、いつの間にか、そうだあの人と喧嘩をして

いたっけという様な、そういう心になっていく訳なんです。


 それは今、平和にしよう平和にしようと思っても出来ない。出来ない

けれども、努めていくとね、何も努力しないでいいというんじゃない、

努力をしていくと、そういう風に余分なものを取っ払って下さるのです。

 その取っ払いの役が色々あるんですよ。守護霊さんとか守護神さんとか

私とか、色々あるんですよということを、世界人類が平和で

ありますようにという何の把われもない言葉の中に全部込めて、

語り込んである。祈り込んである訳なんです。だから、あれを祈ると心は

確かに平和になる訳です。

           (つづく)


 






平和な心

2010-10-30 10:39:18 | 癒し
    (つづき)

  色々な宗派の方がおられると思うし、俺は無宗教だという人もいると

思うけれども、しかし、世界人類が平和でありますようにの中に

込められるようなそういうひびきでもって生きていかなければ、今の

世の中、もう光明化していくということは出来ない。

 ですから、色々な宗教や、あるいは宗教の立場じゃない人達とも一緒に

生きる、共に生きるということを目ざしていく為には、自分の生命という

ものを一回神様に返してしまって、預けてしまって、それから無になって

祈る。そして、祈っていく事を毎日の朝夕の日課にする。そういうところ

からやっぱり、励みになって、光というのは出て来る訳なんです。


 もちろん、祈りというものは肉体だけではない。その奥の体でずっと

祈りづめに本当は祈ってるんですけれどもね。肉体がそれをちゃんと

自覚をする為には、どこかで時間を決めて祈るという、一つの形という

ものがいる訳です。私から見ていると、形というものは全く無意味と

言ったら何ですけれども。

 でもやっぱり統一会などで世界平和の祈りを致しましょう。ね。

 私などが導師になってやる。あるいは村田さんなんかがやる。昌美が

やる。というのは、そこで心を一つにして祈る。時を同じくして祈る。

 覚えて祈る。ということによって、本心の中にスーッと入っていく、

自分の中の本心にスーッと入っていって、人間の本来の生命と出会う。

 というそこを目指している訳です。ですから、朝夕にその人が

祈りやすい時間でいいんです。朝起きて寝起きが一番自分は緊張して

よろしいとかですね、色んな人がいると思います。その人のその立場に

よって祈ってゆけばですね、気持ちというのは段々落ち着いて静かに

なって平和になっていく、しーんとして本当に平和になった瞬間と

いうのは、実は、我々は個々にいて本当は分かっていないけれども、

宇宙の中の平和の元、根元と一体になってるんだ。


 だから、我々の生命は個の生命であると同時に、人類全体の中の一つの

一滴の生命であって、そして、人類というものを支えているんだ。もっと

言えば、宇宙神の御心を支えているんだ。

 そういうつもりで生きていっても構わないんです。ただそれをあんまり

声高にいいますとね、じゃあ我々だけが御心をやっていく人間なのか、

これは字面だけをとりますとね、何といいますか、傲慢無礼と

いいますかね、そう聞こえてしまう。


 ですけれども、本当のところ言えばやはり、個人だけの生命じゃない訳

ですね。人は一人では生きられないと言うけれども、何かこう気持ちが

寂しがる、心が寂しがる。そして、例えば、アメリカと日本に離れて

いても、知らない人とある日であうことがあるかもわからない。それと

同じように、実は我々は霊的には皆知り合いなんですね。この世の中に

生きてる人達というのは皆、今の時代に会う人も会わない人も、皆

知り合いなんです。

 ですから、ここで我々が祈り心でもって何かする。心を落ち着け静かに

働いていく。質実に自分を高めていく。そういう事をしていると、それが

人類全体のひびきになっていく訳ですね。


いつも私が申し上げたように、色んな天災だとか、テンサイと言ったって

凡才天才のテンサイじゃないですよ。そうじゃなくて天変地異ね。大雨や

雪などの天気というものね。天気というものは、今悲しいことに、人間の

業によって大水が出たり何だかんだで浄めなければいけない、そこまで

来ている。

 つまり、業がそれだけ空気を汚れさせている。人類の心の空気を汚れ

させている。だから、世界平和の祈りというのは、そういうのを

光明波動でもってサーッと掃除をするというのはあるけれども、とに角

我々一人一人が誠実に自分の持場でずっとやっていると、それが自分一人

だけのことに返って来ないで、そのひびきがずっと全体にまわっていって、

そうして、宇宙そのものからも光明がくる。


さっき私が申し上げたようなああいう順序で真理が花開いていくと

いうのは、これは真実なことなんですね。

 そこまで人間というものは大きくて深い。自分の身の丈何尺何寸とか

昔いいましたけれどね、今で言えば、160とか170とか、

180センチになったら高い方だとかいいますけれど、人間の大きさと

いうのは本当はずっと宇宙まで貫いていくみたいな、それ程大きな光明体

なんですね。

 ですから、本当に深い人を霊視しますと、もうこの会堂いっぱいとか、

この家いっぱいでは足らなくなる。もうずっと貫いて天までいっちゃうん

ですね。それは特別な人じゃなくって皆がそうなんです。皆が光なんです。

 ですから、その光を集めて、そうして何かやったらこれはすごいことに

なる訳です。


 だから、我々がやってる世界平和を祈る運動というのは、世界人類が

平和でありますようにという祈りを国と国も、人と一緒にやる。

 そうすると、その人達の言葉を、外国人であるとか英語であるとか

独語であるとかいう言葉の壁を超えて、本心のひびきで祈るもんですから、

その人の本心と私の本心とがひびき合って、そうして、そこから愛と平和

というものが生まれてくる訳なんです。

 私共の目指している平和というものはそういうものなんでして、そして

それは絵空ごとでも何でもなくて、人間というものを真実に深めて、

じいっと見つめてみつめ直してゆくと、そういうすごい素晴らしい働き

というものが人間の中にはあるんだということね。それは霊肉が一致して

やっていける。


 昔は即身成仏といって、生きたまま仏になるということを目指して生き

た。だから、飢えてそのまま死んじゃったりした人がいますよね。お坊

さんでもね。本当に無になって死んでる人もいるけれども、いつかの

ミイラの話じゃないけれど、即身成仏のミイラのそばにいったら、

食べたくて食べたくてしようがなくなった人がいる。

 それは、食べたい食べたい食べたいと想いながら、一方信仰心で

押さえて死んじゃったもんだから、その食べたいという餓鬼道の餓鬼の

ようなああいう心がね、誰か幽体の広い人にとっついて、それで、その

人は食べて食べて、祈ってもらってやっと食欲がおさまったなんて話が

あるけれども、あれはやはりどこか自然なものじゃないですね。不自然な

ものなんですね。

 人間というのは、霊が非常に大きいからといって皆自殺する訳には

いかない。皆、この肉体をもって辛いことがあっても、家族と

ぶつかろうが何をしようが、やっぱり生きていかなきゃいけない。それは

何の為かといえば、自分の生命の為なんです。


 自分の生命というのは、明るい朗らかなものなんだから、本当は、

だから、本当に明るい朗らかなものを導き出して、そして、抱き合う為に

我々は何をするかといえば、祈る訳ですね。

 とに角、祈ることによって生命を宣り出す訳ね。自分の中にある、

明るい何ものにも把われないね。生命を宣り出す訳なんです。その為に

我々は心を合わせて祈る訳なんですね。


 だから、一人だけでポツンと祈ってるようにみえてもね、目に見えない

世界で、誰も会ったこともないような人達の霊体なんかがすっとあなたの

そばに来て、霊的に言えば、うしろでこう支えて一緒になって世界人類がー

とやってる。あるいはアーメンとやってる。そういうことは、私なんかの

目から見ますと、いっぱい見えることなんですね。そういう、私は一人

ではないんだというね、つまり、皆共に生きてる生命であって、そして、

その生命であるということを確認するんだ、それが世界人類が平和で

ありますようにという祈りなんです。


世界中の人と友達であるかないかなんていうのを確かめる為に、

世界旅行に出るなんてことはできません。それを、霊的にも色んな意味で、

深い意味で確かめるにはあの祈りしかないんですね。世界人類がという

ことを口にしただけで、あーと思えるというのは、本当にあーそうだ、

私は世界人類の一人なんだなと、その時には、国とか民族とか家族とか

柵とかというそういう余分なものはもう取っ払っています。もっと大きな

視野に立ったところから自分を見ています。個を見ています。そうして

全体を見ていくものなんですね。

 ですから、そういう祈りに抱かれて我々は生きていくんだということを

みますと、ここで平和になるということがそれ程絵空ごとでもなく、力む

でもなく、自然にやっていけるようになるということがわかると思います。
       
 
                            五井昌久

                                (おわり)












祈りというものを・・・

2010-10-29 10:49:02 | 癒し
祈りというものを

忘れた宗教

それは

もはや

宗教ではありません


祈りというのは

どういうことかと

いいますと

神と人との

和合なのです

もともと一つであった

分かれている(ホントは分かれちゃ

いないんだけれども)いのちが

お互いを確認して

抱き合う

抱き合うのは親と子

つまり

神様と我々人間です

それが

祈りなんです


だからといってね
 
神様も
 
人間も
 
ずーっと別々に離れていた
 
なんて考えちゃあ
 
それは間違いなんですよ
 
とんでもない間違い
 
神様は離れちゃいないのね
 
ずっと手を差しのべたまんまですよ
 
ずっとこう
 
手を広げてね
 
大きく広げて
 
さあいつでも
 
おいで
 
抱いてあげると
 
スタンバイしてる
 
それが神様なんですよね
 

ところが
 
私がいつも言いますように
 
この波動の粗い
 
肉体界におりてきて
 
肉体をまとってね
 
くらしてくうちに
 
人間は、霊じゃなくて
 
肉が自分の主人だと思っちゃった
 
そうして
 
この肉体が三千世界だと
 
おもっちゃったんですね
 
だから
 
この肉体がなくなったら
 
自分はどこに行くんだろうと

思っちゃってね
 
もう、不安で不安でしょうがない
 
そういう状態で
 
ずっと来たわけですよね
 

本当は
 
我々のいのちは
 
神様からきていて
 
我々が神様を
 
忘れ果ててる時でも
 
神様の方では
 
ちゃんと一人一人を
 
見守ってね
 
だからこうして
 
我々は
 
生きてられるんだけども
 
肉体だけと思っちゃった
 
人間は
 
そこに神様が
 
いるなんて思えなくなって

しまったんですよね
 

それでも
 
うんと苦しい時に
 
神様仏様
 
助けて下さいってよく言いますよね
 
苦しい時の神頼みね
 
あれは
 
神様なんてないと
 
この想念で思っていましても
 
私どもの
 
奥の奥のからだは
 
神様によって
 
生かされている
 
ということを
 
知ってるわけでして
 
それで
 
いよいよ苦しい時には
 
命の親である
 
神様をよぶと
 
こういうわけですよね
 
必死の思いでよびかける
 

ところが
 
祈りというものは
 
もっと自然な
 
もっと平安にみちたものでしてね
 
私と神様との
 
私と本心の光との
 
対話ですからね
 
もうこれは
 
本来平和の光にみちているわけです
 

じゃあ、必死のおもいで
 
神様!ってよぶ
 
その心はどうなるのかというと
 
これも
 
絶対に無駄にはならないんです
 
なぜかといいますとね
 
いいですか
 
人間というのは
 
先ず
 
神の光によって生まれたもの
 
神によって
 
いのちを吹き込まれた存在です
 
ですから
 
どんなになっても
 
おおもとを忘れかけて
 
苦しくなった時には
 
神様をよぶように出来ている
 
呼ばなきゃ
 
生きてゆけない
 
自分がどこからきて
 
どこへこの生命が
 
流れてゆくのか
 
ということをですね
 
確かめないと
 
一瞬も
 
安心出来ない
 
そういう存在なんですよ
 
だから
 
そのおおもとが
 
ぐらついた時には
 
神様ってよぶ
 
よばなきゃいられないんです
 
それで
 
自分というものは
 
どういうものなんだという
 
ことを
 
みんなの奥の心が
 
確かめて
 
それで
 
生きてゆけるんです
 

私はいつも
 
世界平和の祈りは
 
エレベターだといってますけど
 
こうやって
 
神様って
 
呼んだ時には
 
その人は
 
祈りというエレベーターの中に
 
緊急避難したようなもんなんです
 
そこから
 
あらためて
 
神様のこと
 
自分を生かしている生命のこと
 
なんかを考えてく
 
それで
 
ずっとおちついてくると
 
その人なりの祈りが
 
口をついて出てくるんです
 
ですからね
 
神様助けて下さい‼って
 
いった時には
 
もうその人は
 
神様というチャンネルを
 
ひねって
 
実は神様の中に入ってるんです
 

祈るということは
 
神様と一緒だ
 
いつも一緒だと思うこと
 
同行二人ですよね
 
けれど
 
そう思うためには
 
神様というチャンネルを
 
ひねらなきゃ
 
何にもなりませんでしょう
 
アンテナを神様に合わせないとね
 
そこから祈りは
 
深くなってゆくんです
 
先ず
 
神様というアンテナ
 
に合わせること
 
スイッチをひねって
 
チャンネルを
 
合わせて
 
すべては
 
そこから始まるんです
 

ですから
 
苦しい時の神頼みというのを
 
私はちっとも 
 
軽べつしません
 
神様というのはね
 
何とかして
 
人間を
 
抱きとろう抱きとろうと
 
あらゆるチャンスをつくって 
 
待って下さってるんです
 
だから
 
神様助けて下さい
 
うちの会だと
 
守護霊さん
 
守護神さん
 
助けて下さい
 
それも大変な時は
 
五井先生
 
お願いします
 
ですよね
 

そうすると
 
どうなるかというと
 
私という空っぽのからだをとおしてね
 
私をよんだ人にですね
 
神様の愛念がパーっと行くわけですよ
 
瞬間にゆくわけ
 
それは
 
とっても
 
はやいんです
 
呼んだ瞬間に
 
こっちにすりゃあ
 
呼ばれた瞬間に
 
その人を
 
光で愛でおおっている
 
神様が愛で抱きとってるんです
 
すごいですよ
 
神様の愛というのはね
 
それでもって
 
さあおちついたかい
 
それじゃあ
 
あなたの知ってる祈りを
 
やってごらんと
 
こうなるわけですよ
 

人間というものは
 
一たん
 
愛で抱きとられて
 
激しくないて
 
訴えて
 
おちついてくると
 
今度は
 
神様との
 
会話を
 
始めるんです
 
それが祈りです
 
会話してゆく内に
 
段々
 
我がうすれてきて
 
ただ
 
神様と話すことが
 
嬉しくなって
 
そのうちに
 
我というものがなくなっちゃって
 
ただもう
 
神様神様と
 
おもっちゃう
 
こうなると
 
その人は
 
どこもかしこも
 
光ってるんです
 
光でいっぱいになっている
 
そうして
 
元々の人間の本来
 
神の光明体
 
光のからだを
 
あらわしてゆくんです
 

もうその頃になると
 
自分で光ろうなんて
 
思ってない
 
光ってるとも思わない
 
ただ
 
神様と話すのが
 
嬉しくて
 
嬉しくて
 
しようがない
 
自分というものが
 
なくなっちゃってるんです
 
自分というものを忘れてる
 
ねっ
 
それでもってただ嬉しいわけ
 
その嬉しいというのは
 
あなた方の本心が
 
あなたをつくってる
 
元々が嬉しがるわけですよ
 

こうやって
 
祈りっていうのは
 
どこまでも
 
どこまでも
 
自分を昇華して
 
澄み清めて
 
すきとおった
 
純な心になって
 
遂に光そのものになるまで
 
つづいてゆくんです
 
ね、
 


人間っていうのは
 
いつでも祈ってんですよ
 
みんな気付かないけれど
 
絶えず祈っている
 
十五分
 
統一して
 
これで今日のお祈りはおわり
 
なんてそんな
 
ちゃちなものじゃないんです
 
もう
 
どんな時でも
 
祈っている
 
祈りつづけている
 
全身全霊
 
未来永劫
 
人間というのは
 
祈りのかたまりです
 

その祈りは
 
神様とともにあるというよろこび
 
自(おの)ずから
 
自分の光に
 
気付いてゆくよろこび
 
自分のいのちが
 
光っていることに気付くよろこび
 
これなんです
 

あなた方が祈る時
 
そこは光になります
 
なぜならみんな
 
神様の子ども光の子
 
だからです
 
祈りは光、光そのものなのです

ゆるされている生命

2010-10-28 10:57:30 | 癒し
 我々の生命といいますか、生命と言ってしまうと、皆さんの想像が

何処へ行ってしまうか、色んな所へ行ってしまうと又面倒なんです

けれども。我々自身ですね。この色んな性格を持ってる我々自身

というものを、そのままに、神様というのは抱き取って、そして、

ゆるして下さってる。


 特に我々のまわりですとね、日本など、そんな事をすると罰が当たるよ

とか、それも微風を残す為に穏やかに、そんな事をしちゃいけないよと

言うのならいいけれども、そうじゃなくて、この頃ずうっと世の中を

見ておりますと、それは先祖の祟りなんだとか、おまえの心がけが

悪いからだとかそういう何か、責めるといいますかね、苛めると申し

ますか、そういう形で強制しようとする。正していこうとする。自分の

説いてる道が一番正しいんだと言って、これを信じなければ駄目だと

いう形で、我々の生命というか心を向けさせようとする。

 だけれども、何か強制されてですね、強いられて心をそこへ向けたと

しても、果たして人間の気持ちというものが素直に、その人達の言う、

何だか分かりませんけれど、その絶対者に向いていくかというと、

そういう風には人間の心というのは造られていないんですね。


 人間の心というのは、唯ひたすらに素直になりたいというか、神様の

方へ向いて行きたいというか、それが本来なんですけれども、この

世の中の憂さ、辛いこと苦しいこと悲しいこと色んなことによって、

素直になりたいけれども素直になれない状況というものが自分の中に

生まれてきて、あるいはまわりに生まれてきて、とてもじゃないけれど

この世の中は公平だとは思えない。とてもじゃないけれど、今自分が

幸せな状態だとは言えない。という風なことが色々生まれて来ますとね、

これをこちらへ向けばこうなるんだというような、そういう強いられ方で

その絶対者に向けと言っても、向けられるもんじゃないんですね。

 で、簡単に申しますとね、人間の心というものは本来自由です。何故

自由かというと、神様から来ている我々は分生命なんですね。そして、

我々はどんな柵からも解き放たれて自由になりたいと思うけれども、

もっともっと我々の本体、本来の生命というものは、何ものにも把われ

ないものだから、この世の中は表面的に何処かに属しているとか誰かを

養っていかなきゃいけないとか、色々な義務というものを負っては

おりますけれど、そうじゃなくって、自分の中で何ものも強いられる

ものがない、そして、何ものからも自由である。

 それは何かというと、元々神様そのものが、人間を強いるとか何かを

しなければ生かしていかないとかですね、そういう類の方ではないから

なんですね。要するに、もう全くの無、無を突き抜けた朗らかな心、

それが神様の御心でありまして、その御心から分かれて来たのが我々

人間でありますから、そこで、何をしないといけないとか、これをすると

罰が当たるとか当たらないとか、そういうことはないんですよね。


 つまり、冥加(みょうが)という言葉がありますけれども、生命冥加とか

何だとか。

 冥加というのは何かというと、我々が自覚しないところの神仏の加護

なんですね。神仏の守りなんです。つまり、自覚しないところのと

いうのが、これが有り難い事なんでしてね。神様というのはそうなんです。

 こちらが眠ってる時でも忙しくって神様の事を忘れている時でも、

何でもずっと守ってる。愛している。ゆるしている。神様の方からは、

一度も罰を当てようとしたことというのはない訳なんです。今まで。

どんな歴史の中でも。

 じゃあ、何故戦争が起ったか、何故人間と人間が争(あらそ)うのか、

ね、ノアの大洪水は先生あれは何だったんですか、色々聞かれる

でしょうけれど。それは、人間の業というものが、何度も何度も掃除

していかないといけないという、その節目(ふしめ)節目というものが

ありまして、歴史の中で、そして、じゃあ罰も何も無いんだったら、

何の為に人間が悩んで苦しむのか、全くずっと平穏に平和にやって

いければいいのにと思うけれども。

 つまり、人間の、何といいますかしら、深さですね、神性。そういう

ものは何によって浄められるか高められるかというと、人間の苦を

通してのね、涙を通しての経験によってだけ高められるんですね。


 苦労が一概に全部いいかというとそうではないけれども、そうじゃ

なくって、それは何かというと、自己ではない他己の生命、その人の立場

その人の気持ち、その人が何故そういうことを言ったか、何故そんな風に

怒ったか、自分に敵対したかあるいは協力をしてくれたか、何故

あそこまで骨惜しみせずにあの人は生きることが出来るんだろうかとか‥。

 それはやっぱり、相手の立場というものを想いやるということがないと

やれないんですね。で、その想いやるというのは、神様でもない限り、

自分の環境以外の事、自分の価値観以外の事を分かる、理解してね

寄り添ってそして生きて祈って、そうだなあと思いながら、共に生きる

というのはなかなか難しいんです。


 それをやろうと思うとね、やっぱりどっかで苦しむ。例えば病気に

なる。父と息子がうまいこといかないとかですね。嫁と姑が駄目に

なってるとか。

 何か平和じゃない、そういう状況というものを通して、ああ本当に

大変だなあー、これは本当に一緒にやっていくということは大変だなあー、

家族というものは重たいものだなあーとか、色々なことを身に染みる

訳ですね。そうすると、自分の身近でそういう風な人を見ると、

あああの人も大変だろうなあーと、同じような経験を持てば、やっぱり

その時に、我しらずその心が分かって寄り添える訳なんですね。その時に、

その人の為に、ああ本当にあの人が幸せになりますように、天命が完う

されますように、宜敷くお願いしますという風に言えるようになる。


 ところが、悲しいことに人間というのは、自分の経験以外の事と

いうのは、そういう何か思い知らされる様な事がないと、他の人の複雑な

苦しい辛い気持ちというのは、なかなか分からないように今なっている。

 で、それを曇らされてるのは、もちろん大きく言えば、肉体の我

だけれども、その人その人の環境や、お金があればあるで、お金が無い

なら無いで、あるにも無いにも何か不足が出てくる、欲が出てくる。

 色々なところで苦しむ。そういうものがある訳なんです。社会的な

状況もある訳なんです。それは霊の生命からいったら余分なものなんだ

けれども、だけれども、余分なものだといって、我々はそれを捨て去る

ことは出来ない訳ですね。その中で生きていかなきゃいけないから。


 それではどうすれば良いかというと、やはり祈りの中でね、祈りの

時には、自分が何億持ってるとか何とかいう、それは祈りの場所じゃ

ないですね。祈りの時間というのは、神様と私の時間なんですね。神様に

私の心を開いていただく、そういう時間なんです。そうして、自分の

本来心を解き放って行って、そして、自分はこの世の中にあっては、

とてもじゃないけどたまらないような状況にあるけれども、だんだん

解き放って行くと。

ああ自分の中にも朗らかなものがあるなあー、静かなものがあるなあー、

神様ありがとうございます、と言える時に思える時に、神様と一致する

ことが出来る。だからそれは、「世界人類が平和でありますように」

というあの祈り言の中に全部入ってる訳ですね。教義にありますけれども、

個人も人類も真の救いを体得できるものであるというあの祈りですね。

あの祈りを唱える時に、我々というのは目には見えませんけれども、

自分の中にある余分なものがその時パアーと掃除をされる訳なんですね。

で掃除をしたところで、色々な経験を積んでいって、そして色々な

場所で、例えば、支部じゃなくったって集会じゃなくったって、宗教的な

ものを離れたってね。色んな人に会って色んな立場の人の話を聞くことが

あるかもしれない。悩みを聞くことがあるかも知れない。そういう時に、

どれだけ、祈りの場じゃない所で、そういうことを無になって聞けるか

ということ、やっぱりそれが大事なんですね。


 祈りの場というものは、人間が作る様に思うけれども、本当は、人間

というのは見えないところで祈って祈って祈り抜いてる。自分が意識

しようとしまいと、本体というのはずっと祈りの座についていて、自分

というのは神界にいて、光になって祈ってる。神界にも自分自身がいる

訳ですから。そうして、御心と一体になって、こっちに光を送ってる。

こっちからも光を送ってる。光の呼びかけ合い、呼び合いをやってる

訳です。呼び返しの中で我々は生きてる訳なんですね。


 それは何の光かというと、ゆるしの光なんですね。だから罰も何も無い。

罰を当てるとか当てないとか、そんな狭苦しい、そんないい加減な世界

じゃなくって、その光のシャワーを浴びてる時というのは、人間は本当に

自由になってる。本当に神の御心の中に入っている自分自身になってる。

それは、自分が意識しようとしまいとそうなんです。そうやって人間

というのは生きているんですね。ちょうどこの我々の肉体というものが、

飲んだり食べたり眠ったり、ある程度動いたりしないと、この肉体の

生命を保っていけないように、我々の奥の複雑な霊妙な体というものは、

神様の光を受けていかないと生きていけない。


 これは随分と申し上げて来たことですけれども、その光というものは

何から出来ているかというと、ゆるしから出来てる訳ですね。あるいは

愛から出来てる訳です。愛とゆるしというのは何処から出てるかというと、

神様から分かれて来ている生命である人間に対する、極まりの無い愛

なんですね。


 それは、我々がこの地球に降りて来た時は、この地球を、神様の御心に

従って、神様の御心が顕現されるような、そういう方針にするべく、

我々はここに降りて来て、やってた訳なんだけれども、それが、霊性が

働いている間はよかったけれども、だんだん肉体を被っていく内に、

それを忘れちゃって、人が霊止にならなくなって、つまり霊止まるという

霊止(ひと)の方を忘れて、人間の人(にん)という、そっちの方の肉体の

方の人だけが残っちゃって。だけど消えてはいないんです。

霊止というのはね。

何故かというと、霊が無ければ我々は生きていない訳ですから。ただ

それが何か、我(が)の世界の中に今はなっていて、それが押し込められ

てる感じなんですね。その押し込められてる、ちょっとしか顔を覗かして

今は生きていけない、息が出来ない、その状態を何とか解きほどいて、

解き放ってやっていかないと、今はもう地球も大変だし、自分自身も大変

だし、世界人類も大変だし、ひいては宇宙も大変だしね。人間だけ

じゃない宇宙生命そのものだって大変なんです。


 という時に、じゃあその全部の生命を健やかに柔らかに、有るがままの

有りのままの生命を宣り出そうというその祈りというのは、「世界人類が

平和でありますように、日本が平和でありますように、私達の天命が完う

されますように、守護霊さま守護神さまありがとうございます」

というあれなんですね。あれで全部救われていく訳なんですね。だから、

あの祈りというものは、大変な光明体なんです。その光明体を我々は

持ってるんです。それは唯単に、白光の人があの祈りをするから救われる

とかそういう事ではなくて、元々の神様の御心を祈り言にしたらああいう

ことになる。

 そうして、その元々の神様の御心の光そのものというのは、どんな人の

中にも、例えば無神論者の人の中にも、物質主義者の人の中にもね、皆

入ってる訳なんです。


 この世の中でいえば、信仰しない人は救われないとか色々言うけれども、

そんなんじゃないんです。それだったらもう小乗(しょうじょう)以下

なんですね、大乗(だいじょう)と小乗とあって、大乗というのは勝れた

乗り物という意味だけれども、勝れた乗り物というのは神様の

大きな大きな大愛で、その愛とゆるしの光そのものなのです。

 その愛とゆるしからいうと、神様というのはついぞ人間を責めた事が

ない。ついぞ人間を裁いたことがない。


 その裁いた事がない神様に、我々がこの生命をこの心を捧げて生きて

いくことが出来たら、その時に、神様の方の喜びも大きくなるし、

我々の方にいただいている光だってますますその輝きを増して、この

世の中で成してゆくべき仕事ですね、肉体の中で関わっていかなきゃ

ならないこと、悩まなければならないこと、苦しまなければならないこと、

あるいは喜(よろこ)び事、そういうものも、何といいますか、スウーッと

来てスウーッと通り過ぎるんです。


 決して私の申し上げてる事は、ご利益の宗教じゃないんです。人間が

果たしていかなきゃいけない務め、そうして、どうしても果たして

いかなきゃならない宿題というものはあるんです。その為に、肉体の

時間が随分くっちゃって、もうとてもじゃないけど五井先生どうにも

なりませんという人の嘆きを一杯聞きますけれども。どうにもなりません

というのは、肉体の我の方の叫びなんでして、その我というのを溶かして、

そして祈りの中へ入り込んでしまうと、まだまだ、自分の中に、永遠の

生命としての人間の本来心がそこに顔を覗かせてきまして、そうして、

その切羽つまってどうにもならないというところから反転して、今度は、

大生命の生命の道へスウーッと入っていくんですね。


 そのスウーッと入らせていく入らせていただく、それが「神様」という

素直な呼びかけであり、我々は一人として一度として、罰っせられた事が

ない、責められたことがない、ずっとゆるされてる、そういう存在なんだ

生命なんだ、皆そうなんだ、白光の人であろうとなかろうと、世界人類が

全部、どんな人であっても、例えば、どんなに罪を犯したとこの世で

裁かれている人であっても、そうじゃない人であってもね、皆光なんです。

 皆光明ですから、そこでお互いを礼拝する。尊敬する。そこで祈る、

一緒に祈る、共に祈る、一人で祈る。一人で祈っても共に祈っても、その

ひびきが世界中をかけ巡る。宇宙全体ひびき合う。


 そういう祈りですから、その祈りに乗って宇宙神の御心の中にふっと

入っていくと、穏やかになって気が楽になって。そうして、本当に余分な

こと、思い煩い、そういうものはね、 肩の力を抜いて、なるべくこう

受けとめていったら、本当に重荷というものも重くならないで軽くなって

いくもんだというと、これは私の人間としての経験からも申し上げる

ことができると思うんですね。


 重荷を重くするのが神様じゃない。重荷を軽くするのが神様なんです。

 ですから、今どんなに打ちひしがれてる人でも、どんなにどうにも

ならないと思ってる人でも、どうにもならないと思ってることが、それが

消えてゆく姿なんですよね。


 どうにもならないというのは、だから、それを押し込めるんじゃなくて、

自分は白光の教えを聞いてるのに何でこんなんだろうと責めるんじゃ

なくて、あーそうなんだ、消えてゆく姿なんだと思って、そして、それを

思いっきり出して、泣くなら泣く、叫ぶなら叫ぶね、出して消して

いただいて、そして又生命をいただいてね、ゆるし放しの愛と平和の元の

神様というものに礼拝をし直して、いただき直しの生命で、毎日を明るく

生きていくということが、一番我々がこの困難の中から救われていく

大元の元になっていく訳なんです。


 そこを赤子のように信仰してゆきますと、絶対に神様というのは我々を

いやな所に変な所に導いていかない。必要なものは下さる。絶対に下さる。

 この生命というものを使って下さる時がある。その使われ方というのは

どういう使われ方をするか分からないけれども、とに角、神様と私は

一体の生命であって、一筋の生命であって、その一筋の生命というのは、

何の滞りもない朗らかな、何の障りもないものなんだということを確認

できる時に、我々というのは解き放たれていくんです。

 その確認というか、それを肉体の我というものに染み込ませる。

 そうして、霊肉共に救われていく、その祈りが、世界人類が平和で

ありますようにという世界平和の祈りなのでありまして、この光の祈り

というものは、益々これから色々な人に覚えられていく祈りだと思います

けれども、私共は益々謙虚になって、この祈りのもとに、神様の愛を

仰いですすんでまいりたいと思います。
    
                        五井昌久