わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

前世との関わりで 子どもが授かるか否か(11)

2021-11-30 10:35:58 | 癒し
     (前日からの続き)
ついでに言うと、その祈りの中で、過去世の
誤まてる想念がとありましょ。
あの消えてゆく姿というのも、我々の方から
言いますとね、深いところを一つ言うとね、
この現われの今あなた方が生きてる世界の中で、
いろんな現実的な悩みや苦をとる、軽く
していく消していく消えてゆく姿も
あるけれども、その現われが前生の念で
現象界に出てきたとするならば、その過去世に
さかのぼって、その念も消していくというのが
あるんですよ。
だから、人間の生命の本体のね、本心の
洗い浄めといいますかね、掃除といいましょう
かね。
ずっとさかのぼって、何十世代何百世代にも
わたる、何十代何百代にもわたる生き通しの
生命の掃除をする訳です。
それぞれのですよ。
それが神様の愛なんですよ。
もちろん、今の生活が安楽である方がいいし、
平和である方がいいし、皆と仲良く出来る方が
いいに決まってます。
ね、だけども、神様の愛というのは、その
毎日の積み重ねも大事に思って下さるけれども、
それを通して、遠い将来ね、我々が死んでまた
生き返って、その時には今のような記憶は
ないかも分からないけれども、その遠い遠い
ところにまで、遙か彼方にまでつながっていく
連らなっていく永遠の生命というものに対する、
永世というものに対する祝福と喜びと、
魂の浄めと、そういうものを神様が下さるん
ですよね。
そういう神様の愛なんです。

だから、子どもが出来る出来ないと
いうのはね、前生で想い込んだから、
子どもは絶対に出てこないかというと、
そうじゃない。
ある選ばれた特定の人だけがね、真実
私は子どもの苦労はけっこうです、
もうこれ以上すると肉体がバラバラに
なりそうです。
だけども、他のことならばどんなことでも
致しますと。
肉体がそう叫ばなくったって、霊体の方で
そう悟っちゃって、神様の方に訴えて
駆け込んで、駆け込み寺みたいに駆け込んで、
守護霊さんと守護神さんが神界でお願いした
としたら、やっぱり、そういう一生をその次の
生で送らせて下さるかも分からない。
だけども、先程も申しましたように、じゃあ
その人の生命がずっと連らなって、何生も
未来永劫子供が持てないかというとそうでは
ないんです。
やっぱり持ててゆく。

子どもだけではない、人類というものの生命の
根っこを見つめていく時に、光そのものに
なっていく、我々のその生命の根元なんだ
ということまで悟った時にですね、念の世界
ではない、祈りの世界になっていって、自分の
心の内を浄める。
そうして、その想いがまわりを浄めていく。
その事が一番、世界平和の中で大事になって
いくし、自分の持ち場持ち場でそんな大きな
こと思わなくったって、自分の明るい運命
といいますか、明るいこの生命を呼ぶ為の
ものになっていく訳なんです。
呼ばなきゃ駄目なんですよ。
そして、信じなきゃ駄目なんです。
任せなきゃ駄目なんです。
             (つづく)

前世との関わりで 子どもが授かるか否か(10)

2021-11-29 07:46:16 | 癒し
      (前日からの続き)
で結局ね、いろんな所へ話がいってる
ようですが、つまり、そういう苦という
ものが、やっぱり神様を語る時にはなきゃあ、
そして、神様の愛をいろいろな人に
しみ渡らせる為には、とってもじゃないけど、
やはり説得力がなくなるという話でしたね。
しかし、それだけの為に苦を味わうのか
といったら、そうじゃない。
その人の魂が光り輝いていく為、その人の
本心が輝いていく為にもちろんそれは
あるんですけれどもね。

だから、子どもが出来る出来ないという問題
にしたって、もう子どもは要らないから
次には絶対中絶しても子どもをつくらない
ようにすると。
例えばずっと念じたとしますよ。
念じたとしたら、さっきの、この人の子どもを
産みたくないという話じゃないけれども、
やっぱりその念というものが次の世界の中に
現われてきて、それは業ですけどね。
そうして、くり返しになるけれども、そこで
人間の生命のことを考える、いろいろな
ことを考えさせられる訳なんです。

さっき私は念と申しましたけど、
前生で想い込んだ念が通って、仮りに現れて
きたとする。
ところが、守護霊さんとか守護神さんとかは、
とても公平なのでね。
何が公平かというと、そういう念すらもね、
やはり利用するんです。
何に利用するかというと、何によって
人間が生きてるのか生かされているのか。
我々の生命が何処から来たのか。
我々は何処へ連れていかれるのか。
ね、どうしたって、神様というのは
悪くしっこないんです。
ね、最後には明るい所へ絶対連れていく
訳なのね。

ところが、いろいろなことがあって、
今苦しい所にいるとか、悲しい所にいるとか、
いろいろなことがあるんですがね。
その時に、自分の想いの切り換えをする。
皆が離れたいと思いながら、その苦の中に
業の中に枠をつくって、その中へ
入り込むんじゃなくって、あ、これは
消えてゆく姿なんだなということを想って、
ありがとうございますと言えなくても
かまいません。
五井先生と呼んで下すったらいいんです。
そこで、世界人類が平和でありますように
と出来なくてもかまわない。
出来る人はしてもいいけどね。
そういう風にして呼んで下さればいいんです。
           (つづく)

前世との関わりで 子どもが授かるか否か(9)

2021-11-28 18:22:28 | 癒し
      (前日からの続き)
苦というのはやっぱり離れていかなきゃ
いけないです。
苦は引き寄せちゃあいけないですよ。
業も引き寄せちゃあいけないんですよ。
非常に難かしいけれどもね。
例えば、杖の話をしましょうか。
杖というのは、足を悪くした人なんか
良く分かると思いますけど。
坂道や自動車なんか来る時あぶないですよね。
そのあぶないという時に皆杖に
すがっちゃうんですよ。
すがると全体重をかけちゃって、それで余計に
転んで怪我してあぶなくなっちゃう。
左足が悪かったのに、余計に右足も悪くした
なんて話を聞きますけど。
これは何かというと、あぶないと思ったら、
その苦しみの渦からすっと逃げちゃえば
いいんです。
柔道じゃないけど、あっとその杖をはなして、
その苦しみを離れて、後ろ向きに
ひっくり返って、ちょっと離れりゃあ
いいんです。
離れたら苦というのは、すっと抜いて、
そこへさっと光がさすんですよ。
こっちも光をむこうへ差し出しやすいんです。
ところがその時に、あっと想って、その杖に
しがみついちゃうでしょ。
だから、苦をふっと引き寄せるのと一緒でね。

離れたい離れたいと思いながら、皆さん
観ていると、人間というのは離れたいという
想いは強いのに、体の方は心の方は苦の方に
引き寄せられてしまっていて、業の中へ
波の中へ自分を引き寄せていってしまってる。
それが観える。
だから、離れたいと思いながら離れられない
というのは、これは人間の習性ですから。
私は責めてるんじゃないんです。
そういう想いがあるというのは分かる。
それが習慣になってるというのは分かる。
その習慣というのは、ずっと続けてゆけば
それは業を引き寄せるんです。
それは、一回は想って、二回目はパッと
切り換えてね。
そして、それを光の想いに変えていく。
それには何をすればいいかというと、それは
祈らなきゃ駄目です。
祈って祈ってね、この辛いなら辛い、
苦しいなら苦しいでかまいませんから、
五井先生何とかして下さい、何とかしろ
でもかまいません。
だからその時に、五井先生すいません、
離れたいと思いますのでよろしくお願い
しますと。
すっと何か、ある空間をね、真空の想いを
パッとそこへつくってくれたら、
こっちだってさっと光を差し入れられるんです。
          (つづく)

前世との関わりで 子どもが授かるか否か(8)

2021-11-27 10:18:02 | 癒し
     (前日からの続き)
私はいろいろ神様のことをやさしく説く
というのは、そのやさしくというのはね、話を
難かしくすることは幾らでも出来るんです。
だけど、子どもからね、70 80 90になる
おじいちゃんおばあちゃんまで、皆悲しみも
苦しみも喜びも持ってますよ。
そういう心を持ってる人たちに神様の話を
する時に、神様の愛について語る時に、
こちらのそういう心の糧になるようなね、
苦しみなどの財産の一つや二つは、やっぱり
なきゃうそなんですよ。

だからね、この世の中から、平和の祈りを
していれば苦しみがなくなってゆく筈なのに、
業は消えてゆく筈なのに、業というものは
消えていかない。
何故なんだろう。
業というのは人間がつくるんです。
業というのは神様がつくるんじゃない。
業というのは、この肉体をかぶって
生きざるを得ない、この地球世界で
生きざるを得ない肉体人間のね、痛みや辛さや
いろいろな想いですよね、そういうものから
離れたいと思って、把われないでおこうと
思いながら、つい深みにはまっちゃって、
苦しいから助けてという想いで神様を
呼んだりする。
それが呼べば呼ぶ程、何か絡まっちゃって、
どうにもならなくなっている。
こっちから観ていると、みんな離れよう
離れようと思いながら神様を呼ぶんだけれども、
その苦の中に座り込んで、へたり込んでね、
はまり込んで、何か自分からその苦の中へ
入ってゆくような、離れたいと思いながら実は
しがみついてるような姿が、こっちから観ると
みえるんですよ。

そうではないんです。
           (つづく)

前世との関わりで 子どもが授かるか否か(7)

2021-11-26 06:41:44 | 癒し
     (前日からの続き)
と同時にですね、この人間が生きていく
ということの中には、様々な苦しみが
伴なってく訳ですよ。
例えば、仕事にしろ家庭生活にしろ、
結婚生活にしろすべてのことについて、
悩み苦しみがある訳なんですよね。
つまり、私がさっき申しましたように、
何故人類を根絶やしに出来ないか
といったら、神様の光の生命だから。
それは事実根絶やしになりようがないし、
またそれはしちゃあいけないんです。
でも、それは大目的だけれども、例えば、
私たちが神様のことを語る時に、神様
というのは愛ですよという時にですね、
何も苦労もしない人が、何の挫折も悩みも
味わって来ない人が、神様は愛ですよ
と言ったって、説得力がありますか。
説得力ありませんよ。
何にもありませんよ。
例えば、ここに十人、人がいると
しましょうかね。
十人いるとして、仕事がなくなって
明日からどうやって食べて行こうか、
明日のお米を買うお金も無いというところまで、
追いつめられた人がいるとしますよ。
で、それを迎える神様のことを語る人が、
順境で育って来てね、物質も愛情も一杯受けて
育って来たその人が、そんなこと言ったって、
神様は愛ですと言ったって、説得力が無いこと
おびただしいじゃありませんか。

だから、神様の愛というのは、人間の我々
一人一人の、人類一人一人の個性、性格、
良い所とか悪い所とかね、どういう所で
苦しんで、どういう生き方を送って、今何が
この人の悲しみなのかというのは、皆知ってる
訳なんです。
知っていて、それで抱きしめてね、
今あなたがこれを欲しがってるのはよく
分かっている、だけど今はあげられない
けれどもといって、泣きながら光を
送っている。
それが神様の愛なんですね。
だから、そういう神様の愛というのは生半の
もんじゃなくてね。
その生半でない神様の愛を伝える、
少なくとも言葉にして伝える時には、
何かその人の人生の中でね、離婚なり別れ、
お金が無いことだとか、子どもを失なった
とかね、死別の悲しみとか、いろいろな
この世の中の苦というものをいくつかですよ、
無いにこしたことはないけれどもね、
個人的に言えば、だけど神様の愛を語る時には、
やはり何か一つか二つかこの人生の山を越えて
谷を越えて、そうして、自分も塗炭の苦しみを
味わってね、もうこんな神様なんかあるかしら
という所から這い上がってきて、それで尚かつ
唇から出てきた言葉が、それが神様という言葉
だったと。
ね、やっぱり神様、私はあなたが忘れられ
ませんと。
そういう経験をした人が神様を語る時にはね、
やはり説得力があるんです。
ただ単に、ここにこう書いてあります。
白光のテキストにこう書いてありますから。
それじゃあどうにもなりません。
テキストというのはやっぱりテキストなんです。
         (つづく)