わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

平和な心

2010-10-30 10:39:18 | 癒し
    (つづき)

  色々な宗派の方がおられると思うし、俺は無宗教だという人もいると

思うけれども、しかし、世界人類が平和でありますようにの中に

込められるようなそういうひびきでもって生きていかなければ、今の

世の中、もう光明化していくということは出来ない。

 ですから、色々な宗教や、あるいは宗教の立場じゃない人達とも一緒に

生きる、共に生きるということを目ざしていく為には、自分の生命という

ものを一回神様に返してしまって、預けてしまって、それから無になって

祈る。そして、祈っていく事を毎日の朝夕の日課にする。そういうところ

からやっぱり、励みになって、光というのは出て来る訳なんです。


 もちろん、祈りというものは肉体だけではない。その奥の体でずっと

祈りづめに本当は祈ってるんですけれどもね。肉体がそれをちゃんと

自覚をする為には、どこかで時間を決めて祈るという、一つの形という

ものがいる訳です。私から見ていると、形というものは全く無意味と

言ったら何ですけれども。

 でもやっぱり統一会などで世界平和の祈りを致しましょう。ね。

 私などが導師になってやる。あるいは村田さんなんかがやる。昌美が

やる。というのは、そこで心を一つにして祈る。時を同じくして祈る。

 覚えて祈る。ということによって、本心の中にスーッと入っていく、

自分の中の本心にスーッと入っていって、人間の本来の生命と出会う。

 というそこを目指している訳です。ですから、朝夕にその人が

祈りやすい時間でいいんです。朝起きて寝起きが一番自分は緊張して

よろしいとかですね、色んな人がいると思います。その人のその立場に

よって祈ってゆけばですね、気持ちというのは段々落ち着いて静かに

なって平和になっていく、しーんとして本当に平和になった瞬間と

いうのは、実は、我々は個々にいて本当は分かっていないけれども、

宇宙の中の平和の元、根元と一体になってるんだ。


 だから、我々の生命は個の生命であると同時に、人類全体の中の一つの

一滴の生命であって、そして、人類というものを支えているんだ。もっと

言えば、宇宙神の御心を支えているんだ。

 そういうつもりで生きていっても構わないんです。ただそれをあんまり

声高にいいますとね、じゃあ我々だけが御心をやっていく人間なのか、

これは字面だけをとりますとね、何といいますか、傲慢無礼と

いいますかね、そう聞こえてしまう。


 ですけれども、本当のところ言えばやはり、個人だけの生命じゃない訳

ですね。人は一人では生きられないと言うけれども、何かこう気持ちが

寂しがる、心が寂しがる。そして、例えば、アメリカと日本に離れて

いても、知らない人とある日であうことがあるかもわからない。それと

同じように、実は我々は霊的には皆知り合いなんですね。この世の中に

生きてる人達というのは皆、今の時代に会う人も会わない人も、皆

知り合いなんです。

 ですから、ここで我々が祈り心でもって何かする。心を落ち着け静かに

働いていく。質実に自分を高めていく。そういう事をしていると、それが

人類全体のひびきになっていく訳ですね。


いつも私が申し上げたように、色んな天災だとか、テンサイと言ったって

凡才天才のテンサイじゃないですよ。そうじゃなくて天変地異ね。大雨や

雪などの天気というものね。天気というものは、今悲しいことに、人間の

業によって大水が出たり何だかんだで浄めなければいけない、そこまで

来ている。

 つまり、業がそれだけ空気を汚れさせている。人類の心の空気を汚れ

させている。だから、世界平和の祈りというのは、そういうのを

光明波動でもってサーッと掃除をするというのはあるけれども、とに角

我々一人一人が誠実に自分の持場でずっとやっていると、それが自分一人

だけのことに返って来ないで、そのひびきがずっと全体にまわっていって、

そうして、宇宙そのものからも光明がくる。


さっき私が申し上げたようなああいう順序で真理が花開いていくと

いうのは、これは真実なことなんですね。

 そこまで人間というものは大きくて深い。自分の身の丈何尺何寸とか

昔いいましたけれどね、今で言えば、160とか170とか、

180センチになったら高い方だとかいいますけれど、人間の大きさと

いうのは本当はずっと宇宙まで貫いていくみたいな、それ程大きな光明体

なんですね。

 ですから、本当に深い人を霊視しますと、もうこの会堂いっぱいとか、

この家いっぱいでは足らなくなる。もうずっと貫いて天までいっちゃうん

ですね。それは特別な人じゃなくって皆がそうなんです。皆が光なんです。

 ですから、その光を集めて、そうして何かやったらこれはすごいことに

なる訳です。


 だから、我々がやってる世界平和を祈る運動というのは、世界人類が

平和でありますようにという祈りを国と国も、人と一緒にやる。

 そうすると、その人達の言葉を、外国人であるとか英語であるとか

独語であるとかいう言葉の壁を超えて、本心のひびきで祈るもんですから、

その人の本心と私の本心とがひびき合って、そうして、そこから愛と平和

というものが生まれてくる訳なんです。

 私共の目指している平和というものはそういうものなんでして、そして

それは絵空ごとでも何でもなくて、人間というものを真実に深めて、

じいっと見つめてみつめ直してゆくと、そういうすごい素晴らしい働き

というものが人間の中にはあるんだということね。それは霊肉が一致して

やっていける。


 昔は即身成仏といって、生きたまま仏になるということを目指して生き

た。だから、飢えてそのまま死んじゃったりした人がいますよね。お坊

さんでもね。本当に無になって死んでる人もいるけれども、いつかの

ミイラの話じゃないけれど、即身成仏のミイラのそばにいったら、

食べたくて食べたくてしようがなくなった人がいる。

 それは、食べたい食べたい食べたいと想いながら、一方信仰心で

押さえて死んじゃったもんだから、その食べたいという餓鬼道の餓鬼の

ようなああいう心がね、誰か幽体の広い人にとっついて、それで、その

人は食べて食べて、祈ってもらってやっと食欲がおさまったなんて話が

あるけれども、あれはやはりどこか自然なものじゃないですね。不自然な

ものなんですね。

 人間というのは、霊が非常に大きいからといって皆自殺する訳には

いかない。皆、この肉体をもって辛いことがあっても、家族と

ぶつかろうが何をしようが、やっぱり生きていかなきゃいけない。それは

何の為かといえば、自分の生命の為なんです。


 自分の生命というのは、明るい朗らかなものなんだから、本当は、

だから、本当に明るい朗らかなものを導き出して、そして、抱き合う為に

我々は何をするかといえば、祈る訳ですね。

 とに角、祈ることによって生命を宣り出す訳ね。自分の中にある、

明るい何ものにも把われないね。生命を宣り出す訳なんです。その為に

我々は心を合わせて祈る訳なんですね。


 だから、一人だけでポツンと祈ってるようにみえてもね、目に見えない

世界で、誰も会ったこともないような人達の霊体なんかがすっとあなたの

そばに来て、霊的に言えば、うしろでこう支えて一緒になって世界人類がー

とやってる。あるいはアーメンとやってる。そういうことは、私なんかの

目から見ますと、いっぱい見えることなんですね。そういう、私は一人

ではないんだというね、つまり、皆共に生きてる生命であって、そして、

その生命であるということを確認するんだ、それが世界人類が平和で

ありますようにという祈りなんです。


世界中の人と友達であるかないかなんていうのを確かめる為に、

世界旅行に出るなんてことはできません。それを、霊的にも色んな意味で、

深い意味で確かめるにはあの祈りしかないんですね。世界人類がという

ことを口にしただけで、あーと思えるというのは、本当にあーそうだ、

私は世界人類の一人なんだなと、その時には、国とか民族とか家族とか

柵とかというそういう余分なものはもう取っ払っています。もっと大きな

視野に立ったところから自分を見ています。個を見ています。そうして

全体を見ていくものなんですね。

 ですから、そういう祈りに抱かれて我々は生きていくんだということを

みますと、ここで平和になるということがそれ程絵空ごとでもなく、力む

でもなく、自然にやっていけるようになるということがわかると思います。
       
 
                            五井昌久

                                (おわり)













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