わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

心のながれについて

2012-07-31 09:42:11 | 癒し
 我々が毎日誰よりも親しく付き合って
いるものというのは、考えてみますと、
心ではないでしょうか。
 朝起きて、さわやかに目覚めることが
出来たとか、あるいは、ちょっと
睡眠不足で体がだるいなあとか、そういう
ことを感じる。覚知して、そして
くたびれているにしろ何にしろ、
起き上がるというのは、それはやはり
気持ちの働き、心の働きであります。

 我々はよく自問自答なんてことを
申しますけれども、自分に問うて
自分に答えるというのは、毎日毎日
自分で無意識でもやっている訳ですね。
 自分で考えて、ああお茶を飲みたい、
誰かに会いたい、こういう予定がある、
というのはそれは記憶ということも
あるけれども、それをしたいとかしたく
ないとか、面倒くさいなあとか疲れたなあ
とかということも含めて、それは自分の
気持ち、心と対応し続けながら、毎日
肉体を養っている訳であります。

 親兄弟というのは絆が深いとか申し
ますけれど、私なんかに言わせると、
親兄弟よりももっともっと自分の中で
深い関わり合いを持っているのは、
自分のそういう自分自身を覚知する
心でありますね。ところが、いつも
申しますように、心というものはずっと
奥の深いところで神様と繋がっている。

 神様の世界なんていうと、この世と
あの世という遠いかけ離れたところ
のように思う。ある宗教の信者さんだと、
極楽に行くとか地獄に墜ちるとか墜ちない
とかね、あるいは、聖書などでゲヘナの火
とか何とかいうけれども、しかし、
そういう何か想い焦がれるとかいう世界
じゃなくて、厳然として、あの世
というか霊界と申しますか、そういう所は
ある訳なんですね。

 向こうの世界とこっちの世界というのは
ずっと繋がっている。一つづきになって
いる。だから、霊界移行という言葉を申し
ますけど、それは実際に移っていくので
あります。我々自身がこの肉体を
脱ぎ捨てて、向こうの世界に移って、
そしてさらに自分の生命を豊かにしていく。
 そういう為の移り住み、それが霊界移行、
死なんだと。だから、この世の誕生と
向こうの往生というのは、これは二大祝賀
行事であると私がいつも申しますのは、
そういうことなんですね。

 この肉体は食べなきゃ我々は死にます。
 飢えれば大変なことになりますね。その
為に働かなきゃなんない、お金を得なきゃ
なんない。そういう想い煩いが霊界に
移行すると、一回こうすっと抜けるもんだ
から、色々な痛みや煩いがないぶん、
余分なものがなくなって働きやすく
なるわけね。

 で、働きやすくなるというのはもっと
厳密にいいますと、これは素のまんま
になる。素直になる。その人の本心が
現われてくる。そういうことなんですね。
 我々世界人類というのはですね、人間
一人一人というのは神様の御心の分かれ
なんです。生命の分かれなんですけれども、
その御心と心を一つにしていく、本当の
ところをいえばそうですね。それで
生きてる。神様の生命を貰って生きてる。

 生命を生き生きとさせる。心をひそめて
ずっと自分の心の流れをみていくと、
本心に連らなっているから、その
連らなっている自分自身というものが、
先程も申しました様に、非常に大きく
深いものなんですね。そうして
その人間の心の流れというものは、
自分の中の例えば、これが飲みたいとか
あの人に会いたいとか、そういう欲求
とかいうものだけじゃなしに、もっと
もっと深い深いところで繋がっていて、
実は、深いところから我々の肉体を
養なう、例えば、暑いとか寒いとか
そういう色々な欲求が出て来る訳ですね。

 今こうして世の中で生きる為の、必要に
応じたものがちょっちょっとこう出て
くるけれども、しかし、本当を言えば、
本来心の深いところからの声という
ものを聴く、その為に我々は生きている。
 あるいは、もっというと、その目に
見えない程の世界、奥の奥の体と
いうのは常にそういう本来の深い声を
聴いてる訳ですから、我々の肉体が
覚知しようがしまいが、その霊の生命を
聴いて心を受けて生きている。そういう
ものが我々の肉体の実は養い親に
なってるし、肉体を養ってる元になってる
いうことを思いますとね。キリストが
言ったね、「何を食べようかとか何を
飲もうかとか想い煩うな」というのが
ありますよね。「あの空の鳥をみるが
よい」という風なことを言いますね。
 それは何かというと、黙ってても
棚ボタにお金が入ってくるとかじゃ
ないんです。

 人間の生命というのは、神様の霊的な
そういう健やかなところからの流れが
来ないと止まっちゃうんです。生命と
いうのはね、神様の分かれだから。
 だから、神様の方で、この人間を
何かの形でまだまだ生かして、器として
動かしてゆかなきゃと思うかぎり、我々は
死にたいと想ったって生きていかなきゃ
いけない。死ぬことを許されないわけ
なんですね。霊界移行をかってに
できないようになっている。

 例えば、お金がない、明日からどう
しようという所までいっても、そこで、
あれっと思うところで道が開けてくる。
 神様なんだから、お金でも何でも自分の
思うままに湧かせることが出来るんじゃ
ないかとか、色々あるんですけれどもね。
 ただ人間の生命というものは前生も
前々生も生きてここにこうして存在して
おりますから、色んな借金がえしが
ありますね。その借金返しを済ませる
というのは大変なことなんです。何が大変
かといったら、人間にはまず欲が
あるんですね。欲が絡んで人間関係が
拗れるとかというのは、これは一番
やっかいな訳ね。

 例えば、前の世の中で喧嘩別れして、
もう絶交だとかあるいは生命のやりとりを
やったとかね。あんまり穏やかではない
話だけれども、そういう相手ともう一回、
守護の神霊が後ろでくっつけて、それで
何とかこの世の中でしようと思ったって、
相手が猛烈な金持ちでこっちがそれ程
お金持ってないなんていう、そういう
極端な環境の中で合わせたとしたら、
これはなかなかねー。僻み根性というん
ですかね。例えば、片っぽが一千万
持ってる、片っぽは五十万位しか持って
ない。五十万対一千万じゃね。この
世の中でパッと見はですね、一千万の方が
多いから、五十万の方は萎縮しちゃう
わけね。

 ですけれど、その五十万をどう
生かすかなんですね。今手許にあるものを
どう生かすか、自分の生命をどう
生かすか、ね。
 それによってお金というのは増えも
するし減りもするんです。その一千万
というのは、私から言わせますとね、
つまり、その人の努力の賜物でもあるかも
しれないけれども、前の世の中からずっと
積善をしましてね、陰徳積んで貯金を
増やして来て、それで現われてきた環境の
中の一千万かもしれない。そうしますと、
その一千万の上にあぐらをかくと、
一千万なんてお金はたちまちに消えて
なくなる。

 なくなった時にどうするかというのは、
その人の心の現われになる訳なんです。

 そこで本心を輝き出させるということが
これは並大抵の事じゃないんです。
 人間生きていかなきゃいけませんので、
なかなかそれが大変なんですけれども、
でも出来るだけ素直にね、任せ切るなんて
いうことはなかなか出来ることじゃ
ないけれども、でも、「すいません
よろしくお願いします」と言ってしまって、
祈って祈って祈っていきますとね、
そうするといつの間にか、ああこういう
お金が入ってきたなあとか、ああこういう
人に会って助けられることになったなあ
とか、そういう何か援助がね、まわりに
ついてくるんですよね。その辺が、
自分には一千万あるから大丈夫だと
思ってあぐらをかいてしまって何にも
しない人。しない人というのは、いわゆる
心やさしくまわりに対しても自分に
対しても気配りをしない人。それで
この世の中を渡ろうとしてしまう。欲で
渡ろうとしてしまうと、これが一番駄目な
ことなんですね。

 私に言わせれば、さっき言ったように、
人間の生命というのは神様の
分生命(わけいのち)ですから、神様の
光を一瞬でも滞らせちゃったら、これは
生きていけないんです。人間というのは。

 だから、器としてどういう風に用い
られるか分からないけれども、その
用い方は皆違うんだけれども、しかし、
この人間はまだこの世に用があるという
場合は絶対に御用済みにならない。今日
目覚めて、そして生きてるということが
わかったら、あーこれは生かして下さっ
てるんだ、生きてるんじゃない、生かして
下すってるんだと。

 だから、自分がどういう風に器となって
いくか分からないけれども、全身でですね、
お任せします。宜敷くお願いしますと
言って、守護霊さん守護神さんに
言い続けてごらんなさい。あるいは、
五井先生に言い続けてごらんなさい。
 そうすると、実際に、食べる為に
着る為にあるいは住む為にね、仕事でも
お金でも入ってきますよ。肉体を
養うにはね。

 何故かといったら、霊の生命だけじゃ
この世の中はやっていけないから、この
世の中で、神様の為に働かせる為に、
神様が必要であれば生かしていくという
ことは、肉体を養っていかないと生かして
ゆけない訳だから。そうすると、この人間
には何が必要であるか何が必要でないか
というのは、向こうの方でよくご存知
ですから、そこで、絶対に自分が生か
されていくんだという、そういう
ことですね。

 私は何にも取柄がなかったけれども、
とに角任せてしまったね。そうして、
何もかもゼロ以下になって、それでも、
人間というのは神様が養なって下さるから
生きてゆけると、その位の素直さだけ
持てた。そうしたら、貧乏にもならずに
何とかこの世の中生きて、子供も授かって
孫も授かってゆけた。その時その時、
私はこうして下さいと言って望みは
しなかったんですね。色んな夢とか希望
とかいうのは別にして、是非とも
こうならなくては困りますという風には
望まなかった。そうすると、自分が
想い描くよりももっと以上のものを神様は
与えて下すった。そういうことなんです。

 つまり、自分の本心の中へ、自分の
本心の中へというのは、神様の心の
中へですね。その心の中に一致して、一致
させて祈り言をいってゆくと、世界人類が
平和でありますようにとずっと祈り
つづけてゆくと、そこで神様というのは、
その一人一人の人間にとって一番大事な
ものを下さる訳なんです。ですから、
そこを信じて私共は世界平和の祈りを
成し続けてゆきたいと思いますし、又
成し続けていらっしゃるように、私は
こちらから光を送り続けてまいりたい
と思っています。

     昭和63年6月13日(月)
          五井 昌久

平和な心

2012-07-30 07:46:02 | 癒し
 私共にとって、心を平和にするということはなかなか
出来ることではありません。それは何故かと申しますと、
一日の間にでも、色々悲しい事が起こったり、厭な
ことが起こったり、悔しい事が起こったりして、
心の中を平和に保つということは、まことに難しい事
だからであります。
 が、それをどういう風にすれば平和にできるかと
思って、人間というのは、例えば、芸術方面で、美術を
鑑賞したりあるいは書道をやったりお花をしたり、
色んな心を和ませる様なことをして、そうして、自分の
中の雑駁なものを取ろう取ろうと思って、一所懸命
やるんだけれども。でも、花に向かい合ってる時には
平和であっても、人間関係のギスギスした現場へ戻って
来ると、その平和であった穏やかであった心が元へ
戻ってしまって、元の木阿弥になってしまってね、
それでどうにもならなくなっちゃう。こんな事では、
いくらお金を使ってお稽古事をやったって、何かもう
自分の中のちょっとした気慰みにしか過ぎないじゃ
ないかという風な事で、そういう人が溜息ついたり
するのを聞いてますとですね、自分の内の色んな
ゴタゴタをじゃあ何処へ捨てたらいいのかというので、
今、とっても悩んでる人が沢山いる訳ですね。

 例えば、山登りの好きな人など山に行くけれども、
山の頂上に立って、ああいい気持ちだなあ、人間は
小さいなあ、と思う。その想った瞬間はいいけれども、
又こっちへ帰って来て駄目になる。その繰り返し
なんです。それで、その慰めというか、もっともっと
人間のその生命の萎びている状態をなんとかしなきゃ
というので、何が出て来たかというと、文学が出て来たり
色々なものが出て来たりするけれども、結局落ち着かない。
 落ち着かないというのは、人間の肉体というのは
何時も申しますように、我でもって汚れている。そうして、
色んな人の言うことなどが気になって、自分の評判は
どうだろうとか、自分の仕事は旨くいくだろうかとか、
そういう心配や不安、不平やら不満などですね、
色んなものがこう重なって、おりみたいに
なってるもんだから、なかなか自分の心を落ち着ける
というところまでいかない訳なんです。

 それで、もちろん、レンブラントだとかミレーやゴヤ
だとか、東西の色んな良い芸術家がおりますけれど、
そういう人達、その天心を現わした人達というのは、
本当に導き手ではあっても、我々凡人がその人達と一緒の
心になれるかといったら、そうはいかない。それで、
芸術なんかと同時に、慰め以上のものとして、やっぱり、
釈迦だとか孔子だとか、それからキリストだとかですね、
色んな人が出て来て、そうして道を説いてる。何を
説いてるかというと、祈るということについて説いてる
訳です。

 私は、祈りというのは、キリスト教などでは絶対者に
対する全託という風なことを申しますけれど、それは
真実ではありますけれども、この今生きてる人間が
肉体人間のままで、じゃあ天父のごとく完全になれ
といったって、そんなに完全になれる訳はないのですから、
この在りのまんまで、神様のみ心の中へ入れちゃう。
 任せてしまう。弱いまんまでいいんですね。

 不平不満を抱いているまんまでいいわけ。そうして、
生命の洗濯というものを本当にしていただいて。その為に
祈りのエレベーターに乗って、神様を呼んで、そうして、
自分の中の本来のほがらかな生命の元の根っこのところを
見つめてですね、その根っこのところというのはこれは
宇宙神とつながっておりますから、その宇宙神と
つながっているそういうところを見ていると、これは
光明そのものなんですから、光明そのものの自分を見る
ということにもなる訳なんです。

 宇宙神だけが光明じゃないわけね。自然の中も、
それからありとあらゆる息しているものね。動物にしろ
植物にしろすべて生命あるものね。それから、鉱物
にしろ何にしろ、我々からすると、言葉をもたない
無機物という風なものでも、ちゃんと守護する神様が
いて、そうしてそれを導いていく、そういう用命を
持ってる神霊方がいる訳で、それは皆光明を持ってる訳
なんです。この宇宙の宇宙子というものは皆光明を
帯びてる。その光明を帯びてる同志が、奥の生命でもって
呼びかけ合って、大調和と愛と平和というものが宇宙の
根本の精神にもなり、それから秩序を保ってる。そういう
ものにもなってる訳です。

 ですが、その中で地球は、宇宙人がいつも幼ない
兄弟と申しておりますように、霊妙な光明波動
というものがなかなか届いてこない。
 人間というのは、自分の我でもって生きるから、
自分が光明そのものだなんて思えないけれども、しかし、
ずーっと日常の中で悩んだり苦しんだり悲しんだり
している中で、自分をお任せして、そうして何か、本来の
生命の中に自分を入れていきますとね、そうしますと、
自分が光であること、人も光であること、それからこの
自然全体の中にとけ入ってる生命の一部であること、
自分自身がですね。そういうことが分かる訳です。

 そうして、もっともっと奥を見つめていくと何が
分かるかというと、神様が愛であるということが
分かってくる訳ですね。

 例えば、世の中不公平なんで、才能がある人と無い
人とある。それから、お金持ちな人とそうじゃない人
とある。色んな環境の違いというものはあるけれども、
しかし、それは皆想いの現われなんですね。あるいは、
人間の生命というのは、何時も申しますように、今だけの
生命ではない。ずーっと前生、前々生からずーっと
生き通して来ている。そこで獲得してきた色々な環境の
末に、今の想いが重なって、今の環境が出来てきている
訳です。ですから、順境にしても逆境にしてもですね、
一番難しいのは、心を豊かにしてそうして愛深く、
自分にも愛深く人にも愛深く生きるということが
なかなか難しい訳です。

 ですけれども、自分にも人にも愛深く接していって、
そうして、不完全な自分ではあるけれども、それを一回
お願いしますといって神様の前に投げ出してしまった
時に、神様がよしと引き受けてですね、引き取ってね、
光を与えて、今までより以上に光を与えてですね。
 そうして本当に、その時には心が平和になって
くるわけ。

 祈りの根本というのはそうなんですけれども、
南無阿弥陀仏にしろ南無妙法蓮華経にしろですね、
主の祈りにしても他の祈りにしても、皆祈りという
ものは、そういう奥深いものをもってる訳
ですけれども。じゃあ南無阿弥陀仏といったって、
なかなか今先入観があって、極楽浄土のことしか
浮かんで来ないわけね。南無妙法蓮華経といったら、
日蓮宗のことしか浮かんで来ない。じゃあ日蓮宗だけ
信じていれば、他の所は全部駄目なのかというと、
そうじゃない。

 人間というのは、神様の生命の分かれですから、
皆神の子ですから、そういうものではない訳なんです。
 そういう所から見ますとね、生命の奥の祈りの
もっと奥の光明そのものに辿り着くその道筋というのは、
色々あっていいんだけれども、しかし、人間が本当に
この世に今現代に生きてる我々が、ああそうだなあと
納得ができる、つまり、理論的にも納得し共感が出来て、
そうして愛を呼び起こす祈りとしては、世界人類が
平和でありますようにという祈りが一番心を
落ち着かせる。静かにさせる祈りである。と私は思う
訳ですね。この光明心というものをずーっと散蒔いて
いきますと、自分自身も浄まっていく、まわりも
浄まっていく。別に宗教家になったりしなくっても、
要するに、これをやっていれば菩薩行をやっている様な
ことになる訳です。皆知らない内にやる訳ですね。

 いつも何時も、私は繰り返しこのところ申し上げて
いますけれども、何時の間にか心が落ち着いていく。
 何時の間にか心が静かになる。そういうことが大事
なんです。心を平和にしよう平和にしようと思って、
何か落ち着かせよう落ち着かせようとするとですね。
 例えば、胸がドキドキすると、ドキドキするのを
何とか治めなくちゃあと思うけれども治まらないと、
興奮したり緊張したりすると、ますます顔が赤らんだり
心臓がドキドキしたり、それと一緒でですね。
 平和にしよう平和にしようと思ってる間は、本当には
平和にならないんですね。

 今、自分の心は平和じゃないけれども、しかし、
すいません、このままでよろしくお願いしますと
言ってしまいますと、もう神様というのは、こちらから
見てて、もう完全に抱きとって愛して赦しとってですね、
そうして何時の間にか落ち着かせるように、気持ちを
持っていって下さる訳です。

 自分の心は自分がよく知ってると言いますけれど、
我々の中で知っているように思うのは、それは感情
なんでしてね。肉体人間の中の我の一番上の部分、
氷山の一番見えてる部分しか分からない。心という
ものは、ずーっと奥に行きますと本来心があって、
本来心の奥は宇宙につながって、宇宙の奥は神様に
つながってる訳なんです。非常に距離が遠いように
思うけれども、キリストが言いますね、「汝らの内に
神あり」と。あれと一緒で、人間の奥の奥には神様と
同じ生命の流れがあるから、自分の中の神様と話を
しようと思ったら、自然に祈りに入っていけば神様の
声が聴こえるというか、神様がこう望んで
いらっしゃるんだな、人間の生命というのはこう進んで
行くもんなんだな、あるいは、世の中の運行と
いうものは本当の意味では公平なんだなということが
分かって来るんですね。あるいは、もっとはっきり
言ってしまえば、奥の体というものがそれはもう
分かってる訳なんです。  

 ですけれども、我々何十年か生きてまいりまして、
やっぱり、それなりの社会的な地位だとか今の立場
だとか、結婚してるとか結婚してないとか、色んな
此の世的なとらわれがあります。こだわりもあります。
 そのとらわれとかこだわりを無理にとってですね、
そうして、じゃあ皆同じ様に宗教の道へ入れ
といったって、それは無理な話だから、そのこだわりは
こだわりとしてそれを一見大事にしながら、本当に
子供みたいに祈っていくと、道というのは開けて
いくものなんですね。

 だから、目の前の表面的な現われてきた環境だけに
把われていると、本当のことというのは分かりにくい。
 そして、その奥のことというのは本当に人間には
分からない色々なものがある訳なんです。例えば、
生死にしましても、何十年も健康でやっていけるだろうと
思った人が、ポックリ心臓で死んでしまったりとかですね、
こんなに一杯病気持ってる人がという人が、何十年も
生きちゃったり、そういうこともある訳です。
だけれども、それは神様の側から見ていれば、本当に
大宇宙の中の大きな流れの中の一滴として、人間の
生命を器を使う。公平に使うということが大大大奥には
ある訳ですけれども、そこまでいかなくてもね、祈りの
階段を一歩づつ登るというのは、取り敢えず今の私を
そのまま正直に神様の前にさらけ出して、そして、
「すいませんお願いします」と言ってお祈りをする、
続けていく。そうすると、いつの間にか平静になって、
心が平和になって静かになって、自分で力むのでもなく、
まわりから色々な援助が来たり、あるいは、人の為に
祈る気持ちが起こったり、親切にする気持ちが
起こったり、われしらず喜んだりする訳なんですよね。

 心というものは放ったらかしておくと、本当に
喜びたがるものなんですね。それに、この世の色んな
枠なんかで、我々が色メガネで世間というものをみて、
自分の心というものを見てしまいますと、それはもう
我の世界と同じ様に見えてしまう。そうではなくて、
心というのは神様と繋がっているものですから。
 そういう心を我々はいただいて、そして平和に
生きるようになってるものなんですから、平和に
ならないという方が、本当は原則から言えば、普通
ではないおかしいんです。ですから、本当は私の心は
元々平和なんだなと思って、今の不安なり不満なりを
こちらに預けて下さったら、こちらの方でちゃんと
浄めて光を送って、そして、後で考えてみたら、ああ
あそこで迷って悩んで立ち止まって、お金は失くなっ
たけど、あそこで宝を貰ったなあ、とかということが
5年たったり10年たったりすると分かるようになる。
 そこまで連れていくのが私の仕事なんでして。
 喜びそうな事言って五井先生は連れていく
というけれども。

 そうじゃない。やっぱりこの世の中に生きること
というのは、非常に辛いことが多い訳です。その中で、
世界人類が平和でありますようにと言ったってですね、
自分の気持ちが平和にならなければ、とてもじゃ
ないけれどやりきれない訳ね。人の為に祈るなんて、
そんな気持ちになれない人がこの世の中に一杯いる
訳なんですよね。そういう時には、祈れと言ったって
祈れませんから、すいません私は今祈れませんよろしく
お願いしますと、もうとに角預けなさい。銀行じゃ
ないけど、預けて預けきったら、そこでふっと何だか
訳の分からない道が開けてくる、という風に私は言う
訳なんです。その時に、預け切ってしまいますと、必ず
自分の生命の奥にある愛念というものがふーっと
静かに昇ってきましてね、誰を愛するとかいう理屈
じゃなくって、何か心を一滴平和にする様なものが
ポッとおきる訳です。そこで、ああそうだ、それじゃあ
もう任せてしまおうという気持ちになる。法然さんとか
親鸞さんはそういう気持ちになって南無阿弥陀仏を
唱えたし、キリストというのはそういう気持ちになって
神様を説いた。我々だって、そういう気持ちになって
祈りを続けていけば、やっていけないことはないんです。

 自分がやると思うからとっても大変なんですね。
 自分は何にも出来ないです。自分の生命も何もかも
これは借りものなんですから、いただいてるもの
なんですから、自分のものというのは体の中に一本も
ない訳ですね。足の一本も造って生まれて来た訳
じゃない。全部神様からいただいてるものです。
 それで、私はこういう風に生きたいんですと
こちらで自分の人生を設計して、そうして、
どうでしょうかと見取図を出す。そうすると、
神様の方で見て、ああここはちょっと道が曲がってるよ
なんていうことになると、ある計画がストップに
なったりですね、こっちで折角何かしようと思ってるのに
うまくいかなかったり、そういう形で現われてくるかも
しれないけれど、それは向こうの方が危ないと
思ってるからストップをかけてる、というのが私には
分かる訳ですね。ですから、個々色んな場合に色んな
背景があるとは思いますが、それをひっくるめて、とに角
祈って祈って祈り抜いて行く。祈ること即ち行なんです。
 行というものは光に繋がる訳ですね。

 とに角何でもかまいません。べつに、世界人類が平和
でありますようにでなくとも構わないんです。何にも
宗教を信じていない人でも、太陽を拝んで、ああ今日も
一日ありがとうございましたと言ったら、その時その人は
光明になっているんです。そのように人間というのは
赤ん坊みたいに、無邪気に明るく生きていければいい訳
なんです。ただ私は、その立場立場のその方達の心の
本心を開くお手伝いをする。それが五井昌久の天命
ですから、そういう事を白光の方々も心がけて、そうして、
ただ五井先生を拡めるとか、これが一番いいお祈りですよ
とかいうのではなくて、その人の世界の言葉でしゃべる。
 その人の世界の言葉でこちらから語りかけて、そうして、
頑なになってる心であればそれを抱くようにする。その時
には私もそばに居ますから。

 決して自分がするというのではなく、何か大きな神様の
愛があって、その大きな神様の愛によって我々は生きて
いるんだということを、しっかりそこだけを間違わないで、
そうして、お浄めでも何でもさせていただく様に
なればですね、その人自身の余分なものは離れていくし、
それから、自分自身も浄まっていく訳ですね。そうして、
この世の中の生活というものも大事ですから、その生活の
中で出来る時に祈って行けば、いつの間にか、そうだ
あの人と喧嘩をしていたっけという様な、そういう心に
なっていく訳なんです。

 それは今、平和にしよう平和にしようと思っても
出来ない。出来ないけれども、努めていくとね、何も
努力しないでいいというんじゃない、努力をしていくと、
そういう風に余分なものを取っ払って下さるのです。
 その取っ払いの役が色々あるんですよ。守護霊さんとか
守護神さんとか私とか、色々あるんですよということを、
世界人類が平和でありますようにという何の把われもない
言葉の中に全部込めて、語り込んである。祈り込んで
ある訳なんです。だから、あれを祈ると心は確かに平和
になる訳です。

 色々な宗派の方がおられると思うし、俺は無宗教だ
という人もいると思うけれども、しかし、世界人類が
平和でありますようにの中に込められるようなそういう
ひびきでもって生きていかなければ、今の世の中、
もう光明化していくということは出来ない。

 ですから、色々な宗教や、あるいは宗教の立場じゃ
ない人達とも一緒に生きる、共に生きるということを
目ざしていく為には、自分の生命というものを一回
神様に返してしまって、預けてしまって、それから
無になって祈る。そして、祈っていく事を毎日の朝夕の
日課にする。そういうところからやっぱり、励みに
なって、光というのは出て来る訳なんです。

 もちろん、祈りというものは肉体だけではない。その
奥の体でずっと祈りづめに本当は祈ってるんです
けれどもね。肉体がそれをちゃんと自覚をする為には、
どこかで時間を決めて祈るという、一つの形という
ものがいる訳です。私から見ていると、形というものは
全く無意味と言ったら何ですけれども。でもやっぱり
統一会などで世界平和の祈りを致しましょう。ね。
 私などが導師になってやる。あるいは村田さん
なんかがやる。昌美がやる。というのは、そこで心を
一つにして祈る。時を同じくして祈る。覚えて祈る。と
いうことによって、本心の中にスーッと入っていく、
自分の中の本心にスーッと入っていって、人間の
本来の生命と出会う。というそこを目指している訳です。
 ですから、朝夕にその人が祈りやすい時間で
いいんです。朝起きて寝起きが一番自分は緊張して
よろしいとかですね、色んな人がいると思います。
 その人のその立場によって祈ってゆけばですね、
気持ちというのは段々落ち着いて静かになって平和に
なっていく、しーんとして本当に平和になった瞬間
というのは、実は、我々はここにいて本当は分かって
いないけれども、宇宙の中の平和の元、根元と一体に
なってるんだ。

 だから、我々の生命は個の生命であると同時に、
人類全体の中の一つの一滴の生命であって、そして、
人類というものを支えているんだ。もっと言えば、
宇宙神の御心を支えているんだ。そういうつもりで
生きていっても構わないんです。ただそれをあんまり
声高にいいますとね、じゃあ我々だけが御心を
やっていく人間なのか、これは字面だけをとりますとね、
何といいますか、傲慢無礼といいますかね、
そう聞こえてしまう。

 ですけれども、本当のところ言えばやはり、個人
だけの生命じゃない訳ですね。人は一人では
生きられないと言うけれども、何かこう気持ちが
寂しがる、心が寂しがる。そして、例えば、アメリカと
日本に離れていても、知らない人とある日出会う
ことがあるかもわからない。それと同じように、実は
我々は霊的には皆知り合いなんですね。この世の中に
生きてる人達というのは皆、今の時代に会う人も
会わない人も、皆知り合いなんです。ですから、ここで
我々が祈り心でもって何かする。心を落ち着け静かに
働いていく。質実に自分を高めていく。そういう事を
していると、それが人類全体のひびきになっていく
訳ですね。

 いつも私が申し上げたように、色んな天災だとか、
テンサイと言ったって凡才天才のテンサイじゃ
ないですよ。そうじゃなくて天変地異ね。大雨や雪
などの天気というものね。天気というものは、今
悲しいことに、人間の業によって大水が出たり
何だかんだで浄めなければいけない、そこまで来ている。
 つまり、業がそれだけ空気を汚れさせている。人類の
心の空気を汚れさせている。だから、世界平和の祈り
というのは、そういうのを光明波動でもってサーッと
掃除をするというのはあるけれども、とに角我々
一人一人が誠実に自分の持ち場でずっとやっていると、
それが自分一人だけのことに返って来ないで、
そのひびきがずっと全体にまわっていって、そうして、
宇宙そのものからも光明がくる。

 さっき私が申し上げたようなああいう順序で真理が
花開いていくというのは、これは真実なことなんですね。

 そこまで人間というものは大きくて深い。自分の
身の丈何尺何寸とか昔いいましたけれどね、今で言えば、
160とか170とか、180センチになったら
高い方だとかいいますけれど、人間の大きさというのは
本当はずっと宇宙まで貫いていくみたいな、それ程
大きな光明体なんですね。ですから、本当に深い人を
霊視しますと、もうこの会堂いっぱいとか、この家
いっぱいでは足らなくなる。もうずっと貫いて天まで
いっちゃうんですね。それは特別な人じゃなくって
皆がそうなんです。皆が光なんです。ですから、
その光を集めて、そうして何かやったら
これはすごいことになる訳です。

 だから、我々がやってる世界平和を祈る運動
というのは、世界人類が平和でありますようにという
祈りを国と国も、人と一緒にやる。そうすると、
その人達の言葉を、外国人であるとか英語であるとか
独語であるとかいう言葉の壁を超えて、本心のひびきで
祈るもんですから、その人の本心と私の本心とが
ひびき合って、そうして、そこから愛と平和という
ものが生まれてくる訳なんです。
 私共の目指している平和というものはそういう
ものなんでして、そしてそれは絵空ごとでも何でも
なくて、人間というものを真実に深めて、じいっと
見つめてみつめ直してゆくと、そういうすごい
素晴らしい働きというものが人間の中にはあるんだ
ということね。それは霊肉が一致してやっていける。

 昔は即身成仏といって、生きたまま仏になるという
ことを目指して生きた。だから、飢えてそのまま
死んじゃったりした人がいますよね。お坊さんでもね。
 本当に無になって死んでる人もいるけれども、
いつかのミイラの話じゃないけれど、即身成仏の
ミイラのそばにいったら、食べたくて食べたくて
しようがなくなった人がいる。

 それは、食べたい食べたい食べたいと想いながら、
一方信仰心で押さえて死んじゃったもんだから、
その食べたいという餓鬼道の餓鬼のようなああいう
心がね、誰か幽体の広い人にとっついて、それで、
その人は食べて食べて、祈ってもらってやっと食欲が
おさまったなんて話があるけれども、あれはやはり
どこか自然なものじゃないですね。不自然なもの
なんですね。人間というのは、霊が非常に大きいから
といって皆自殺する訳にはいかない。皆、この肉体を
もって辛いことがあっても、家族とぶつかろうが
何をしようが、やっぱり生きていかなきゃいけない。
 それは何の為かといえば、自分の生命の為なんです。

 自分の生命というのは、明るい朗らかなもの
なんだから、本当は、だから、本当に明るい朗らかな
ものを導き出して、そして、抱き合う為に我々は
何をするかといえば、祈る訳ですね。とに角、祈る
ことによって生命を宣り出す訳ね。自分の中にある、
明るい何ものにも把われないね。生命を宣り出す
訳なんです。その為に我々は心を合わせて祈る
訳なんですね。

 だから、一人だけでポツンと祈ってるように
みえてもね、目に見えない世界で、誰も会ったことも
ないような人達の霊体なんかがすっとあなたの
そばに来て、霊的に言えば、うしろでこう支えて
一緒になって世界人類がーとやってる。あるいは
アーメンとやってる。そういうことは、私なんかの
目から見ますと、いっぱい見えることなんですね。
 そういう、私は一人ではないんだというね、つまり、
皆共に生きてる生命であって、そして、その生命
であるということを確認するんだ、それが世界人類が
平和でありますようにという祈りなんです。

 世界中の人と友達であるかないかなんていうのを
確かめる為に、世界旅行に出るなんてことはできません。
 それを、霊的にも色んな意味で、深い意味で
確かめるにはあの祈りしかないんですね。世界人類が
ということを口にしただけで、あーと思えるというのは、
本当にあーそうだ、私は世界人類の一人なんだなと。
 その時には、国とか民族とか家族とか柵とか、という
そういう余分なものはもう取っ払っています。もっと
大きな視野に立ったところから自分を見ています。個を
見ています。そうして全体を見ていくものなんですね。
 ですから、そういう祈りに抱かれて我々は生きて
いくんだということをみますと、ここで平和になる
ということがそれ程絵空ごとでもなく、力むでもなく、
自然にやっていけるようになるということがわかる
と思います。
               昭和63年6月13日
                  五井 昌久

心のながれについて 序

2012-07-29 08:56:03 | 癒し
 この法話集は、人間本来の明るい天命
について述べたものである。
 本来の我々のいのちが、神の明るい
大生命の光をうけていることを知ること
によって、我々は肉体をもったまま、霊人
となることができるのである。
 神の愛とゆるしと光とを感受して
いただければさいわいである。

         昭和63年8月22日
             五井 昌久

朗らかに永遠の進化の道を 生きてまいりましょう

2012-07-28 07:49:18 | 癒し
光というものが
すべてのあらわれのもとなのです
肉体人間の身体にしても
こまかい光波、粒子といっていい
光の粒が無数に支えているんです

で、もっとみていくと
ただそこには
神の智慧(霊)だけがあるんです
これを私は本心の光と
呼んでいます
霊があって
はじめてそれを人というのです
なぜなら人間は
神様の智慧(愛)によって
この地上に
つかわされたもので
あるからです

私どもは神の愛から分かれてきた
分生命(わけいのち)であり
分霊(わけみたま)なので
あります

人間の真実のすがたは
光であり、愛であるのであります
それは肉体人間だけをいうのでは
ありません
この世に
60年70年生かしめるだけの
愛ではない
人は神とともに
世界平和の祈りのなかで
宇宙と宇宙人類の進化のために
働きつづける器なのであります

みずからのこころをすなおにして
神に祈りをささげ
神をしたいつつ
この地球世界を愛と平和の気で
満たして
ゆく
それぞれの持ち場で
世界人類が平和でありますように
と祈って下さるときに
我々は光となって
無数の神霊や宇宙の兄弟と
ともに働いて
いるのであります

世界を平和にし宇宙を平和にする
それは神のみこころである
と同時に
我々人間が真実希求
しつづけてきた祈りで
あります

世界平和の祈りのもとに
我々は本当の人間の姿
我々自身の姿を
しっていくのであります
世界平和の祈りを祈ることは
光に出会うことであり
自分自身にかえる
ことなのであります

私どもは私どもの
ふるさとである大元の
いのちと光、神の名をよびつつ
その愛のもとに世界平和の祈りを
なしつづけて
朗らかに永遠の進化の道を生きて
まいりましょう
             平成2年2月8日 記
  
               本当の人間 了

一人一人のおもいと祈りが この世界をかえていく

2012-07-27 09:24:36 | 癒し
私たちのいのちは
ずっと宇宙と宇宙神のみこころにまで
つながり、つらなっているので
あります
無限のなかで
私たちは生かされているのです

祈って祈って祈り抜き
すきとおるまでに高い魂を持つ
兄弟たちが
私たちのこの地球と地球人類に
光を送りながら
進化の行方(過程)を見守っている
のであります

彼らはずっと前から光を送りつづけて
くれていたのですが
今や
私たち一人ひとりの器をとおして
地球の浄化を
私たちとともに
成し遂げ
宇宙神のみこころである
宇宙の完全平和にむけて
まい進してくれているのであります
私たちの器
それは
世界平和の祈りを祈りつづける
ときに
人間本来の霊光をあらわす
光明体としての私たちの器を
いうのであります

前にもいいましたように
人は
自覚せざる霊人であったわけですが
今日のように
変化の激しい時代
まさにこの地球が
新しい時をきざもうとするこの時期に
あたっては
私どもは
霊(神の智慧の光)が私どもを
みちびいている
私どもはその光を持っているのだ
という事実を自覚しつつ
世界平和の祈りを祈りつづける
ことによって
一人一人が
光の送り手となっていかねばならない
ときになってきたのであります
一人一人のおもいと祈りがこの世界を
かえていくのであります

こう申しますとちっぽけな人間一人に
何ができるか
と多くの人は思ったようでありますが
それは
人間というものを
肉体という不自由きわまりない
世界でしか
生きないものとみるところからくる
思い込みでありまして
くり返して述べておりますように
人間というものは
そんなちっぽけなものではないので
あります

人間は
神の分生命
分霊であって
つねにその大愛と無限の世界から
光を送られているものであり
また同時に
神界霊界幽界にも存在して
働きつづけているものなのであります
つまり
人間というものは
自由自在な働きを
本来
その世界で
神の光をうけながら
なしつづけていくものなのであります
なしつづけているものなのであります

ところが
この肉体というものをまとううちに
肉体にまつわる我というものが
出て参りまして
本来肉体は
人間の地上での衣服であるにすぎない
筈だったのが
長年月の間に
業想念と光とが入りまじって
しまったのであります
そして
それを人間のすがただとおもい間違って
しまったのであります

そこで
この地上に生きる我々自身の長い間の
思い込みを払い
自分自身をのこりなくあらわすために
すなわち
光明そのものの自分
永遠のいのちのなかに神を
たたえてゆく自分をあらわすために
祈りというものが
必要になったのであります
なかでも
消えてゆく姿で世界平和の祈りを
なしつづけて参りますときに
我々は
大元の生命
光へとかえってゆくのであります

いのちというものがずっと神から
ながれてきて
私どもを養い
光(愛)が我々の智慧として
本心を照らしているという事実を
私どもはこの世界平和の祈りのうちに
しらされてゆくのであります

そうして
我々人間の本来の姿
愛と
智と
祈り
のうちに
朗らかに
生きとおして
神のもとへとかえってゆく人間の
すがたは
実に永遠に宇宙へと溶け入り
遂に
中心帰一
神の
大慈光のなかへと
みちびかれていくことを
しるのであります
           平成2年2月6日、8日 記