わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

続 さやけき生命

2011-09-30 10:41:28 | 癒し
 引っ掛(かか)らず生きてゆくという
ことは非常にむつかしいんですね。何も
うまくゆかないとか、どうしたらうまく
ゆくだろうとか、そういうことばかり
考えるように人間というのは出来てる。
 というか、そういう思いの習慣で来て
しまっている。そうですね。ところが、
神様の世界の中では、うまくゆくも
ゆかないも、ちゃんともう備わっていて、
そのままゆくようになっているんですよ。
 人間の方が、あれやこれや思い悩んで、
奥のものを見るということがだんだん
なくなって来てる。

 そういう習慣をつけるということが、
昔はあったんだけれど、今は少なくなって
来た。そういうことで、なんかこう静か心
というものが無くなって来た。静かに
自分の裡(うち)を省(かえり)みるとか、
自分という存在は何だろうというような
ことを見つめることが、少なくなって
来てるんですね。ところが、そういう
ことが、人間の生命を養うんです。つまり、
祈りというものが人間の生命を養ってゆく。
静かに自分を省みて、静かに目を閉じてみる。
 そういう時間が本当は自分を養ってゆく。

 ところが今世の中はせわしくなっていて、
セカセカ動いている。セカセカ動かないと、
自分が置いて行かれるようなスピードで
皆んなが動いているものだから、自分も
動かないと置いて行かれると感じる。その
繰り返しで、追い付け追い越せですよね。
 ところが、神様の世界というのは、何も
しなくても必要なものは全部与えてもらえる。
 その代わりに何が一番必要かというと、
神様に向かって素直に神様よろしくお願い
しますという心、それが一番必要なことに
なる訳です。
             (翌日に続く)

さやけき生命(続き 10)

2011-09-29 10:45:38 | 癒し
    (前日からの続き)

 しかし、人間がスーパーマンで、何でも
出来て、それで人間万才(ばんざい)に
終わってしまったら、本当の科学でも
ないし、本当の宗教でもない。本当の宗教
というのは、神様への謙虚な畏(おそ)れを
もった祈り心というものを基盤にして
やっていかなきゃいけない。地位を争う
とか、自分の立場や偉大さを顕示するとか、
そんなものはないんですよ。本当は、光と
光が口を利(き)いてるだけなんです。人間
というのはそういうものなんです。

 そこで、相手に腹立つことも我だし、
それに腹立つ相手も我ですよね。肉体の
思いぐせで色々と出てく感情想念、これらは
消えてゆく姿だと思って、人間の真実の姿に
近づいてゆく。そのために日々を
祈りましょうと申し上げてるわけです。

        「さやけき生命」前半 了

さやけき生命(続き 9)

2011-09-28 12:56:49 | 癒し
      (前日からの続き)

 “永久(とわ)なる生命、祈りて行かん
世界平和”でしょう。つまり、自分が自分が
で行くと、力んで自分が頑張ってやろうと
すると、そこで限られてしまうんです。自分
の限界だとかね。この世の生命が70年
80年だろうと、人間の本当の生命
というのは、これはもうずっとあるん
ですから。永久なる生命につながるも
つながらないも、我々はずっとつながって
いるんですからね。そのことを思いながら
生きて行くとすれば、自分のなかにある光、
神様から来るみ光、それを自分の生命として
宣り出して、世界平和の祈りを祈り、神様
ありがとうございますと言える。そういう
信仰を深くもつことですね。

 しかし、信仰も力まなくていいんです。
 自分でやろうとか、頑張って自分が
やらねばとか、そうなると不自由になるん
ですね。信仰、宗教というのは、自分を
不自由にさせるものではないのです。自分が
自由になる為のものです。自分が自由自在に
動ける為のものですよね。人間は本来
自由自在なんだからね。神様に守られて
支えられて、何でも出来る存在なんだからね。
 我々が五感に感じているこの私自身は、
ほんの一部の働きでしかないんです。あとは
氷山のように隠れているんですが、今、少し
ずつ皆んなが知らされて来ていて、科学の
力でも知らされて来る。もう少し経つと、
宇宙子科学など結果が現れて来て、色んな
ことが出来て行く。知らされてくる。そういう
時代になるでしょう。
              (翌日に続く)

さやけき生命(続き 8)

2011-09-27 09:57:25 | 癒し
     (前日からの続き)

 それだけの話ではなくて、神様、今
一生懸命乗り越えています、乗り越えよう
としています。つまり、持ち場で一生懸命
やっていますという時には、やっぱり光が
入って、そこから確実に、神様というのは、
よしこれでいいと思えば、ちゃんと卒業
させて下すって次の場所に行く。ところが
そこで迷うと、そのぶんだけ遅れてしまう。
 そこへしがみつくことになるから遅れて
しまう。もうどうでもいいです、どうにでも
して下さい、と皆んな言うんですが、どう
にでもして下さいと言うのは、ヤケで
言っちゃ駄目。気持ちを開いて言わなきゃ
だめね。ヤケだというのは自分がまだ残って
いるからヤケになる。神様と一緒になれば、
ヤケも何も無いんですよ。神様が動くの
だから、神様が働くのだから、多少どこかが
痛かろうが苦しかろうが、神様がさせるの
だったら文句は言えない。そういうもの
なんです、人間というのはね。

 神様というのは、母親であり父親であり、
親なんですね。親がピタッと寄り添っていて、
それで世界平和の祈りの中に神様が詰まって
いて、神づまりの人間がこっちにもいてね。
 我々一人一人の中に神様が詰まっていて、
小宇宙と大宇宙が握手して合体している。
 そういうことが本当に思えた時に、人間は
一段階も二段階も上がるんです。

 だから、力んじゃだめ、気負っちゃだめ。
 自分でやれることなんてたかが知れている。
 自分が負わなきゃならないものなんて、
たかが知れている。どんな地位にある人
であっても、その地位をもって、お金を
もって死ねるわけじゃないから、そんなもの
持って霊界には行けないんですよ。裸で
生まれて裸で死ぬ。その時に、神様の愛
だけをもって向こうへ行けばいい。それ
だけをもって行けば、ものすごく楽ですよ、
ということを私は教えて来たんですね。

          (翌日に続く)

さやけき生命(続き 7)

2011-09-26 12:30:51 | 癒し
     (前日からの続き)

 自分が生きているんじゃないんです。
 我々は生かされているんです。そのことを
皆んなが忘れてしまう。すべてが神様の器
であって、もう神様に預けてしまえば、
そこから、その人の個性を使って、声を
使って身体(からだ)を使ってね、その人の
それなりの働きが、神様から、お前これを
やれ、あなたこれをやって下さいというのが
出て来るわけですよ。だけど、自分なんか
どうも働きがうまく出来ないとか、うまく
印が組めないからどうしようとかで焦る。
 焦るのは自分がやろうと思うから焦るのね。
 自分というのを消していく。自分という
ものが消えていった時に、ただあるものは
神様の光だけが残る。我々は光なんだから、
光というのは自在なんだから、自由
なんだから、その自由な生命のままに
動いてゆけば、何事も出来るんです。神様が
なさしめて下さるわけですね。

 ですから、私がやろうと思ってはいけない。
 私が責任を負おうなんて思わなくて
いいんです。そんなものは神様の方で、五井
昌久という人間を通してなされる。「お前、
人類の業を背負え」と言われて、私が
負ったんですから。もう歯をくいしばって、
目をむいて、そういうことをやる必要は一切
ない。四次元の光も降りたんだから。まだ
追いかけて、業を背負うなんてことは
しなくていい。ただ、その人が受け持た
なきゃいけない宿題というものはありますよ。
 固有に消してゆかなければいけないものが
来るかもしれない。痛みとして来るかも
知れない。あるいは、生活不安として来る
かも知れない。しかしそれは、あなたが
あなたの借金払いをしているんですよね。

            (翌日へ続く)