わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

合気道について

2012-03-31 22:25:56 | 癒し
 合気道の植芝先生というのは、私の体の中に
くい込んで、今も一緒に働いておられるんで、私も
生前から非常に親しくさせていただいているんで、
植芝先生の身も心もというか霊もというか、
そういうの全部わかっているつもりで
おりますけれど。先生が、その合気道というものを
通して、つまり武道というものを通して、神様は愛
だという風に、ああいう真理を悟られたことに
ついては、先生の、この世だけじゃない色んな
修行の結果がある訳ですが…。

 まあそれはさておいても、じゃあ合気道というのは
何なのかということになりますと、私は祈りの方の
立場の人間でありますので、祈りの方に即して
言いますと、語呂合わせではありませんけれども、
合気道のアイキというのは、気の流れというものに
対して、色々な不調和なものを調和させて、
合わせて、そうして一致させて、そして人間が
生きていく為の道しるべをそこでつくる。その為の
道が合気道なんだということなんであります。
もう少し砕いていいますと、合気のアイというのは、
これはもちろん愛するということにつながって
ゆくんでありますけれども、ただ私共が愛する
ということになると、せいぜい人間同志が仲良くする
とか何とかという風な時限に下ってしまいます。
ところが、この合気道のアイキというこの合わせる
という字と気という字を、ここから拡がってゆく実は
霊的な世界というものは、人間だけとかそういう
ものではなくってですね、生命全体、地球にある、
宇宙にある、その生きとし生けるもの全部、もう
バクテリアから何から全部ですよ、そういうもの
合わせた生命の調和ですね。生命が調和
されるように、実は気の流れを、気の流れというのは
霊界神界からくる気の流れですけれど、それを我々
受け器である人間が心のアンテナ本心のアンテナで
その流れを受けとめて、そうしてそれを流してゆく。
ね、気の流れを受けとって地上に流してゆく。
そういうことが一番大事なことなんだ、それを
やるのが合気道なんだ、そういう意味なんです。

 そこで、そんなことを言いましても、精神だけの
ことでして、それが根本精神として、合気道の中に
流れてるということだけですと、「そんな高邁な、
先生、そんなすごいことは私共には出来ません。
 だったら合気道やめさせていただきます。」なんて
いう人が出てくるかもしれませんから、少し合気道
そのものの、いわゆる道そのものについて
言いますと、いつかも私は質問に答えて言ったと
思いますが、ただ立つということが即ち真理に
つながる。合気道の場合はですね。立つというのは
何になるか。立つというのは天地を貫いて
立っている自分と合体するということです。あるいは、
いつも植芝先生が言われた“あ”という言葉、
そこへ入る。回帰する。ということなんです。元の
元の根本の太源の生命に帰って、そこで構えて愛を
呼び寄せる。そういうことなんですね。だから気を
集めるんじゃない。気を合わせる。気を
集めるんだったら、これはただ単に人気取りですね。
それだったら人間世界だけのことになるけれども、
そうではない。色んな霊妙な気を集めて、そこに
立って、そこで構えて、受けた気を合せて、そうして
無心になって打ち込んでゆく。

 合気道で構えて打ち込む時というのは、もうすでに
それは、こういうことを知ってる人も知らない人も
ですけれども、合気道でやる場合には、その人の
肉体人間の気持ちはどうあれ、本体そのものは
そういうことを知っておりますから、本当に祈りの
器としてそこで立って、そこで構えて、構えるって
ことは、その気の流れを受けて、それを流す。
その為の構えです。言わば、印でずっと皆さんの
想いを受けて手を上げますよね、あの上げて光を
集める状態と構える状態は一緒なんですね。立って
構える、そうして打ち込む。打ち込むというのは何を
打ち込むのか。本当言えば、霊界には打ち込む
ものはないんですね。愛と愛がぶつかるだけです。
 けれども人間世界の中では、打ち込むもの
打ち込まれるもの、色んなものがあります。色んな
感情があります。余計なものがあります。それを
打ち込んでゆく。でそれを、業なら業というものが
来たら、それに対してそれを打ち負かすものは愛
ですね。あるいは大きな気の流れですよね。神様の
愛という気の流れですよね。それを今度返してゆく。
 だから、構えて打ち込まれる方は、その気の
流れを存分に受けて、そうして自分自身が光の
住者になって、そして、打ち込まれた分それを光に
して帰してゆく。そういうことを知って動いている訳
ですから、そこで自分の生命が充実して
ゆくんだなっていうのは、動きの中で、これは言葉
じゃないですよ、想いでもない、行為の中で本体が
知ってゆく訳なんですね。

 だから、空気が瞬動しますよね。武道ですからね。
 武道ですけれども、植芝先生が悟ったあの神様は
愛だというあの武道ですから、神の愛の気が満ちて
いるはずなんです。あるいは、そうなってゆくべき
なんですね。だから、祈りの本心開発といいますか、
祈りをやってゆく人たち、うちで祈りをやってゆく
人たちというのは、特に合気道というものを通して、
そして肉体の行為化というものを通して肉体を
光明化してゆく。その為に合気道をやるということは、
本当に大いにいいことでして、どこに行くんでも、
どこでやるんでも、その木太刀にも自分の心にも、
世界平和の祈りというものが込められている位に
思ってね。そして、打ち込む時にも、打ち込まれる
時にも、自分の心をカラッポにしてやってゆく。
 自分が打つんじゃない。気の流れが来て、
その気の流れに従って、自分の木太刀が動いて
ゆくんだ、自分の体が動いてゆくんだ、それによって
自分の霊性が開発されてゆくんだと思うと、自然に
動くんですよね。体がね。光になって動くんです。

 植芝先生のフィルムが残っていますよね。
 何べんも何べんも言ったことですけれども、
あれは、植芝先生は光になっている訳ね。あれは
神様の体になっていますよね。神様の化身だから
神様の光になって出てきてるけれども。といって、
植芝先生をまつり上げる訳ではないですよ。
 皆さんがそういう光の体になって、皆がその光の
体を持ってる訳ね。それを、植芝先生は合気道
という一つの武道の中に体現した、現わした。
 そういう人なんですね。だから皆さんが祈り心で
もって、木太刀をもって、合気道という武道をやる時
には、やはり同じような気の流れが、世界平和の
祈りを通じて、私を通じて、私の中にも植芝先生が
いらっしゃるから、その愛の気の流れが流れてゆく
筈です。そうして、その武道をやってゆくうちに、
自分の中の霊性開発もでき、それから自分の
肉体もすこやかになり、まわりにも気がまわるように
なってゆく筈です。だから、そういう合気道と
いうのは、ただ単なる武道じゃなしに、本心開発の
先端を行ったといいますかね、先達を努めたと
いいますかね、そういう武道なんだということ。
 それを忘れちゃいけない。

 武道の武というのは、それこそ戈をおさめる。昔の
話じゃないですが、すべての武道はそこへ行くわけ
ですね。武は愛なりなんですね。その、武は
愛なりを悟った人、悟って私にバトンタッチをして
下すった先生、それが植芝先生なわけね。だから、
植芝先生が拓いた合気道、先生個人のものでは
ないけれども、神様の流れというものが植芝先生の
肉体の奥に感応して、そして開かれた気の流れと
いうものは、この合気道の中に流れている訳です。
 その流れを少しでも祈り心でね、打ち込んで
ゆく人、打ち込まれてゆく人、やってゆく人は、
それを自分のものにして、天に宝を積むように、
自分の魂に宝を積むということが出来る。そういう
人になってゆく訳ですね。

 合気道だけじゃない、色んな物事、色んな行為、
武道だけじゃなくて、日々の営みそのものがやはり
気の流れを受けて、その神の愛の気の流れを
流してゆく。皆流してゆく。皆平等に、子供から老人
に至るまで、私達はそれぞれの立場立場、持ち場
持ち場で、その役目を持っている。そう考えませんと、
これはおかしなことになってゆく訳ですね。合気道
だけがすごいんじゃない。偉いんじゃない。そこへ
立つ、そこで祈る。祈りの座へ、本心の座へもって
ゆく、もってゆかれやすい。その先達の役目を
務めたのが合気道なんだということ。だから
合気道をすることによって、皆さんが自分の祈りの
生活を深めて、日常を少しでも過ごしやすくして、
体も心もすこやかにしてゆくということが、
現実生活を豊かにしてゆくということがですよ、
精神的に豊かにしてゆくということが、本当に
人間の気持ちをひろやかにしてゆくということに
なる訳ですね。それが同時に、世界人類が平和で
ありますようにというこの祈り心ね、祈りそのものの
光を拡めてゆくことにもなる訳なんです。

              昭和63年5月5日
                 五井昌久

愛のはたらき

2012-03-30 23:03:18 | 癒し
 私はマイクの前に立って、こうやって皆さんの
顔を見ながら、何を話そうかとか、今日は
これについて話そうかとか、そういうことは一切
考えていないのであります。
 だから、質問をどうぞというのは、質問を
きっかけにして、私は、神様のこと、神様がどんなに
人間を愛しているかということ。
 で実は、神様の愛の働きによって人間が生かされて
いるということを伝える。
 そういう場所に私がなるということなんであります。

 だからいつか申しました様に、釈迦が来ることも
あるし、キリストが来ることもあるし、老子が
来ることもあるし、色々な人が私の体に降りて来て、
そうして、その方面のことをしゃべってそして又
出てゆく。だから、私の体というのは
カラッポなんだとね。私は、生命はもう神様の中へ
帰しました。
 帰した時に、とに角まあキリスト教で言えば、
“御心のままになさしめたまえ“というあの主の
祈りの中の、ああいう気持ちになって。
 自分がなったんじゃない、何か奥の方がなって、
そうして、そういう活動をなにかしらさせて
いただける様になって、今日になって、今こうして
喋べっている訳ですけれども。私というものは
一切無いんですね。何があるかというと、神様の愛が
ある。それだけなんです。その愛というものは、
私の為だけにあるんじゃなくて、これは実は、我々
人間全体の為にある。
 この地球世界の自然とか、色んなものが色んな形で
生きていますけれども、それこそ、生きとし生ける
ものの有りのままの姿をそのまま生かして、
さながらに生かして、その生命が完うする様に
というので、その愛が注がれている。その愛の姿
というものを、皆が、ああそうだなと思って納得して
感動して、そうして、それぞれが静かな想いに
なって、神様というものにね、その想いをはせた時に、
皆が神の子なんだということになっていきますでしよ。

 そして次には、他愛ですね。他を愛すること。他を
愛することというのは、自分のまわりを確認できる
ことなんですね。
 自分のまわり、自分の生命が何によって支え
られて、まわりの人の色んな親切だとか、色んな
想いだとか思いやりだとか、そういうもの
によって生きてる。生かされているということを
確認する。この現実の世の中でね。そして、自愛
というのは、そういう感謝のおもいを今度自分が
確認して、そうして、じゃあ何をすればいいか
ということになると、自分を本当の意味で労わってね、
そして生きてゆく。その自分を本当に労わるという
ことの中には、人間の心には、色んな姿があります。
 見たくない、こんな自分は確認したくない。こんな
自分は見つめたくないという想いがありますよね。
 ですけれども、それをずっと見て、ああこういう
やり切れないものを人間は持ってるんだな。そこが
自分の中で確認できれば、人間というものは
高められてゆく訳。

 人間というものは弱いですから、何かあれば、
神様仏様とすがるけれども、何もなかったらやっぱり、
そっちの方へ想いが行かない。だから、色んな
祈り言葉があるというのは、その祈り言葉を階段に
してね、そうして、自分の本当いえば姿、自分は
何なんだということを突き詰めて考え、
そうして又知らされる。その為に祈りがある。
 そうすると、我々を生かしめているものは神の愛
でありますから、その神の愛というものを、神様の
というものをとってしまっても、神様の愛が
人間の中に働いて、そして、我々が生きていると
すれば、この愛の働きというものはどういうものか
ということになると、これは森羅万象すべてに
わたっているということになってしまうと、説明の
しようもないものでありますけれども。

 とに角、愛というものは何かというと、
まず一つには、自愛ですね。自分を愛することですね。
 想いを確認して、それを抱きしめるんじゃなくって、
それをパーッと祈りの中へ放すわけです。祈りの中へ
入れちゃうと、それはどんなに業に満ちたものでも、
あるいは闇というものがあっても、それは光に
なりますから、祈りの中へ投げ入れちゃってね、
あるいは、神様、五井先生といって投げ入れて
しまったらですね、それは業は業でなくなるんですね。
 そこで消えてゆく訳ですね。
 そういう意味で、自分を愛する、自分を確認する、
自分を労わる、ということは、自分の中にある人間の
色々な心の姿を一つ一つ取り出して、そして浄めて、
浄める為に祈りをして、そのおもいをまわりに、
その祈りをまわりに巡らしてゆくと。そういうことが
ある訳です。それが一つの愛というものの実相な
わけですね。

 愛というものは限りがありません。ここまでが愛で
こっからが愛じゃないとか、ここまでは愛情
だけれどもこっから一歩は愛じゃないとか、そんな
ことはありません。限りがなくって尽きるところが
なくって、その尽きるところがないものに支えられて
いるということがわかりますと、人間はどうなって
ゆくかというと、もうとに角、自分の生命という
ものは窮まりがないんだということに、だんだん
気がついてゆく訳です。
 なぜかというと、人間を支えているものが神様の
愛で、しかも私共がいつも申し上げておりますように、
人間の生命というものは肉体だけのものでは
ありません。貫いてずっとむこうの世界まで行っても
まだまだ続いてゆくのが生命ですから、つまり永遠の
生命ですから。
 その生命を貫いている愛というものが尽きる
ということがなくって、生命というものも尽きる
ということがないとすれば、じゃあ人間の働き
というものは、そこに気がついてみると、そこに
気がついてゆくと、本当に充実しきった想いに
なってゆく訳ですね。何があっても壊れることは
ない。絶やされることはない種、生命の種という
ものを自分の中に持ってる。ね、持たされている。
 あるいはいただいてるということに気が
つくとですね、こんな喜びはない訳ですね。
 そうすると、自然に自分の気持ちが
落ち着いてきて、今色んなことがあるにしても、
自分は尽きることのないものを貰ってるんだ、
神様から貰ってるんだ。神様の愛というのは
無限なんだということになってきますと、だんだん、
荒い肉体を囲んでた業の波動というものが、祈り
によって浄められてきまして、気がついてゆくに
従って、荒いはずの波動が細かになっています。
 そして、細かになってきて、だんだん色んな人の
色んな想い、やりきれない想いだけじゃなくって、
心を求めている、人を求めている、淋しがってる、
そういう人の想いに人間というものは気がつくように
なってまいります。
 そうして気がついて、それに感応して関わりを
もって接していきますと、そこに何が生まれるか
というと、そこに愛念というものが生まれて
まいりますね。そうして、それがどんなに細やかな
ものであっても、その間に働くものというのは、
深いものがございますから、そこで生まれて
くるものは本当に光明に満ちたもの、光に満ちたもの、
愛に満ちたものになってゆく訳です。そんな風にして
実は、人間というものは気がつかない内に、
この世の中で、一歩でも二歩でも進歩をしよう
進化をしようといって、歩みを止めては本当はいない
ものなのですね。

 色々な所で紛争がある。色々なところで戦争が
絶えない。現象だけをみてると、こんなんで世界は
平和になるんだろうか、どうなんだろうかと思う。
 思うけれども、それは自分の気持ちの感情の部分が
思うんであって、自分の本体そのものは、皆さんの
本体そのものは、世界が完全に平和になるという
ことを知って生まれてきている生命なんですね。
 そうして、白光真宏会にきて私に会って、魂
そのものはそれを覚知してる本体なんです。ですから、
そこのところは全然動かされていないから、
何があろうと、この世界というものは平和になって
ゆくし、愛に満ちて調和になってゆくということは
わかってますんでね。そこに向かって我々自身が
生きているということを確認しますとね、随分我々
というものは落ち着くものなんですね。そうして
その働きというものも、だんだんだんだん自分の為の
働きというよりもですね、他者の為の、他者の為から
自分のまわりの世界、まわりの世界というとだんだん
広がって行って、世界人類になり、世界人類から
いうと今度宇宙人類になり、という風に広がって
ゆく訳です。

 我々の住んでる場所だとか、選んだところは
狭くるしくって、色んな制約がありますけれども、
我々の本体そのものは神様と直結しておりまして、
その神様の愛というものは無限であるということに
なってきますと、我々が器として要求されて、
あるいは動かしていただくその場所も無限である。
 ね、霊界神界とつながっていて、天の私と地の私が
それこそつらなっていて、一体となっていて、そこで
働いている。そういう生命なんだ。そういう働きを
我々はこれからしてゆくんであるし、又今して
いるんだということ。そしてそういうところに、
少なくとも想いをはせて祈りをしてゆくときに、
色々な人の想いが思いやりというものがこちらへ
伝わってきて、そうして自分の中の色んな想念の
想いの掃除というものができる。

 色んなことを申しましたけれども、自分をまず
高めてゆく。高めるというのも、ただ単に知識を
高めるとか智恵を磨くとかということだけでなくて、
自分の中の本心、霊性というものを磨いてゆく、
肉体だけではない、自分の生命というものに目を
そそいで生きてゆく。そうしてゆく内に、だんだん
だんだん愛というものが深まっていって、そして、
愛だけじゃなくって、愛につれて働いてゆく生命
そのものも、今度は愛を呼んでくれる様に
なるんですね。

 それは何かと言うと、例えば、この世の中で働く
ということは、生きる為にはお金を得るという
ことです。そのお金にも愛憎がこもってくる
訳ですね。つまり、苦しいばっかりだと苦しい想いが
お金の中にこもっちゃう訳です。苦しいが来るんです。
 そうすると、お金が入って来ても苦しい、入って
来なくっても苦しいという状態がくるんですね。
 あるいは不安とか不平とか不満とかね。そういう
想いが積もり積もった上で、例えばお金を受けとると、
そのお金はちっとも嬉しくないでしょ。つまり、
お金が入って来ても自分の心が自由じゃないね。
 想いが自由じゃない。何か解き放たれない。
 そういう中でお金を受け取ってもね、そのお金は
死んでるんですね。お金ってものは、この世の中を
生きてゆく一つの手段であって絶対的なもんじゃ
ありません。肉体を養う為のものですけれども、
それでもこの現象世界の中の一つ一つのものを
尋ねてゆけば、全部それは生命体です。本来の
生命に帰ってゆくもんですから、やはり物質世界の
ものであっても、そこへ向ける愛念というものが
浅ければ、つらい想いの方が強ければ、それは
それだけ現象なんだけれども、その現象を通して
自分の中の本心開発が鈍ることになる訳ですね。 

 だから、受けとるもの、暮してゆく為に
受け取るお金にしろ人にしろ、関わってゆく
関わり方にしろ、ここでどういう働きをしなきゃ
いけないか、つまり自分がどう接してゆかなきゃ
ならないかということは、祈りをずうっと深くして
ゆくと、自然自然にその自分の中の想いがですね、
掃除をされていって、そうしていつの間にかしら、
人に対してもやさしい気持ちになって和らいだ
気持ちになって、一つ二つは還せるようになってく。
 最初から何も完全にこうしなきゃなんない
ということはないんです。そんなことは考える必要
ないんですよ。ちっとも考える必要なくってね。
 私はもうこんな風に又言い返しをしてしまった。
 こんな風に又主人に口答えをしてしまった。ね、
奥さんに又こんな風に思いやりの無いことを
言っちゃった。そりゃあ夫婦だったら夫婦喧嘩も
するでしょう。親子喧嘩もあるでしょう。ね、
それから同僚だって、本当に虫が好かない奴も
いればね。会の中だって、いつもいつもニコニコ顔
という訳じゃないだろうしね。人間の集団なんだから。
 それでもそれを浄めてね、そうして生きていく術
ということになれば何かと言えば、それは祈り
なんですね。祈りの中に光があるし、祈りの中に愛が
あるし、そうして祈り一念になって、自分の中にある
光明というものを、確認をその祈りの中で奥の体が
していって、いつのまにかしら、やってゆくと、
そういう大きな深い愛の生命の中へ自分がさーっと
入ってゆける様になるんです。

 自分の力がないから非力だから、自分はこんな
大きな役目は出来ないとかね、何とか思って自分を
閉じてる間はこれは我なんですね。そんなものは、
人間に力がないということは、むこうが百も承知です。
 肉体人間そのままの、我の人間そのままの
生命だったら、神様は使やあしません。そんなものは。
 そうじゃなくって、肉体人間の奥の生かしてる
ものは何かといったら、神様の愛なんだから、
その神様の愛、自分のね、生命を分けた光を分けた
光の一筋の光線の一筋一筋のいとしい生命を神様が
抱きとって、そうして働きをさせようというんだから。
 その時にあなた方がどんな風に自分たちが非力
だと考えようと何しようと、そりゃあむこうの知った
こっちゃないんですね。その時にはまかせなきゃ
いけない。任せきった時には、自分で思いもかけない
働きというものが出てくる訳なんです。それは
任せ切った時に出てくる訳なんです。任せ切るって
いうのも、自分で任せよう任せようとかね。任せ
なきゃとかね、そんなこと考える必要ないんです。
皆向こう側が下さる働きなんだから。自分がゼロ
なんですね。あるいはゼロ以下なんですよ。

 肉体人間としてみればね、何も出来るもんじゃ
ない。凡夫なんだね。親鸞が言ったように
凡夫なんです。凡夫なんだけども任せきってね、
南無阿弥陀仏なら南無阿弥陀仏、世界人類が平和で
ありますようになら平和でありますようにの祈りの
中に自分というのを入れてしまうと、そこで、
自分の中へ普段は奥の方へ入らされている光明
というものが燦然と輝き出してきて、祈りになって、
一体になって、そしていつの間にか神様と一緒に
なって働ける。そういう生命というものを我々は
種として、生命の種として自分の中に持ってるんだ
ということね。それを忘れてしまったら、これは
卑下高慢になるんですね。

 生きてゆくってことは苦しいことです。生活
というのは大事なんです。だけれども、その生活
とか生命とかそういうものを支えてるものは何か
といったら、神様の愛だから、その神様の愛に入る
ということは、現実をバカにすることでもなきゃ
何でもないんです。その本来の生命にかえって、
神様に任せきった時に、神様がさーっと救いあげるし、
神様が働かせるし、その時に自分だけの働きじゃない、
まわりの人だけの働きじゃない、もっと深い
もっと大きな働きというものを、愛というものは
なさしめるんです。なぜならば、それは神様から
出ているもんであるから。そして、我々も神様の生命
一筋であるから、それが出来なきゃうそなんです。

            昭和63年5月5日
               五井昌久

守護霊について

2012-03-29 11:50:24 | 癒し
 私共の祈りの中にある最後に、守護霊さん
守護神さんという呼びかけがありますが、その
守護霊さんというのはどういうものか。
 よく個人相談の時にでも、あるいは講話が
終わった後にでも、「先生、私の後ろに誰がついて
いるんでしょう?」と、こういうものは、皆聞きたい
ものなんですね、それで、「あなた、おじさんが
ついていますよ」とか、「おじいさんがついて
いますよ」とか。まあ見える限り、知らせて
いい限り、私は知らせて安心してもらう
ということを言ってるわけですが。

 守護霊さんというのは、これは先祖さんの
たとえば悟った霊がつくとか何とか・・・今まで
ずっと説明をして来ましたけれども、もっと言うと、
そのつながりというものを、人間のつながり
というものは、例えば、この世の中の肉体の生命の
何十年というそんなつながりの浅さではなくて、
守護霊さんと我々のつながりというのは、実は
この世の中に出てくる以前からずっとある
訳ですね、霊界の段階からある。

 だから、生まれる前から知っている。生まれる前
からというと、こういう世界に馴染みのない人は、
じゃあ記憶のない前からかということになります
けれども。

 記憶というのは、これはずっと前生、前々生と
さかのぼって行って、つまり、我々が肉体人間に
なって修行をずっと重ねて行って、あらゆる天命
そのもの光そのものの光明体になるまでのその修行、
その途中途中で、例えばこの世の中に50回
生まれてくる人、100回生まれてくる人、
いろいろある訳ですが、その中での記憶を全部
いちいち持ってたら、人間というものは
苦しくってですね、この世の中に生きて
いられないから、それを消してゆく訳ですね。
 だけども、その中で、それぞれのかかわりの中で、
この人がついた方がいいなあ、この人をこの一生を
貫かせる為には、こういう人が守護霊さんとして
ついた方がいいなというのを、霊界の方で決めて、
そして、それが例えば、教師であるなら、
子供たちと一緒に遊べるような無邪気な、そうして
霊性も高い、そういう人の守護霊さんというものを、
そうして、関わりのある人を連れてきてそこに
付かせる訳ですね。だから、よく私が申しますが、
天才の仕事というものは、あるいは天才でなくても
秀才でも鈍才でも構いませんけれども、我々の
仕事というものは、守護霊さんに助けられて
やっているんだと。

 例えば、音楽家の仕事であっても、その
音楽家ならずっと霊視してゆけば、バッハが
ついているとかベートーヴェンがついているとか
シューベルトがついてるとかね。あるいは
滝廉太郎がついているとかね。そういう何か、
その道ですごい仕事をした人の守護霊さんが
ついているという場合もありますし。

 その守護霊さんというのは何かというと、愛念
なんですね。あなたならあなたの一生、その人なら
その人の一生というものをよく知り抜いていて、
そしてしかも、愛し抜いていて、そうして
守り抜くと。

 それは、この世の中へあなた方が出てくる
前から、そして、今度死んで肉体がなくなって
向こうの世界へ移って、向こうの霊界修行でも、
その守護霊さんというのはずっとあなた達を
守ってついてゆく。守護霊さんというのは
休息がないわけです。肉体人間というものは、
ずっと眠らずに何日か起きてらっしゃいと言えば、
一週間もすれば、人間は死んじゃいますね。
 何故かというと、霊要素というものを
眠ってる間にこっちで(こっちでと言うのは
霊界でですよ)、霊界で補給しないことには、
人間というのは生きてゆけないから、そこで
眠らせて生命をつないでゆく訳ですけれども、
守護霊さんというのは、そういう休息がないから、
その人の一挙手一投足どころか、一秒一秒
一瞬一瞬のその人の想いに付き合って、その
想いの中に、すこしでもきついものね、つまり、
やりきれないもの悲しいもの─色んな想いが
出てきた時に、それをどんな風にして消すか、
軽くするか。つまり、この世の中をただ単に
肉体だけではなくて、霊の生命もですよ、全部
含めて、どうやったら生きやすくするか
という事を四六時中考えてる。

 それはやっぱり、守護霊さんというものが
神様の愛というものを知ってて、そうしてその
愛念をよく知り抜いて、あるいは体で
うつした人だから、それが出来るんですね。
 これはやっぱり、そういうことが
わからない人が守護霊さんにつくということは
ないんです。そうでなかったら、守護霊さんの方が
潰れちゃいます。人間というのは、業の世界の中で
こうやって息して生きてる訳ですから、この業の
世界というのは、この個人の業だけじゃなくて、
地球全体の業の現われの中の一つを人間が
受け持っちゃってる様なことになってますから、
その業を、魂の訓練というか、そういう神様の
本然の愛というものを知らないものが、もし
守護霊さんとしてついたら、そっちの方が、
守護霊さんの方が潰れ死んじゃいます。そうじゃ
なくって、その業にも負けない、あるいはその業を
光に変えてゆく、光明化してゆく。それだけの力と
覚悟と色んなものが備わってる人が守護霊さんに
なる訳です。

 でも、守護霊さんになるといっても、守護霊さん
というのは、おおむね肉体人間の経験のある人が
なることが多いですから。そうしますと、むこうへ
行って、霊界に行って、霊界には様々な修行場が
あります。その修行場で又修行して、そうして
自分を透き通らせて、想いを愛深くして、それだけ
じゃなくって、誰々の守護霊につくという場合は、
その人の色々な想いを受けとっても、その人と
一緒になって悲しむ、その人と一緒になって悩む、
それだけの大きさというか深さというか、そういう
ものがなければやはり守護霊さんというものは
務(つと)まらない。

 なぜかというと、人間というものの癖を本当に
知り抜いていないと、あるいはその人
というものを知り抜いていないと、守護霊さん
というものは、とても導けるものじゃない。
 あるいは、神様の愛というものを、エネルギー
というものを、光というものを、この地上に
送るというそんな大役は出来るもんじゃない訳
なんですね。だから、それ程守護霊さん
というものは、つまり魂の大きな人。単に幽体が
大きいという訳じゃなくて、愛の大きな人。その
愛というものは、神様から流れてくる愛。それを
受けとる力の大きい人。そして、その愛を
受けとって、その愛を注ぐことが深い人。

 人って言ってますのはね、人って言わない
ことには、これは皆さんに伝わりにくいから
人って言うわけでして。大きく言いますと、
流れですね。ひびきですね。

 我々の生命というものは、何によって生かされて
ゆくかと言うと、それは神様の愛によって
生かされてゆく訳ですけれども、それを
手助けしてるのが守護霊さんで、守護霊さん
というのは、守護神さんと一緒になって、その
神様の愛の根元、愛の根元なんていうと又
わかりにくいかもわからないけれども、
その愛の元であるひびきに我々をのせてく訳です。
 あるいは、愛という流れの中にのせてって
下さる訳ですね。で、私共の会では、その
ひびきとか、神様のひびきとか、神様の流れ、
愛の流れというものに、のりやすいって
いいますかしらね、一体化する為に何が
一番いいか。ずっと私が修行させられて、そこで
受けとらせていただいたのが、世界人類が平和で
ありますように、日本が平和でありますように
という、あの祈りなんですね。そして最後に、
“守護霊さん守護神さんありがとうございます“
と言った時に、守護霊さん守護神さんというのは、
ひょっとこう、私達の本心をあるいは
霊体をですね、さあっとそのひびきの中へ
つれてって下さる。のせて下さる。そうして、
その祈り言を肉体の私が、肉体の我が唱える
と同時に、天界の神界の私も同時に唱えると、
神我一体になってると、その時には、もう
肉体の自分だけじゃなくって、天地貫いて
私というものがあって、その私というものは、
愛のひびきの中で神様と一つになってるんだ
ということなんです。そして、そのひびきを
手伝うというか、そのひびきの流れにのせて、
その光明をパーッと振りまく、一番親しく、
最後の最後までお手伝いするのが
守護霊さんですね。

 だから、守護霊の愛というものは、これは
なまなかの愛じゃない。これはもう本当に
生命がけの、生命がけのと言ったって守護霊は
死にませんけれどね。死なないけれども、
その位の覚悟の愛なんですね。しかも、肉体を
経て来ているから、人間がどれ程悩んで祈って、
もうその想いがかなえられない、願いが
かなえられない、自分はどうやって生きてったら
いいのか、家族をどうやってみてったら
いいのか・・・とかね。あるいは、商売がうまく
いかないとかね。そういう現実のことだけじゃ
なしに、精神的な面でも、自分はどうしたら
いいのかとかね。色々つき当たって悩んで、
ぶち当たって、もうどうしようかという
行き詰まりのどん詰まりのどん底の想いを
知ってる訳ですよね。知っているから、よけいに
その光をどうやったらこの人に出しやすいか。
 ひびかせやすいか。その人のことを知り抜いて
いるからこそ、守護霊というものは守ることが
できる。

 そういう守り手に我々は守られている。そうして、
光のエレベーターにのって祈ってる。その幸せを
得ている訳ですね。

 守護霊さんのことを言ってこのまま終って
しまうと、じゃあ守護神さんはどうなんだ
ということに想いがいきますでしょ。ですから、
守護神さんのことも少し言いますと、守護神さん
というのはですね。守護霊さんというのは
人間の経験があるから、人間の、我々肉体人間の
色んな想いを手にとるようにというか、
それこそわかる訳ね。一心同体になってるからね。
 その一心同体になりすぎて、疲れて、そうして、
疲れた守護霊さんのそのまた悩み苦しみね、それを
又とってくれるというか、さらに高次元の愛と光を
注ぐというかしらね。そういうものですよね。
 そうして、守護霊さんを元気にさせて、又、
人間の為に一人一人の為に働かせる。

 守護霊も守護神もいよいよ困った時にはどうする
かというと、私のところに来て、私が柏手とか
何とかでもって、ここで浄めて、ついでに、
ついでにっちゃあ悪いけども、肉体の
人間の方まで、皆さんの方まで柏手で浄めてる。
 そういう今、日常なんですね。

 神界という所は、想いが浄まってるとか何とか
皆イメージで言うけれども、やっぱり色々な
高い魂の人達がより集まって何を相談しているか
といったら、人間の進化なんですね。人間の魂が
どれ程今高まってるか。どんな所で今
止まっちゃってるか。悩んでるか。それを
見ているんです。人類世界というものを
見ているんですね。だから、どうすればいいか。
 それをどんどん下に降ろしてゆく。下に
降ろしてゆくというのは、肉体人間の想いの中に
降ろしてゆく、その降ろしていって降ろして
いって降ろしていった先っていうのは、
肉体人間の子供から大人、老人に至るまで皆が
唱えられる祈りといったら、世界平和の祈り
だから、これを昇ってゆく時に何の苦もなく
といったらあれだけれども、多少の日常の
苦しみはあっても、魂そのものは非常に昇って
ゆける。高いところまでくることができる。
 スイッチを切りかえて、霊体そのものが、細胞
一つ一つまで喜びが満ちあふれることができる。
 そういう祈りでもって救済してゆく以外に
ない。そういう時代に今立ち至っている訳です。

 だから神界というのはね、非常に全部が調和
している世界であると同時に、まだ調和して
いない世界のことを見て、検討してですね、
そうして、そこに誰をもってったらいいか。
 平和が完全に完成する為には何が足りないか、
誰が行けばいいか、誰をどうすればいいか
ということを常に考えている。そういう
世界な訳です。そこで、守護霊さんも
守護神さんも、神界の高次元なそういうものを
想いをうけてですね、そうして、愛情という
ものね、愛というものと平和というものが
完成に向かってゆく為に、一歩でも二歩でも
ゆく為に、皆休みなく働いている訳ですね。

 だけども、そういうことを抜きにしても
というか、そういうことは忘れてもらっても
いいけれども、取り敢えずとも角も、
守護霊さんというものは、本当に人間よりも
人間らしくといったらあれだけれども、皆の
生命が生き生きする為にどうすればいいか
という事を休まずに働いている。いよいよ
駄目になったら、私の所にやってくるけれども。
 しかし、人間を愛する、心配する、その為に
悩む。その想いというものは本当に深い。その
祈りも深い。そういうことを心に留めて、
守護霊さん守護神さんありがとうございます、
というあの言葉を出して下さると、
倍にも二倍にも光が注がれてゆく訳です。
 その時に、自分の中の本体が輝いて
くるわけです。
            昭和63年5月5日
               五井昌久

やさしさについて 序

2012-03-28 10:38:02 | 癒し
       ──序──        
                五井 昌久

やさしさとは
つまり
愛です
人と人との愛
神と人との愛
その
お互いの
こころの
交流のなかに
わき上がってくる
清しいながれ
それが
やさしさであり
愛なので
あります
               平成2年4月1日

いのちは本源の光にむかって

2012-03-27 11:06:47 | 癒し
水がながれるように
いのちは
本源の光にむかって
ながれてゆく
愛と
美と
平和を呼ぶ声が
どこからか
きこえる

平和の祈り言のなかに
神を呼ぼう
私たちのふるさとへの呼び声を
高くしよう

自愛他愛
という声がきこえる
このひびきをたずねれば
さらに
ゆるしの光に出会うことになる
自分をゆるし
人をゆるし
このひびきのなか
光は
大円光となって
あたりをつつみ
人々をとらえる

ゆるしの光
やわらぎの光よ
あなたが
神の智恵と
愛とから
放射されていることを
私はしっている
そして
すべての人々の上に
このゆるしとやわらぎの光がおよび
それぞれが
愛の柱となって
この世界を平和にしてゆくことを
私はしらされている

神よ
あなたの大愛の何という深いことか
そのいつくしみのまなざしの前に
私は頭を垂れ
ただひたすらに
世界平和の祈り言をささげる

神よ
この地球そして宇宙に完全平和がおろされ
神のみこころが
それぞれの天命を
かがやかせるそのときまで
私は
印を結び
柏手を打ち
空っぽの場所となって
あなたの心を
伝えつづける

人よこの神の愛の前に
さあ世界平和の祈りを
ささげて
いこう
          平成2年1月9日 記 8巻 了