わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

平和な心

2010-10-30 12:45:42 | 癒し
 私共にとって、心を平和にするということはなかなか出来ることでは

ありません。それは何故かと申しますと、一日の間にでも、色々悲しい

事が起ったり、厭なことが起ったり、悔しい事が起ったりして、心の

中を平和に保つということは、まことに難しい事だからであります。が、

それをどういう風にすれば平和にできるかと思って、人間というのは、

例えば、芸術方面で、美術を鑑賞したりあるいは書道をやったりお花を

したり、色んな心を和ませる様なことをして、そうして、自分の中の

雑駁なものを取ろうと取ろうと思って、一所懸命やるんだけれども。

 でも、花に向かい合ってる時には平和であっても、人間関係のギスギス

した現場へ戻って来ると、その平和であった穏やかであった心が元へ

戻ってしまって、元の木阿弥になってしまってね、それでどうにも

ならなくなっちゃう。こんな事では、いくらお金を使ってお稽古事を

やったって、何かもう自分の中のちょっとした気慰みにしか過ぎないじゃ

ないかという風な事で、そういう人が溜息ついたりするのを聞いてますと

ですね、自分の内の色んなゴタゴタをじゃあ何処へ捨てたらいいのかと

いうので、今、とっても悩んでる人が沢山いる訳ですね。


 例えば、山登りの好きな人など山に行くけれども、山の頂上に立って、

ああいい気持ちだなあ、人間は小さいなあ、と思う。その想った瞬間は

いいけれども、又こっちへ帰って来て駄目になる。その繰り返しなんです。

 それで、その慰めというか、もっともっと人間のその生命の萎びている

状態をなんとかしなきゃというので、何が出て来たかというと、文学が

出て来たり色々なものが出て来たりするけれども、結局落ち着かない。

 落ち着かないというのは、人間の肉体というのは何時も申しますように、

我でもって汚れている。そうして、色んな人の言うことなどが気になって、

自分の評判はどうだろうとか、自分の仕事は旨くいくだろうかとか、

そういう心配や不安、不平やら不満などですね、色んなものがこう

重なって檻みたいになってるもんだから、なかなか自分の心を落ち着ける

というところまでいかない訳なんです。


 それで、もちろん、レンブラントだとかミレーやゴヤだとか、東西の

色んな良い芸術家がおりますけれど、そういう人達、その天心を現わした

人達というのは、本当に導き手ではあっても、我々凡人がその人達と

一緒の心になれるかといったら、そうはいかない。それで、芸術なんか

と同時に、慰め以上のものとして、やっぱり、釈迦だとか孔子だとか、

それからキリストだとかですね、色んな人が出て来て、そうして道を

説いてる。何を説いてるかというと、祈るということについて説いてる

訳です。


 私は、祈りというのは、キリスト教などでは絶対者に対する全託と

いう風なことを申しますけれど、それは真実ではありますけれども、

この今生きてる人間が肉体人間のままで、じゃあ天父のごとく完全になれ

といったって、そんなに完全になれる訳はないのですから、この在りの

まんまで、神様のみ心の中へ入れちゃう。任せてしまう。弱いまんまで

いいんですね。


 不平不満を抱いているまんまでいいわけ。そうして、生命の洗濯と

いうものを本当にしていただいて。その為に祈りのエレベーターに乗って、

神様を呼んで、そうして、自分の中の本来のほがらかな生命の元の

根っこのところを見つめてですね、その根っこのところというのはこれは

宇宙神とつながっておりますから、その宇宙神とつながっているそういう

ところを見ていると、これは光明そのものなんですから、光明そのものの

自分を見るということにもなる訳なんです。


 宇宙神だけが光明じゃないわけね。自然の中も、それからありと

あらゆる息しているものね。動物にしろ植物にしろすべて生命あるものね。

 それから、鉱物にしろ何にしろ、我々からすると、言葉をもたない

無機物という風なものでも、ちゃんと守護する神様がいて、そうして

それを導いていく、そういう用命を持ってる神霊方がいる訳で、それは皆

光明を持ってる訳なんです。

 この宇宙の宇宙子というものは皆光明を帯びてる。その光明を帯びてる

同志が、奥の生命でもって呼びかけ合って、大調和と愛と平和という

ものが宇宙の根本の精神にもなり、それから秩序を保ってる。そういう

ものにもなってる訳です。


 ですが、その中で地球は、宇宙人がいつも幼ない兄弟と申しております

ように、霊妙な光明波動というものがなかなか届いてこない。

 人間というのは、自分の我でもって生きるから、自分が光明そのものだ

なんて思えないけれども、しかし、ずーっと日常の中で悩んだり苦しん

だり悲しんだりしている中で、自分をお任せして、そうして何か、本来の

生命の中に自分を入れていきますとね、そうしますと、自分が光で

あること、人も光であること、それからこの自然全体の中にとけ入ってる

生命の一部であること、自分自身がですね。そういうことが分かる訳です。

 そうして、もっともっと奥を見つめていくと何が分かるかというと、

神様が愛であるということが分かってくる訳ですね。

 例えば、世の中不公平なんで、才能がある人と無い人とある。それから、

お金持ちな人とそうじゃない人とある。色んな環境の違いというものは

あるけれども、しかし、それは皆想いの現われなんですね。あるいは、

人間の生命というのは、何時も申しますように、今だけの生命ではない。

 ずーっと前生、前々生からずーと生き通して来ている。そこで獲得

してきた色々な環境の末に、今の想いが重なって、今の環境が出来て

きている訳です。

 ですから、順境にしても逆境にしてもですね、一番難しいのは、心を

豊かにしてそうして愛深く、自分にも愛深く人にも愛深く生きるという

ことがなかなか難しい訳です。

 ですけれども、自分にも人にも愛深く接して行って、そうして、

不完全な自分ではあるけれども、それを一回お願いしますといって神様の

前に投げ出してしまった時に、神様がよしと引き受けてですね、引き

取ってね、光を与えて、今までより以上に光を与えてですね。そうして

本当に、その時には心が平和になってくるわけ。


 祈りの根本というのはそうなんですけれども、南無阿弥陀仏にしろ

南無妙法蓮華経にしろですね、主の祈りにしても他の祈りにしても、

皆祈りというものは、そういう奥深いものをもってる訳ですけれども。

 じゃあ南無阿弥陀仏といったって、なかなか今先入観があって、

極楽浄土のことしか浮んで来ないわけね。南無妙法蓮華経といったら、

日蓮宗のことしか浮んで来ない。じゃあ日蓮宗だけ信じていれば、他の

所は全部駄目なのかというと、そうじゃない。


 人間というのは、神様の生命の分かれですから、皆神の子ですから、

そういうものではない訳なんです。そういう所から見ますとね、生命の

奥の祈りのもっと奥の光明そのものに辿り着くその道筋というのは、

色々あっていいんだけれども、しかし、人間が本当にこの世に今現代に

生きてる我々が、ああそうだなあと納得ができる、つまり、理論的にも

納得し共感が出来て、そうして愛を呼び起す祈りとしては、世界人類が

平和でありますようにという祈りが一番心を落ち着かせる。静かにさせる

祈りである。と私は思う訳ですね。

 この光明心というものをずーっと散蒔いていきますと、自分自身も

浄まっていく、まわりも浄まっていく。別に宗教家になったり

しなくっても、要するに、これをやっていれば菩薩行をやっている様な

ことになる訳です。皆知らない内にやる訳ですね。


 いつも何時も、私は繰り返しこのところ申し上げていますけれども、

何時の間にか心が落ち着いていく。何時の間にか心が静かになる。

 そういうことが大事なんです。心を平和にしよう平和にしようと思って、

何か落ち着かせよう落ち着かせようとするとですね。例えば、胸が

ドキドキすると、ドキドキするのを何とか治めなくちゃあと思うけれども

治まらないと、興奮したり緊張したりすると、ますます顔が赤らんだり

心臓がドキドキしたり、それと一緒でですね。平和にしよう平和に

しようと思ってる間は、本当には平和にならないんですね。

 今、自分の心は平和じゃないけれども、しかし、すいません、この

ままでよろしくお願いしますと言ってしまいますと、もう神様というのは、

こちらから見てて、もう完全に抱きとって愛して赦しとってですね、

そうして何時の間にか落ち着かせるように、気持ちを持っていって下さる

訳です。


 自分の心は自分がよく知ってると言いますけれど、我々の中で知って

いるように思うのは、それは感情なんでしてね。肉体人間の中の我の

一番上の部分、氷山の一番見えてる部分しか分からない。心というものは、

ずーっと奥に行きますと本来心があって、本来心の奥は宇宙につながって、

宇宙の奥は神様につながってる訳なんです。非常に距離が遠いように思う

けれども、キリストが言いますね、「汝らの内に神あり」と。あれと

一緒で、人間の奥の奥には神様と同じ生命の流れがあるから、自分の中の

神様と話をしようと思ったら、自然に祈りに入っていけば神様の声が

聴こえるというか、神様がこう望んでいらっしゃるんだな、人間の生命

というのはこう進んで行くもんなんだな、あるいは、世の中の運行という

ものは本当の意味では公平なんだなということが分かって来るんですね。

 あるいは、もっとはっきり言ってしまえば、奥の体というものがそれは

もう分かってる訳なんです。


 ですけれども、我々何十年か生きてまいりまして、やっぱり、

それなりの社会的な地位だとか今の立場だとか、結婚してるとか結婚して

ないとか、色んな此の世的なとらわれがあります。こだわりもあります。

 そのとらわれとかこだわりを無理にとってですね、そうして、じゃあ皆

同じ様に宗教の道へ入れといったって、それは無理な話だから、その

こだわりはこだわりとしてそれを一見大事にしながら、本当に子供

みたいに祈っていくと、道というのは開けていくものなんですね。


 だから、目の前の表面的な現われてきた環境だけに把われていると、

本当のことというのは分かりにくい。そして、その奥のことというのは

本当に人間には分からない色々なものがある訳なんです。

 例えば、生死にしましても、何十年も健康でやっていけるだろうと

思った人が、ポックリ心臓で死んでしまったりとかですね、こんなに一杯

病気持ってる人がという人が、何十年も生きちゃったり、そういうことも

ある訳です。

 だけれども、それは神様の側から見ていれば、本当に大宇宙の中の

大きな流れの中の一滴として、人間の生命を器を使う。公平に使うという

ことが大大大奥にはある訳ですけれども、そこまでいかなくてもね、

祈りの階段を一歩づつ登るというのは、取り敢えず今の私をそのまま

正直に神様の前にさらけ出して、そして、「すいませんお願いします」と

言ってお祈りをする、続けていく。そうすると、いつの間にか平静に

なって、心が平和になって静かになって、自分で力むのでもなく、

まわりから色々な援助が来たり、あるいは、人の為に祈る気持ちが

起ったり、親切にする気持ちが起ったり、われしらず喜んだりする訳

なんですよね。


 心というものは放ったらかしておくと、本当に喜びたがるもの

なんですね。それに、この世の色んな枠なんかで、我々が色メガネで

世間というものをみて、自分の心というものを見てしまいますと、それは

もう我の世界と同じ様に見えてしまう。そうではなくて、心というのは

神様と繋がっているものですから。

 そういう心を我々はいただいて、そして平和に生きるようになってる

ものなんですから、平和にならないという方が、本当は原則から言えば、

普通ではないおかしいんです。

 ですから、本当は私の心は元々平和なんだなと思って、今の不安なり

不満なりをこちらに預けて下さったら、こちらの方でちゃんと浄めて

光を送って、そして、後で考えてみたら、あああそこで迷って悩んで

立ち止まって、お金は失くなったけど、あそこで宝を貰ったなあ、とか

ということが五年たったり十年たったりすると分かるようになる。

 そこまで連れていくのが私の仕事なんでして。喜びそうな事言って

五井先生は連れていくというけれども。


 そうじゃない。やっぱりこの世の中に生きることというのは、非常に

辛いことが多い訳です。その中で、世界人類が平和でありますようにと

言ったってですね、自分の気持ちが平和にならなければ、とてもじゃない

けれどやりきれない訳ね。人の為に祈るなんて、そんな気持ちになれない

人がこの世の中に一杯いる訳なんですよね。そういう時には、祈れと

言ったって祈れませんから、すいません私は今祈れませんよろしくお願い

しますと、もうとに角預けなさい。銀行じゃないけど、預けて預け

きったら、そこでふっと何だか訳の分からない道が開けてくる、と

いう風に私は言う訳なんです。その時に、預け切ってしまいますと、必ず

自分の生命の奥にある愛念というものがふーっと静かに昇ってきましてね、

誰を愛するとかいう理屈じゃなくって、何か心を一滴平和にする様な

ものがポッとおきる訳です。そこで、ああそうだ、それじゃあもう任せて

しまおうという気持ちになる。

 法然さんとか親鸞さんはそういう気持ちになって南無阿弥陀仏を

唱えたし、キリストというのはそういう気持ちになって神様を説いた。

 我々だって、そういう気持ちになって祈りを続けていけば、やって

いけないことはないんです。


 自分がやると思うからとっても大変なんですね。自分は何にも出来ない

です。自分の生命も何もかもこれは借りものなんですから、いただいてる

ものなんですから、自分のものというのは体の中に一本もない訳ですね。

 足の一本も造って生れて来た訳じゃない。全部神様からいただいてる

ものです。それで、私はこういう風に生きたいんですとこちらで自分の

人生を設計して、そうして、どうでしょうかと見取図を出す。そうすると、

神様の方で見て、ああここはちょっと道が曲がってるよなんていうことに

なると、ある計画がストップになったりですね、こっちで折角何か

しようと思ってるのにうまくいかなかったり、そういう形で現われてくる

かもしれないけれど、それは向こうの方が危ないと思ってるから

ストップをかけてる、というのが私には分かる訳ですね。

 ですから、個々色んな場合に色んな背景があるとは思いますが、それを

ひっくるめて、とに角祈って祈って祈り抜いて行く。祈ること即ち行

なんです。行というものは光に繋がる訳ですね。


 とに角何でもかまいません。べつに、世界人類が平和でありますように

でなくとも構わないんです。何にも宗教を信じていない人でも、太陽を

拝んで、ああ今日も一日ありがとうございましたと言ったら、その時

その人は光明になっているんです。

 そのように人間というのは赤ん坊みたいに、無邪気に明るく生きて

いければいい訳なんです。ただ私は、その立場立場のその方達の心の

本心を開くお手伝いをする。それが五井昌久の天命ですから、そういう

事を白光の方々も心がけて、そうして、ただ五井先生を拡めるとか、

これが一番いいお祈りですよとかいうのではなくて、その人の世界の

言葉でしゃべる。その人の世界の言葉でこちらから語りかけて、そうして、

頑なになってる心であればそれを抱くようにする。その時には私もそばに

居ますから。


 決して自分がするというのではなく、何か大きな神様の愛があって、

その大きな神様の愛によって我々は生きているんだということを、

しっかりそこだけを間違わないで、そうして、お浄めでも何でもさせて

いただく様になればですね、その人自身の余分なものは離れていくし、

それから、自分自身も浄まっていく訳ですね。

 そうして、この世の中の生活というものも大事ですから、その生活の

中で出来る時に祈って行けば、いつの間にか、そうだあの人と喧嘩をして

いたっけという様な、そういう心になっていく訳なんです。


 それは今、平和にしよう平和にしようと思っても出来ない。出来ない

けれども、努めていくとね、何も努力しないでいいというんじゃない、

努力をしていくと、そういう風に余分なものを取っ払って下さるのです。

 その取っ払いの役が色々あるんですよ。守護霊さんとか守護神さんとか

私とか、色々あるんですよということを、世界人類が平和で

ありますようにという何の把われもない言葉の中に全部込めて、

語り込んである。祈り込んである訳なんです。だから、あれを祈ると心は

確かに平和になる訳です。

           (つづく)


 







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