わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

神の子について(5)

2023-03-31 10:29:56 | 癒し
      (前日からの続き)
私は、天の私と地の私と合体した時にと
よくいいましたけれど、本当の自分自身
というものを見たら、これはもう安心する
より他しようがないんです。
輝いてるから。
皆輝いてますよ。
輝いてますよといって皆にそれを見せて
あげたいけれども、まだそこまで時が来て
なかったから。
カラッポになってニコニコしてる五井先生
というものを通して、皆ここへゆけるんだな、
ここを通して神様のみ許に行けるんだな、そばに
行けるんだな、一緒なんだなということを
勉強してほしい。
そう思いましたよね。
みんな私が引き連れて引き受けて、自信が
なかったら出来ませんよ。
神の子であるというそういう自信がなきゃあ、
そんなことは喋べれない。
五井先生そんなこと言ったってと思う。
そういう想いもいっぱい受ける。
だけども、私はまちがいのない神様の愛という
ものを知ってしまってるから、その中に
いるから、それは皆が行ける場所だから、
だから、自信をもって、皆の中に神様の流れが
入ってるんだよ、皆一人一人が平等に
神様の子どもなんだよ、あなた方は光なんだよ、
ということをずっと言ってきたし、今も
言ってるし、これからも言っていくんですけどね。

でも、私がというのを消したら気持ちが
いいんですよ。
もう大安心ですねえ。
神様しか残らないでしょ。
もう委ねちゃったら、何と言ったらいいかしら、
非常に生き生きしてくるのね。
自分が疲れていても、別の体力がふっと
ちがう所から出てくるんです。
私がお浄めしますでしょ、してましたね。
ああいうお浄めでも、我とか業とかいっぱい
来るんだから、肉体人間だったらとっくに私は
死んでますよね。
あの時に私はそこにいないんですよ。
あの時神様の心の中にすっと入っちゃってるから。
だから、私がやってるお浄めじゃないでしょ。
神様の神界の流れの方から流れてくる光ですよね。
そりゃあ肉体人間ですからね、叩きながら
痛みが来ますよね、想いも来ます、寄って
来ます。
でもそれを上まわって倍して、神様が私たちを愛して
下さるということを思ってるから恐くも何ともない。
痛みなんて何でもないですよ。
痛みというのは、私は皆さんからのプレゼントだと
思ってるね。
だからね、晩年にいろいろ痛んで痛んで、自分の
奥さんだけには本当に、痛いよ痛いよと言いましたけどさ、
まあ声あげなきゃしょうがなかったけども、でも痛いから
恨むということじゃないですね。
それよりもっと深いところで、私が神様に愛して
いただいてる。
で、皆さんも神様に愛してもらってる同じ生命だ
ということが分かってるから、恨みっこないですよ。
痛みなんてものはね、受けてしまってそれを浄めて
ゆけば、上がっていってね、光になっちゃうんです。
業というものもそうなんですね。

ただ、人間というのは、肉体というものといっしょに
暮らしてますからね。
狭い箱なんだけども肉体というのは。
だけど、肉体もって生きる以上は、やっぱりそれを大事に
してやらなきゃいけないというところもあるでしょ。
可愛がってやらなきゃいけないというとこありますよね。
だから、養いながら、また、そこに把われないというのもね、
非常に難しいことなんです。
私が言いましたでしょ、いいことにも悪いことにも
把われるなというのはね、それは真理なんだけど、そういう
気持ちで祈ってゆけば、私がという気持ちを向こうに
受けとってもらって、神様に受けとってもらって、そして、
ただただ神様の器になるべき光だけが入ってくる。
どういう働きが自分にできるんだろうかとか、私は
これだけしかできないとか、いろいろ自分を限定してやって
いくと、もう本当にほんの小っちゃな働きしかできないけども、
そうではなく、神様に預けてしまって何でもやらせて
いただきますと言うと、あの人がこんなことができる
かなあというようなことができますよ。
それがね神様の不思議なところ。
神様の奇跡というのは本当はそういうことですねえ。
神様の奇跡というものを、皆いやしというものに
求めるけれども、本当は、人間の中に限りのない神様の
エネルギーがあって、そのエネルギーに動かされて、喜んで、
あるいは無意識に動いていく時に、我々の生命という
ものは喜んで、深くなって、大きくなって、いつの間にか
すごいところにいたとか、いつの間にかすごい事をやらせて
いただいたとか、それこそ奇跡でしょうね。
           (つづく)

神の子について(4)

2023-03-30 07:51:11 | 癒し
      (前日からの続き)
この世に生きてる限りはやっぱりどこか
皆人生苦労しますでしょう。
また、苦労しなきゃ駄目なんだよ。
苦労しないとねえやっぱり。
すっといって良かった良かった
めでたしめでたしだと、何の深い喜びも
湧いてこないということになりましてね。
あるいは、いろいろ悩みを持って
来られたってね、その経験がなかったら
分からないということになりましてねえ。
この何とかという本の中に五井先生が
こう書いてますから、それ読んで下さい、
私は分かりませんなんてことになる。
それじゃあ困るんですよ。
確かにね、来られてどうしましょうと
言われた時に、それは五井先生と呼んで
下さるのはいいけどね、その人は五井先生
よりも、あなた方の智恵を借りたい。
まず目の前にいる生きているあなた方の
そういう言葉を通して、何かすがりたい
訳でしょ。
ところがここに書いてありますって、もう
オロオロしちゃって本持ってくる。
持って来て下すって構いません。
その本から光が出てるんだからそれで
いいんだけど、やっぱりあなた方の言葉で、
あなた方の流れで、あなた方がこうと思う
ことを自信をもって言うというところまで、
自分を高めていってはじめてね、言葉も
生きるし、光も満ちてくる。
          
それができなきゃ駄目なんです。
講師とかね、それから、お浄めをする人たちと
いうのはね、我々ずれがというのは困る。
その我々ずれを動かしてるのは神様
なんですよね。
我々ずれがと言っちゃうと、神様ずれがに
なっちゃう。
神様をね、低くみることになっちゃうんです。
しかし、そうじゃない。
やっぱり我々ずれの内容は未熟でも、一所懸命
やればね、そこへ神様の光がいく。
そして、ああ、あの人はあの先生は親身になって
私のことを考えてくれた、何だかこう生きる
勇気が湧いてきたとか、あそこへ悩みを
置いてきてよかったとか。
あとはお任せですよ。
そこのところが皆もう一つ自信がもてない。

私というものに把われたら、それはそう
なりますよ。
絶対にそうなる。
私はね、把われるものがなかったね。
おもいは神様だけでしょ。
神様がいいようにして下さるんだから、
この世の中で皆が悪いと思うことでも、
ああと思うようなことでも、あっこれは
と思ったら、やっぱりその通りにしましたよ。
それはいろんな相談が来るから、
ああいやだなと思うことありますよ。
思うけどすっとそれが短く消える。
何故かというと、私がやるんじゃないと
思うもの。
いつも言うように、私は場所だと思うのね。
だから、五井昌久個人から智恵が出るんじゃ
ないんです。
私は場所でカラッポになってて、そこへ
空海さんだの親鸞さんだの法然さんだの
キリストだの、皆降りてきて下さって、
そこで私が、その人たちに智恵の言葉を
語るんですよね。
私は語らせてもらってるんですよね。
               (つづく)

神の子について(3)

2023-03-29 11:18:29 | 癒し
      (前日からの続き)
みんな、どこどこの出身とか、何歳である
とか、経験がどうであるとかいいますね。
いいますけれども、そういうものは全然
神様は頓着しない。
みんな自分の流れから出てった子どもたち
でしょ。
みんな浄化をしてゆく役割を持ってる人
ですよね。
皆そうです。
そこをまちがうと大変です。
あの人は経験が浅いから、そんなことは
とてもできないだろうとかね。
誰が決めるんでしょうねえ、そういうことを。
そんなことは決めちゃあいけないんですよ。
流れというものがあるでしょ。
気の流れというものがね。
その気の流れというものはね、時に乱暴な
ことしますよ。
この人にやらせときゃまちがいない
というものをね、何をまかりまちがったか、
全然無神経な無責任なね、一見そう見える人に
任せて、もう会が滅茶苦茶になっちゃうとかねえ、
仕事が滅茶苦茶になっちゃったとか、
ブツブツ言うような事が出てきたりしますよ。
本当はああいう人に任せときゃとか
思いますよ。

ところが、そういう事を通して神様という
のは、いろんな難しい人間の複雑な気持ちの
有様(ありよう)だとか、それから人との
付き合い方とかね、いわゆる人生の苦労
というものを味あわせる。
         (つづく)

神の子について(2)

2023-03-28 06:55:21 | 癒し
    (前日からの続き)
神の子というものはね、皆が神の子に
なっちゃえば、迷いがないんですよ。
迷う必要がないんです。
だけども迷いますね。
世の中に生きてる以上はね。

ただ何度も言うようだけれども、肉体を
持ってる我々自身を我々だと思ってしまうと、
迷うんですよ。
だから、迷ったり悩んだり悲しんだり
寂しくなったり、いろんな事がありますよね。
あるけれども、しかし、それが自分だと
思う心をちょっと横に置いて、本当の自分は
どこだろうと訪ね求める。
それが祈るということなんですけれども、
訪ね求めてずっと旅をして行くと、そこに
神様がいらして、そうして、神様に
愛されてる子どもである自分というものが
でてくる。
そして、その喜びで一杯になり祈りで一杯に
なってる時に、自分というものが消えて、
光だけになって、そこにただある。
あるいは、自分というものをなくして、
無になって、一所懸命何かやっている。
そこに神様の生命が深く働いてゆく。
その時、皆神の子なんです。
          (つづく)

神の子について(1)

2023-03-27 06:57:32 | 癒し
神様というもの、それから神の子という
もの、これはもう切り離せない。
聖書やお経なんか読んでも、仏子とか
神の子とか書いてあって、何となく
分かりにくいけれども、くだいて言えば、
皆平等に誰一人として違うということなく、
神様の子どもなんだということですね。
その神様の子どもというのはどういう
ことかといいますと、神様から流れてくる
絶えることのない生き通しの生命という
ものを受けて、働く生命なんだということ
ですね。
           (つづく)