わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

祈りとゆるし

2010-10-07 11:02:49 | 癒し
 暑いですね。こう暑いと、人の話を聴いても、よっぽどのことが

ないと耳に入ってこないから、真理のことを喋るんでも、一寸面白

おかしく言わないとはっきり入っていかないかも知れないけれども。


 人間には色々な単位がありますね。単位というのか、一番小さな

単位は家族で、それから、学校とか社会とか、段々に大きくなって

ゆくわけだけれども、この中で、色々面白くないことが起ったり

する。喧嘩ね、啀み合い、俺のものだ、とかね、家族であれば、

血がつながってるから、まあ流せることも多いわけだけれども、集団

になると、各々の癖が直接ぶつかり合って、別に何の義理もないと

いうような場合には、喧嘩も深刻なものになってしまう。

 つまり、個我というものが、そのまま出てしまうわけですね。

 そこには、慎しみとか、遠慮とか、普段私達が人間として持って

いる、人に対する配慮といったものが、全く忘れられた状態になって

いるわけです。

 争ってる時の人間の心というものは、もう何ともいえない気と

いいますか、気も濁れば、想念も真赤に燃えてるわけで、たまに、

交通信号の黄色位点したって損にはなるまいと思う程、怒りだとか、

口惜しさだとか、相手に対して怒っている、というより、怒りしか

見えない、何ともやり切れない状態になっているわけです。


 で、どうして、そんな浅ましい状態になるかというと、人間が

この世に生まれて、大きくなって、成人して、いつの間にか、

何かしらの位置というものを得ます。そうすると、その位置に対する

執着というものが出るんです。しがみつきたいという想い。これに

からまれると、もう自由自在の心も、どんどん息苦しくなってきて、

いつの間にか世間的な自分の位置が主人公になってしまって、

自分自身というものは追い出されちゃうわけです。

 争っている状態というのは、この、本来、自分自身でない、

一時的に、この世で自分が果たしてゆく役割を、自分だと思い違いを

して、そこに思い入れしちゃって、癖から性格から惚れ込んでね、

全部与えちゃって、奉るものだから、気にしなくても大丈夫、

ちゃーんと生きてゆけるようになっているのに、自分自身が馬鹿に

されたと思って争うわけです。


 けれども、みんな、自分自身自分自身と言うけれど、自分自身と

いうのは、そんな小っちゃなものじゃないんです。宇宙のように

大きく深く拡がってゆくことも出来れば、ラクダの針の穴という

言葉があるように、細かく細かくなることも出来る。

 本来、私達に神様から与えられる能力は、全く測り知れないものが

あるわけなんです。それを、変なところで物惜しみをしたり、

引っかかりするものだから、守護霊さんの方で、こうしてやりたいと

思って、一生懸命信号を送っているのに、万分の一もその力が出て

こないわけなんです。


 そりゃあ、わけも無く殴られたり、辱められたりすれば、人間の

素直な気持ちとして、何ともやり切れない気持ちが湧き上ってくる

わけですが、祈りというものを知っている私達としては、その想念に

身を任せ切ってしまっては、それこそマイナスにしかなってゆかない。

 祈りというものに、あまり気負いを持たず、構えず、イライラしたら

したまま、世界人類が平和でありますようにと心の中で唱えればいい

わけです。


 みんな、一生懸命無になろう、悟ろうと思ってやってるけれど、妙な

焦り心がある間は、中途半端で、第一その人自身が満足出来ないわけ

でしょう。

 お祈りというものは、勿論一人一人が、守護霊様、守護神様を通して

神さまに向って叫ぶわけだけれど、私なんかから見ていると、

世界人類がーとやり出した途端、みんながみんな、光明化してしまう

わけです。色々な個々の悩みや苦しみやそういうものを持ち乍ら、

しかも、光体になってしまう。

 この事実はどういうことかというと、祈りというものは、霊界神界─

宇宙神につながってゆくあらゆる光を放射される神霊方と、一人一人の

みなさんとの協同作業だということに他ならないのです。

 言葉を変えて言いますと、光一筋というのが、人間本来の姿であって、

それは、この今の自分自身が、どのように傷つき苦しんでいようと、

変わることのない光一筋なのだという事実を、証するものなのです。

 祈りというものは、肉体人間が放射せずにはいられない様々な想念を、

むしろ土台として、一層、霊体、神体─神界の自分と一体化をする為の

ものだといえるので、このことを、心に呼び覚ます時、怒りは怒りの

ままに終わってはゆかない筈であると思うのです。怒りもまた祈りに

浄められて、すべてが光になってゆく。


 そのために祈りというものがあるのであります。すべてを世界平和の

祈りに託すとき、私達も、またこの世界も光にみちてゆくのであります。