わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

無 題

2010-08-31 11:23:50 | 癒し
自己本位

という言葉があります

人間はいざとなったら

自分を助けることだけで精いっぱいだ

というんですね

なるほど

この世に生きて

毎日毎日時間に追われ

自分の心がどこにあるか

それさえ見失ってしまう

肉体人間の世界では

そうかも知れない


しかし

私がここでいう人間は

そんなちゃちなものじゃないんです

死んだらおしまい

なんていうはかないものじゃないんです

自分をしるっていいますけどね

第一自己ってものを

どこまでみなさん突きつめて

毎日生活してますか

自己、自分、私

わたくし自身

このわたくしというものが

何処からきて

何処へ行くのか

というのは

昔々からの大問題ですよね


それは

人が

己れの存在とかいのちについて

考えはじめたときから

ずっとついてまわった問題でしょ

今もそうですよね

自分が何処からきて何処へ帰るんだろう

って

ずっと考えますよね


そこで我々は

我々の肉体というものと

死というものに

ぶちあたらないではいられないのです

死というものを考えたときに

はたと

自分のおもいがとまってしまう

とめられてしまうんですね

なぜか

それは

自分というものが

死をむかえた時点で

この世から消えてゆかなくてはならない

という何とも知れないこわさに

ぶちあたるからなんです

自分という人間が消える

いなくなる

これは恐怖ですよね

何ともいえない気持ちになる


それで永遠なるものを求めて

神とか仏とかをみんな呼び求めるわけです



何でこういう気持ちになるか

というと

肉体を自分自身だ

すなわち

自分自身だと思いまちがいをしている

ところから起こってるんですね


実は

肉体というのは

狭いせまい箱なんです

もっと自由自在な自分

というものは

肉体のもっと奥の奥にあるんです

私がいつも申しますように

人間には霊妙な身体が

いくつもいくつもかさなっているんです

人が

現在この地上で生きるために

まとっているのが肉体だということで

あってですね

たまたま、五感でとらえられるのが肉体だ

というだけの話なんです


こんな風にいうと

先生はこの世の生活を軽くみているんじゃあ

ないか

とおもう人も出てきそうだけども

そうではなくってね、そりゃあこの世に

生きてる間、肉体を軽蔑しちゃあ駄目ですよ

何ったってやっぱり地上にいる間は大事に

しなきゃね

それで生きてるんですから


ただ私がいいたいのは

肉体だけが人間で、肉体がある間だけが

人間のいのちじゃないっていうんです

もしそうだったら

神も仏も大自然もこの宇宙も

もろもろのいのちの営みは

とても狭くるしいもろいものになって

しまう

だけどそんなものじゃないんです


真実の人間というのは

この地上にいて、神霊幽界に同時に

存在してるんです

そしてつねに祈っている

光を放っている

神からくる光をながしている

そういうすごい存在なんです


ずっとつらぬいて生きるいのち

なんですね

つまり

我々は神からわかれてきたいのちであり

霊なんです

もとはそうなんです

だから

人間というものを本当に突きつめてゆくと

虚無になるんじゃなくて

自由自在、無碍になるんです


何しろ大元の大愛までさかのぼるんですから

大変なものなんです

こういうことがわかると

もうずっと安心して

世界平和の祈りと消えてゆく姿でね

五井先生の口笛と

柏手にのって

自分自身をつねに祈らせて下さい

役立たせて下さい

と祈ってゆくと

どんどん

自分自身が大きくなって

朗らかになって

守護霊

守護神の守りのもとに

大きく深い働きが

出来てゆくようになるんです


よろしゅうございますか

それではどうもありがとうございました





祈るということは

2010-08-30 11:15:49 | 癒し
祈るということは

大いなる生命に

すべてをゆだねる

ということです


祈りに入ったとき

人は光明につつまれます

奥の奥のすきとおった本心の光と

天界の霊人

守護霊守護神とが

ともに

大愛の

まばゆい

円光から

光をながし

光を受け

それらが

交叉しつづけるのです


そのとき人は

何も

気付いてはいません

ただ祈りが深ければ

深いほど

その心は

波のようにしずかに

おだやかになり

おのずから

光明が

辺りを照らすのです


かがやいているとか

いないとか

そんなことは

一向かまわずに

ひたすら

世界平和の祈りのなかに入って

ゆきますと

ただもう

気持ちがよくなって

丁度日向ぼっこをしながら

いねむりをするように

スーっと気持ちがよくなります


眠りに入るとき

そして

寝入ったとき

人は

無防備です

何のおそれも

かなしみも

その上をおそいません

ゆだね切った姿が

そこにはあります


そのように

深い祈りは

何も思わず

何も考えず

母の胸に抱かれるように

ふんわりと気持ちのよい

ものなのです


電車のなかで

祈りながら眠ってしまう

というのはもっとも深い

統一のひとつでしょう

自分も人もなく

ただふんわりと任せている

そうすると

おのずから

光が放たれ

光が流れてきて

光につつまれた人を

みることになるのです

意識する

しないにかかわらず

人は

こういう存在です


本心の光を

明るく照らして

祈っている

それが人間なのです

人間の真実の

姿なのです


からだじゅうで祈っている

2010-08-29 15:32:00 | 癒し
からだじゅうで

祈っている

これが

人間の

本来の姿なのです


どんな時にも

祈っている

私は

その

すがたを知っています

なぜなら

祈りこそ

人間のいのちだから


空や海や

大自然への

あこがれを

私達は心に描き

口にします


画家は

キャンバスにむかって

自然のすがた



写しとり

音楽家は

彼にひびいてきた

大自然の

交響曲を

楽譜にする


みな

彼らの

心耳

心眼に

ひびいて

きたもの

うつし出されたものを

かきとっているのです


それは

我知らず

深い祈り心となった

彼らの

自由な眼が

こころが

神のひびきを

感じとったのです


彼らが

絵筆を走らせ

楽譜に向かう時

彼らは

祈っているのです

永遠者に向かって

語りかけているのです

彼らばかりではありません

我々が

日常のなかで

ひたすらに何かに打ち込む時

無になっている瞬間

我々自身も

深く祈っているのです


祈りは

神への道

真理へ到る道

真実の自由な自分自身との

出会い

そのものです


人は

祈らずにはいられないのです

丁度

息をしないでは

生きていられないように

祈らずには

この霊のからだが

うえかわくのです

自分でも

気付かないうちに

祈りを

ささげている

それが人間です


神様の

大愛を

よろこび

人を愛することを

よろこぶ

そのために

絶え間なく

祈っているのです


宇宙神からの

光を受けて

この肉体を

光のおもいで

いっぱいにし

世界人類が平和でありますように

と祈る時

あなたは

光となって

世界人類のなかに

とけ込み

愛を

植えて

ゆくのです


祈りを天に

到らせて

朗らかな

光となって

いきましょう


無 題

2010-08-28 12:14:50 | 癒し
どんなに

みじかい

言葉であっても

まごころのこもった

言葉は

光っている



誠実に

誠実に

人に

神に



私は

自分の

本体をみたときから

怒りというものを

忘れてしまったよ



やさしく

やさしく

やさしくあれ



私たちは

神という銀行に

永遠の

いきとおしの

いのちを

あずけてるんだ

そこに

光というものを

貯金して

そして

朗らかな

自分の天命へと

歩いてゆくんだ



祈りなさい

そのままでいいから

祈りなさい



飾らなくていいんだ

飾る必要はないよ



五井先生は元気だよ

ここにいるよ



みんな歩き方はちがっても

気にすることはない

私が

その人の歩幅に合わせて

一緒に

歩いているから



みんな一緒に

神様の

光のなかに

帰ってゆきましょう



必要だね

必要だね

だけどここに

五井先生がいるよ




































































































ひかるいのち

2010-08-27 11:57:03 | 癒し
 人間の生き方、生かされ方とは、実にさまざまであります。

 私どもが、外からみておりまして、あああんなに辛い苦しい

ことばかり続いたら、さぞかし大変だろうと思っておりま

しても、或る時、その辛がり、苦しがる筈の人のあたたかい

ほほえみや、澄んだ眼に出会って、どきっとすることが

あります。


 人間の貧しい想像と申しますか、イメージのなかで、

私どもは、その人の「心」をもわかったつもりになって、或る

種の色眼鏡でその人をみているのでありますが、当の御本人は、

そうしたまわりの勝手な思い込みには関係なく、その人の真実の

相をみせてくれているということが、できるのであります。


 こういう人に出会いますと、私達が、真実に生きる、

生かされるとはどういうことかと、自分の心をたずねている

自分に気付くのでありますが、はっきり申し上げられますことは、

生かされ方は、全くみごとに神様の愛によってさまざまであると

いうことであります。

 私どもの貧しい予測を超えたところで、人間の心が澄み清まり、

生き生きしている、生き生きする瞬間を味わって、自分を愛し、

人を愛する方向へみちびかれるという事実の前に、私どもは

深く頭をたれるのであります。


 一切宗教というものを知らない、どこの信者でもない。けれども、

私どもからみますと、まっすぐに本心の光をかがやかせて、

いのちの光のながれくるままに生きている尊い人々が、多く存在

されているのであります。

 これは、当然のことでありまして、誰もが神様の分霊、分生命

としての光の子なのでありますから、その人が、この現世で、宗教

というものにつながろうとつながるまいと、神様の方で、その人を

とおして、光をかがやかしておられるのであります。


 私は、こういう人に出会う度に合掌し、礼拝し、祈りを深めて

ゆくこと、自らをかえりみて、愛深い人間であることを、こころ

あらたに願い祈って参るのであります。

 そうして神様の御愛の深さ、御計画の深さをことほぐので

あります。