わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

宇宙神と同格ということについて

2010-10-31 11:08:47 | 癒し
 今まで何度か説いてきましたように、人間の生命の流れ

というものは、本来、宇宙神のずっと深いところまで

繋がっているんだというところまでお話ししたかと

思います。

 それでこの間、直線的に昌美が宇宙神と皆さんとは同格

であると、そういうことを言ったかと思います。それで今

聞いていると、諸説紛々だというので、じゃあちょっと

こちらからのメッセージを言ってみようかと思うんですけれど。


 同格というと、同格という言葉に又把われるのが人間

なんですね。じゃあ同格というと宇宙神とまるで同じと

いうことになると、じゃあ宇宙神というのは何かというと、

すべてのすべてなんですね。生命の元の元。人間の生命だけ

じゃなくって、この宇宙全体を造った、もう造ったも何も

造る前からいた。それと同じかということになると仰天しちゃう

訳なんです。


 何故かというと、人間というのは、この肉体という不自由な

ものを持ってまして、一日の内でも、何度も何度も言うように、

気分が変わる喜怒哀楽が出てくる。

 そういうものと宇宙神が同じだと言われてしまうと、とんでもない

という気持ちがまず出て来る。

 それでなくったって我々は凡夫なんだから、いただき直しの生命

なんだからといってずっと説いて来て、そして皆さんも祈っている。

 そういう中で、そういう風に言われてしまうとわあ─と思う。思う

けれども、昌美が言ったのはね、その生命の現われとしての宇宙神と

一緒なんだという風に捉えてしまうと、つまり、全体の存在と同格だ

という風に捉えてしまうと、皆困るんですね。そうじゃない。

じゃあ昌美は嘘を言ったのか、そうじゃあないですね。


 同格だというのは、何において同格かというと、皆さんの奥の奥の

悟ってる本体、神体ね、肉体じゃないですよ。

神体、本来心というものがね、何によってできているかというと、

宇宙神からの光明と(光と)ですね、愛と、そういうものによって

生きてる訳なんです。

 宇宙神の愛というのは、これはもう極まりのない愛なんですね。

 すべてのものを生かそう、すべてのものをより良くもって行こう、

敵も無いんです。味方も無いんです。あるがままなんですね。


 そういうものが、我々のこの肉体、我の強い肉体を通して光になって、

そして、我々は肉体の生命を養ってもらってる訳なんですね。そして、

自分の内の奥の奥にもそれと同じものがある。そういうことを

考えますとね、つまり、我々というのは意識するしないに関わらず、

愛したいと思う、仲良くやりたいと思う、平和にやりたいと思う、喧嘩を

したくないと思う、砕いて言えばですね、そういう気持ちね。

 つまり、世界人類が平和でありますようにという気持ち。何処にも

戦争がなくって無事に平穏に、皆がそれぞれに、それぞれの家庭で生きて

いけたらと思う。その祈りの気持ち。

 それは何かというと、ずっとつき詰めていくと、宇宙神があるがままの

生命を認めて、そのままにありのままに生かしていく。それが自分の望み

であり願いであり祈りであるんだと。

 その本来心の祈りを受けて、世界人類が平和でありますようにという

あの文句が出来た訳ですから。


 ということは、自分の中にも、ものすごく素朴だけれども、そういう風に

祈る、自分の家族のこと自分のことまわりのこと、そこからずっといって

世界人類のこと、本当に平和であればいいなと祈る。

 そういう何ともしれない思いが湧き起こる。湧き起こる時には、人間と

いうのは、その時には我には満たされてないんですね。やっぱりその時には

光になってるわけ。その光というのは、祈る時にもちろん強められるし深め

られるし、こっちから見ていると光明そのものになるけれども、祈る時だけが

光明かというとそうじゃない。


 普段は、自分が光明体であるということを皆忘れて生きているんです。何故

かというと、この世の中というのは、忙しいんですね。仕事しなきゃなんない、

連絡しなきゃなんない、子供の面倒はみなきゃなんない、夫婦の中で解決

しなきゃいけない問題がある、親子の中で解決しなきゃいけない問題がある、

家庭はある・・。そんな事で、自分が光明身だとか、そういう体を持ってる

とかということは、なかなか肉体のこの意識からはのぼって来ない訳なんです。


 で、心を鎮めて、皆で統一してさあ祈りましょうという時には、それは

スウーッと出て来やすい訳ね。それは、何も祈ったと同時に自分自身が

変わるんじゃないんです。自分自身というものは、本人が意識するしない、

あなた自身が意識するしないに関わらず、光なんです。

 何故かというと、神様から分かれて来ている生命だから、分生命だから

光なんです。それはどんなにその人が何を表面的にどうしようと、奥に

その光明があって、その光明が出たがってる。そして、その人本人のその

余分なものを取っ払っていったら、その人自身も光になる。

 で、その光は愛とゆるしと平和である。ということにおいて皆平等

なんです。同じなんです。


 その愛とゆるしと平等の元の元、平和の元、それが宇宙神なんですね。

 だから、あなた方は宇宙神と同格であるというのは、そういうもともと

あなた方の中の生命を生かしめている、思いだけじゃなくて、肉体も全部

含めてね、我々からすると煩わしいものも全部含めて、この世の中に

生かしめられて働かしめられてる、その元の元が愛とゆるしと平和だから、

その大元を辿って行けば、何度も言うけれども、つまり宇宙神だから、

それは本人が意識するしないじゃないんですね。


 昌美があの時あれを言ったというのは、もともと宇宙神と同格である

というのは、そういう分かれてきた生命の末、元と末ですから、で、その末

というのは萎びるんじゃなくて、これからもずっと続いていく末だから、

ずっと連らなってるものだから、もうそろそろあなた方が光明なんですよ

ということを、あそこであの子は言いたかった筈なんですね。そうして、

それぞれに分けられている光明身というものをずっと繋いでいって、祈りに

していって、そうして、世界人類がーとやっていけばね、そうしたらつまり、

それは宇宙神のみ心になる訳。宇宙神のみ心と一つになる訳です。そこに

入っちゃう訳ね。


 今は、魂というか、そういう本来心がどんどんどんどん磨かれていって、

どんな時にもみ心の中へ入るようにやっていかないと、この地球の汚れ

というものは、なかなか大変なんですね。今随分掃除が出来てるけれども、

でも根っこの所もまだまだ一杯大変なものがあるから。

 それで宇宙神と同格だというのは、それも本来本当の意味だけれども、

あなた方を励ます、ね。萎縮(いしゅく)するんじゃなくって、縮むんじゃ

なくって、そうだそうだ生命の本当の本当の底のところで我々はそうなんだと

宇宙神のみ心の中を見てみると、自分がまわりを平和にしたい、ゆるして

いきたい、自分もゆるしていきたい、健やかに育っていきたい、生きていきたい、

というのと、宇宙神の方からこちらを見て、いい人間一人一人を本当に愛して

ゆきたい、ゆるしていきたいというのと、一緒なんですからね。何にも変わる

ところがないんですよ。


 ただこの世の中では色んな煩いがあるから、そういう気持ちになるところが

少ないけれども。しかし、先程申しました様に、神様が生かしている間という

のは、悟ってる本体、あなた方の神体、霊体というのは、常に祈りを捧げて

いる訳、宇宙神と一緒になって捧げている訳、共に捧げている訳なんです。

 目には見えないけれどもね。ですから、分かれるも分かれないもね、ずーっと

一緒なんですよね。そういう意味で同格なんです。


 ですから生命のすべてを造った創造主としての宇宙神というものをへんに

想像してしまうと、そこでおかしなことになるけれども、そうではなくて、

つまり本当の心の底のところで、現われも何も超越したところで、我々は一本に

つながっているんだ。そこで我々は抱きとられてるんだ。愛されてるんだ。ゆる

されているんだ。だから我々もささやかでも、ゆるして愛してできるだけ平和に

という風に努力をしてやっていったら、その時に自分の中の霊性が目覚めて、

喜んで高まっていってね、自分の愛の光がゆるしの光がまわりに飛び交って、

そうして、皆の中にその光の輪が広がっていくというかね。祈りというものは

そういうものなんですね。


 だから、祈ってる時だけがただ光明心が出てくる訳じゃない。その時だけが

同格というのも、それも正確じゃない。

 常に常に自分の中で自分の知らないところで、自分の本体は本心は宇宙神と

同じような働きをしているんです。

 父子御霊とキリスト教でいいますよね、三位一体。あれは、父子御霊

という風に分けることが出来ないんです。あれは本当に一体なんです。


 たとえば、愛とゆるしと平和というものがそれぞれ違うもんですかといったら、

これはみんな一つらなりに連らなってるというのと一緒なんです。我々は神から

分かれてきた生命であるというのは、じゃあ神様と人間の生命とはどんな風に

違うんですかというのは、それは正解じゃないんです。一緒なんです。

 一緒なんだけれども、ただ今のこの世の中の色々な現われでもって、自分の状況

でもって、その言葉なりを測ってしまうと、自分の想像でもって測ってしまうと、

とてつも無くおかしな事になるわけね。


 そうではない。本体において神体において本来心において、我々は一時(とき)も

神様から離れたことはない。宇宙神から離れたことはないし、宇宙神も

離したことは無い。そういう意味において、不即不離なんだということね。

 これが、我々は宇宙神と同格なんだということの本当の意味なんです。

                         昭和63年6月13日
    
                              五井昌久


最新の画像もっと見る