わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

ゆるされている生命

2010-10-28 10:57:30 | 癒し
 我々の生命といいますか、生命と言ってしまうと、皆さんの想像が

何処へ行ってしまうか、色んな所へ行ってしまうと又面倒なんです

けれども。我々自身ですね。この色んな性格を持ってる我々自身

というものを、そのままに、神様というのは抱き取って、そして、

ゆるして下さってる。


 特に我々のまわりですとね、日本など、そんな事をすると罰が当たるよ

とか、それも微風を残す為に穏やかに、そんな事をしちゃいけないよと

言うのならいいけれども、そうじゃなくて、この頃ずうっと世の中を

見ておりますと、それは先祖の祟りなんだとか、おまえの心がけが

悪いからだとかそういう何か、責めるといいますかね、苛めると申し

ますか、そういう形で強制しようとする。正していこうとする。自分の

説いてる道が一番正しいんだと言って、これを信じなければ駄目だと

いう形で、我々の生命というか心を向けさせようとする。

 だけれども、何か強制されてですね、強いられて心をそこへ向けたと

しても、果たして人間の気持ちというものが素直に、その人達の言う、

何だか分かりませんけれど、その絶対者に向いていくかというと、

そういう風には人間の心というのは造られていないんですね。


 人間の心というのは、唯ひたすらに素直になりたいというか、神様の

方へ向いて行きたいというか、それが本来なんですけれども、この

世の中の憂さ、辛いこと苦しいこと悲しいこと色んなことによって、

素直になりたいけれども素直になれない状況というものが自分の中に

生まれてきて、あるいはまわりに生まれてきて、とてもじゃないけれど

この世の中は公平だとは思えない。とてもじゃないけれど、今自分が

幸せな状態だとは言えない。という風なことが色々生まれて来ますとね、

これをこちらへ向けばこうなるんだというような、そういう強いられ方で

その絶対者に向けと言っても、向けられるもんじゃないんですね。

 で、簡単に申しますとね、人間の心というものは本来自由です。何故

自由かというと、神様から来ている我々は分生命なんですね。そして、

我々はどんな柵からも解き放たれて自由になりたいと思うけれども、

もっともっと我々の本体、本来の生命というものは、何ものにも把われ

ないものだから、この世の中は表面的に何処かに属しているとか誰かを

養っていかなきゃいけないとか、色々な義務というものを負っては

おりますけれど、そうじゃなくって、自分の中で何ものも強いられる

ものがない、そして、何ものからも自由である。

 それは何かというと、元々神様そのものが、人間を強いるとか何かを

しなければ生かしていかないとかですね、そういう類の方ではないから

なんですね。要するに、もう全くの無、無を突き抜けた朗らかな心、

それが神様の御心でありまして、その御心から分かれて来たのが我々

人間でありますから、そこで、何をしないといけないとか、これをすると

罰が当たるとか当たらないとか、そういうことはないんですよね。


 つまり、冥加(みょうが)という言葉がありますけれども、生命冥加とか

何だとか。

 冥加というのは何かというと、我々が自覚しないところの神仏の加護

なんですね。神仏の守りなんです。つまり、自覚しないところのと

いうのが、これが有り難い事なんでしてね。神様というのはそうなんです。

 こちらが眠ってる時でも忙しくって神様の事を忘れている時でも、

何でもずっと守ってる。愛している。ゆるしている。神様の方からは、

一度も罰を当てようとしたことというのはない訳なんです。今まで。

どんな歴史の中でも。

 じゃあ、何故戦争が起ったか、何故人間と人間が争(あらそ)うのか、

ね、ノアの大洪水は先生あれは何だったんですか、色々聞かれる

でしょうけれど。それは、人間の業というものが、何度も何度も掃除

していかないといけないという、その節目(ふしめ)節目というものが

ありまして、歴史の中で、そして、じゃあ罰も何も無いんだったら、

何の為に人間が悩んで苦しむのか、全くずっと平穏に平和にやって

いければいいのにと思うけれども。

 つまり、人間の、何といいますかしら、深さですね、神性。そういう

ものは何によって浄められるか高められるかというと、人間の苦を

通してのね、涙を通しての経験によってだけ高められるんですね。


 苦労が一概に全部いいかというとそうではないけれども、そうじゃ

なくって、それは何かというと、自己ではない他己の生命、その人の立場

その人の気持ち、その人が何故そういうことを言ったか、何故そんな風に

怒ったか、自分に敵対したかあるいは協力をしてくれたか、何故

あそこまで骨惜しみせずにあの人は生きることが出来るんだろうかとか‥。

 それはやっぱり、相手の立場というものを想いやるということがないと

やれないんですね。で、その想いやるというのは、神様でもない限り、

自分の環境以外の事、自分の価値観以外の事を分かる、理解してね

寄り添ってそして生きて祈って、そうだなあと思いながら、共に生きる

というのはなかなか難しいんです。


 それをやろうと思うとね、やっぱりどっかで苦しむ。例えば病気に

なる。父と息子がうまいこといかないとかですね。嫁と姑が駄目に

なってるとか。

 何か平和じゃない、そういう状況というものを通して、ああ本当に

大変だなあー、これは本当に一緒にやっていくということは大変だなあー、

家族というものは重たいものだなあーとか、色々なことを身に染みる

訳ですね。そうすると、自分の身近でそういう風な人を見ると、

あああの人も大変だろうなあーと、同じような経験を持てば、やっぱり

その時に、我しらずその心が分かって寄り添える訳なんですね。その時に、

その人の為に、ああ本当にあの人が幸せになりますように、天命が完う

されますように、宜敷くお願いしますという風に言えるようになる。


 ところが、悲しいことに人間というのは、自分の経験以外の事と

いうのは、そういう何か思い知らされる様な事がないと、他の人の複雑な

苦しい辛い気持ちというのは、なかなか分からないように今なっている。

 で、それを曇らされてるのは、もちろん大きく言えば、肉体の我

だけれども、その人その人の環境や、お金があればあるで、お金が無い

なら無いで、あるにも無いにも何か不足が出てくる、欲が出てくる。

 色々なところで苦しむ。そういうものがある訳なんです。社会的な

状況もある訳なんです。それは霊の生命からいったら余分なものなんだ

けれども、だけれども、余分なものだといって、我々はそれを捨て去る

ことは出来ない訳ですね。その中で生きていかなきゃいけないから。


 それではどうすれば良いかというと、やはり祈りの中でね、祈りの

時には、自分が何億持ってるとか何とかいう、それは祈りの場所じゃ

ないですね。祈りの時間というのは、神様と私の時間なんですね。神様に

私の心を開いていただく、そういう時間なんです。そうして、自分の

本来心を解き放って行って、そして、自分はこの世の中にあっては、

とてもじゃないけどたまらないような状況にあるけれども、だんだん

解き放って行くと。

ああ自分の中にも朗らかなものがあるなあー、静かなものがあるなあー、

神様ありがとうございます、と言える時に思える時に、神様と一致する

ことが出来る。だからそれは、「世界人類が平和でありますように」

というあの祈り言の中に全部入ってる訳ですね。教義にありますけれども、

個人も人類も真の救いを体得できるものであるというあの祈りですね。

あの祈りを唱える時に、我々というのは目には見えませんけれども、

自分の中にある余分なものがその時パアーと掃除をされる訳なんですね。

で掃除をしたところで、色々な経験を積んでいって、そして色々な

場所で、例えば、支部じゃなくったって集会じゃなくったって、宗教的な

ものを離れたってね。色んな人に会って色んな立場の人の話を聞くことが

あるかもしれない。悩みを聞くことがあるかも知れない。そういう時に、

どれだけ、祈りの場じゃない所で、そういうことを無になって聞けるか

ということ、やっぱりそれが大事なんですね。


 祈りの場というものは、人間が作る様に思うけれども、本当は、人間

というのは見えないところで祈って祈って祈り抜いてる。自分が意識

しようとしまいと、本体というのはずっと祈りの座についていて、自分

というのは神界にいて、光になって祈ってる。神界にも自分自身がいる

訳ですから。そうして、御心と一体になって、こっちに光を送ってる。

こっちからも光を送ってる。光の呼びかけ合い、呼び合いをやってる

訳です。呼び返しの中で我々は生きてる訳なんですね。


 それは何の光かというと、ゆるしの光なんですね。だから罰も何も無い。

罰を当てるとか当てないとか、そんな狭苦しい、そんないい加減な世界

じゃなくって、その光のシャワーを浴びてる時というのは、人間は本当に

自由になってる。本当に神の御心の中に入っている自分自身になってる。

それは、自分が意識しようとしまいとそうなんです。そうやって人間

というのは生きているんですね。ちょうどこの我々の肉体というものが、

飲んだり食べたり眠ったり、ある程度動いたりしないと、この肉体の

生命を保っていけないように、我々の奥の複雑な霊妙な体というものは、

神様の光を受けていかないと生きていけない。


 これは随分と申し上げて来たことですけれども、その光というものは

何から出来ているかというと、ゆるしから出来てる訳ですね。あるいは

愛から出来てる訳です。愛とゆるしというのは何処から出てるかというと、

神様から分かれて来ている生命である人間に対する、極まりの無い愛

なんですね。


 それは、我々がこの地球に降りて来た時は、この地球を、神様の御心に

従って、神様の御心が顕現されるような、そういう方針にするべく、

我々はここに降りて来て、やってた訳なんだけれども、それが、霊性が

働いている間はよかったけれども、だんだん肉体を被っていく内に、

それを忘れちゃって、人が霊止にならなくなって、つまり霊止まるという

霊止(ひと)の方を忘れて、人間の人(にん)という、そっちの方の肉体の

方の人だけが残っちゃって。だけど消えてはいないんです。

霊止というのはね。

何故かというと、霊が無ければ我々は生きていない訳ですから。ただ

それが何か、我(が)の世界の中に今はなっていて、それが押し込められ

てる感じなんですね。その押し込められてる、ちょっとしか顔を覗かして

今は生きていけない、息が出来ない、その状態を何とか解きほどいて、

解き放ってやっていかないと、今はもう地球も大変だし、自分自身も大変

だし、世界人類も大変だし、ひいては宇宙も大変だしね。人間だけ

じゃない宇宙生命そのものだって大変なんです。


 という時に、じゃあその全部の生命を健やかに柔らかに、有るがままの

有りのままの生命を宣り出そうというその祈りというのは、「世界人類が

平和でありますように、日本が平和でありますように、私達の天命が完う

されますように、守護霊さま守護神さまありがとうございます」

というあれなんですね。あれで全部救われていく訳なんですね。だから、

あの祈りというものは、大変な光明体なんです。その光明体を我々は

持ってるんです。それは唯単に、白光の人があの祈りをするから救われる

とかそういう事ではなくて、元々の神様の御心を祈り言にしたらああいう

ことになる。

 そうして、その元々の神様の御心の光そのものというのは、どんな人の

中にも、例えば無神論者の人の中にも、物質主義者の人の中にもね、皆

入ってる訳なんです。


 この世の中でいえば、信仰しない人は救われないとか色々言うけれども、

そんなんじゃないんです。それだったらもう小乗(しょうじょう)以下

なんですね、大乗(だいじょう)と小乗とあって、大乗というのは勝れた

乗り物という意味だけれども、勝れた乗り物というのは神様の

大きな大きな大愛で、その愛とゆるしの光そのものなのです。

 その愛とゆるしからいうと、神様というのはついぞ人間を責めた事が

ない。ついぞ人間を裁いたことがない。


 その裁いた事がない神様に、我々がこの生命をこの心を捧げて生きて

いくことが出来たら、その時に、神様の方の喜びも大きくなるし、

我々の方にいただいている光だってますますその輝きを増して、この

世の中で成してゆくべき仕事ですね、肉体の中で関わっていかなきゃ

ならないこと、悩まなければならないこと、苦しまなければならないこと、

あるいは喜(よろこ)び事、そういうものも、何といいますか、スウーッと

来てスウーッと通り過ぎるんです。


 決して私の申し上げてる事は、ご利益の宗教じゃないんです。人間が

果たしていかなきゃいけない務め、そうして、どうしても果たして

いかなきゃならない宿題というものはあるんです。その為に、肉体の

時間が随分くっちゃって、もうとてもじゃないけど五井先生どうにも

なりませんという人の嘆きを一杯聞きますけれども。どうにもなりません

というのは、肉体の我の方の叫びなんでして、その我というのを溶かして、

そして祈りの中へ入り込んでしまうと、まだまだ、自分の中に、永遠の

生命としての人間の本来心がそこに顔を覗かせてきまして、そうして、

その切羽つまってどうにもならないというところから反転して、今度は、

大生命の生命の道へスウーッと入っていくんですね。


 そのスウーッと入らせていく入らせていただく、それが「神様」という

素直な呼びかけであり、我々は一人として一度として、罰っせられた事が

ない、責められたことがない、ずっとゆるされてる、そういう存在なんだ

生命なんだ、皆そうなんだ、白光の人であろうとなかろうと、世界人類が

全部、どんな人であっても、例えば、どんなに罪を犯したとこの世で

裁かれている人であっても、そうじゃない人であってもね、皆光なんです。

 皆光明ですから、そこでお互いを礼拝する。尊敬する。そこで祈る、

一緒に祈る、共に祈る、一人で祈る。一人で祈っても共に祈っても、その

ひびきが世界中をかけ巡る。宇宙全体ひびき合う。


 そういう祈りですから、その祈りに乗って宇宙神の御心の中にふっと

入っていくと、穏やかになって気が楽になって。そうして、本当に余分な

こと、思い煩い、そういうものはね、 肩の力を抜いて、なるべくこう

受けとめていったら、本当に重荷というものも重くならないで軽くなって

いくもんだというと、これは私の人間としての経験からも申し上げる

ことができると思うんですね。


 重荷を重くするのが神様じゃない。重荷を軽くするのが神様なんです。

 ですから、今どんなに打ちひしがれてる人でも、どんなにどうにも

ならないと思ってる人でも、どうにもならないと思ってることが、それが

消えてゆく姿なんですよね。


 どうにもならないというのは、だから、それを押し込めるんじゃなくて、

自分は白光の教えを聞いてるのに何でこんなんだろうと責めるんじゃ

なくて、あーそうなんだ、消えてゆく姿なんだと思って、そして、それを

思いっきり出して、泣くなら泣く、叫ぶなら叫ぶね、出して消して

いただいて、そして又生命をいただいてね、ゆるし放しの愛と平和の元の

神様というものに礼拝をし直して、いただき直しの生命で、毎日を明るく

生きていくということが、一番我々がこの困難の中から救われていく

大元の元になっていく訳なんです。


 そこを赤子のように信仰してゆきますと、絶対に神様というのは我々を

いやな所に変な所に導いていかない。必要なものは下さる。絶対に下さる。

 この生命というものを使って下さる時がある。その使われ方というのは

どういう使われ方をするか分からないけれども、とに角、神様と私は

一体の生命であって、一筋の生命であって、その一筋の生命というのは、

何の滞りもない朗らかな、何の障りもないものなんだということを確認

できる時に、我々というのは解き放たれていくんです。

 その確認というか、それを肉体の我というものに染み込ませる。

 そうして、霊肉共に救われていく、その祈りが、世界人類が平和で

ありますようにという世界平和の祈りなのでありまして、この光の祈り

というものは、益々これから色々な人に覚えられていく祈りだと思います

けれども、私共は益々謙虚になって、この祈りのもとに、神様の愛を

仰いですすんでまいりたいと思います。
    
                        五井昌久