わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

心のながれについて

2010-10-27 10:46:56 | 癒し
 我々が毎日誰よりも親しく付き合っているものというのは、

考えてみますと、心ではないでしょうか。

 朝起きて、さわやかに目覚めることが出来たとか、あるいは、

ちょっと睡眠不足で体がだるいなあとか、そういうことを感じる。

 覚知して、そしてくたびれているにしろ何にしろ、起き上がる

というのは、それはやはり気持ちの働き、心の働きであります。


 我々はよく自問自答なんてことを申しますけれども、自分に

問うて自分に答えるというのは、毎日毎日自分で無意識でも

やっている訳ですね。自分で考えて、ああお茶を飲みたい、

誰かに会いたい、こういう予定がある、というのはそれは記憶

ということもあるけれども、それをしたいとかしたくないとか、

面倒くさいなあとか疲れたなあとかということも含めて、

それは自分の気持ち、心と対応し続けながら、毎日肉体を

養っている訳であります。

 親兄弟というのは絆が深いとか申しますけれど、私なんかに

言わせると、親兄弟よりももっともっと自分の中で深い

関わり合いを持っているのは、自分のそういう自分自身を

覚知する心でありますね。

 ところが、いつも申しますように、心というものは

ずっと奥の深いところで神様と繋がっている。


 神様の世界なんていうと、この世とあの世という遠い

かけ離れたところのように思う。ある宗教の信者さんだと、

極楽に行くとか地獄に墜ちるとか墜ちないとかね、あるいは、

聖書などでゲヘナの火とか何とかいうけれども、しかし、

そういう何か想い焦がれるとかいう世界じゃなくて、

厳然として、あの世というか霊界と申しますか、そういう所は

ある訳なんですね。


 向こうの世界とこっちの世界というのはずっと繋がっている。

 一つづきになっている。だから、霊界移行という言葉を

申しますけど、それは実際に移っていくのであります。

 我々自身がこの肉体を脱ぎ捨てて、向こうの世界に移って、

そしてさらに自分の生命を豊かにしていく。そういう為の

移り住み、それが霊界移行、死なんだと。だから、この世の

誕生と向こうの往生というのは、これは二大祝賀行事であると

私がいつも申しますのは、そういうことなんですね。


 この肉体は食べなきゃ我々は死にます。飢えれば大変な

ことになりますね。その為に働かなきゃなんない、お金を

得なきゃなんない。そういう想い煩いが霊界に移行すると、

一回こうすっと抜けるもんだから、色々な痛みや煩いが

ないぶん、余分なものがなくなって働きやすくなるわけね。

 で、働きやすくなるというのはもっと厳密にいいますと、

これは素のまんまになる。素直になる。その人の本心が

現われてくる。そういうことなんですね。我々世界人類

というのはですね、人間一人一人というのは神様の御心の

分かれなんです。生命の分かれなんですけれども、その御心と

心を一つにしていく、本当のところをいえばそうですね。

 それで生きてる。神様の生命を貰って生きてる。


 生命を生き生きとさせる。心をひそめてずっと自分の心の

流れをみていくと、本心に連らなっているから、その

連らなっている自分自身というものが、先程も申し

ました様に、非常に大きく深いものなんですね。そうして

その人間の心の流れというものは、自分の中の例えば、

これが飲みたいとかあの人に会いたいとか、そういう欲求

とかいうものだけじゃなしに、もっともっと深い深いところで

繋がっていて、実は、深いところから我々の肉体を養なう、

例えば、暑いとか寒いとかそういう色々な欲求が出て来る

訳ですね。


 今こうして世の中で生きる為の、必要に応じたものが

ちょっちょっとこう出てくるけれども、しかし、本当を

言えば、本来心の深いところからの声というものを聴く、

その為に我々は生きている。あるいは、もっというと、

その目に見えない程の世界、奥の奥の体というのは常に

そういう本来の深い声を聴いてる訳ですから、我々の肉体が

覚知しようがしまいが、その霊の生命を聴いて心を受けて

生きている。

 そういうものが我々の肉体の実は養い親になってるし、

肉体を養ってる元になってるいうことを想いますとね。

 キリストが言ったね、「何を食べようかとか何を飲もうか

とか想い煩うな」というのがありますよね。「あの空の鳥を

みるがよい」という風なことを言いますね。それは何か

というと、黙ってても棚ボタにお金が入ってくるとかじゃ

ないんです。


 人間の生命というのは、神様の霊的なそういう健やかな

ところからの流れが来ないと止まっちゃうんです。

 生命というのはね、神様の分かれだから。だから、

神様の方で、この人間を何かの形でまだまだ生かして、

器として動かしてゆかなきゃと思うかぎり、我々は死にたいと

想ったって生きていかなきゃいけない。死ぬことを許されない

わけなんですね。霊界移行をかってにできないように

なっている。


 例えば、お金がない、明日からどうしようという所まで

いっても、そこで、あれっと思うところで道が開けてくる。

 神様なんだから、お金でも何でも自分の思うままに湧かせる

ことが出来るんじゃないかとか、色々あるんですけれどもね。

 ただ人間の生命というものは前生も前々生も生きてここに

こうして存在しておりますから、色んな借金がえしが

ありますね。その借金返しを済ませるというのは大変なこと

なんです。何が大変かといったら、人間にはまず欲が

あるんですね。欲が絡んで人間関係が拗れるとかというのは、

これは一番やっかいな訳ね。


 例えば、前の世の中で喧嘩別れして、もう絶交だとか

あるいは生命のやりとりをやったとかね。あんまり穏やか

ではない話だけれども、そういう相手ともう一回、守護の

神霊が後でくっつけて、それで何とかこの世の中でしようと

思ったって、相手が猛烈な金持ちでこっちがそれ程お金

持ってないなんていう、そういう極端な環境の中で合わせた

としたら、これはなかなかねー。僻み根性というんですかね。

 例えば、片っぽが一千万持ってる、片っぽは五十万位しか

持ってない。五十万対一千万じゃね。この世の中で

パッと見はですね、一千万の方が多いから、五十万の方は

萎縮しちゃうわけね。


 ですけれど、その五十万をどう生かすかなんですね。今

手許にあるものをどう生かすか、自分の生命をどう

生かすか、ね。それによってお金というのは増えもするし

減りもするんです。その一千万というのは、私から言わせ

ますとね、つまり、その人の努力の賜物でもあるかもしれない

けれども、前の世の中からずっと積善をしましてね、陰徳

積んで貯金を増やして来て、それで現われてきた環境の中の

一千万かもしれない。そうしますと、その一千万の上に

あぐらをかくと、一千万なんてお金はたちまちに消えて
なくなる。

 なくなった時にどうするかというのは、その人の心の

現われになる訳なんです。


 そこで本心を輝き出させるということがこれは並大抵の

事じゃないんです。人間生きていかなきゃいけませんので、

なかなかそれが大変なんですけれども、でも出来るだけ

素直にね、任せ切るなんていうことはなかなか出来る

ことじゃないけれども、でも、「すいませんよろしく

お願いします」と言ってしまって、祈って祈って祈って

いきますとね、そうするといつの間にか、ああこういう

お金が入ってきたなあとか、ああこういう人に会って

助けられることになったなあとか、そういう何か援助がね、

まわりについてくるんですよね。その辺が、自分には一千万

あるから大丈夫だと思ってあぐらをかいてしまって何にも

しない人。しない人というのは、いわゆる心やさしく

まわりに対しても自分に対しても気配りをしない人。それで

この世の中を渡ろうとしてしまう。欲で渡ろうとして

しまうと、これが一番駄目なことなんですね。


 私に言わせれば、さっき言ったように、人間の生命

というのは神様の分生命ですから、神様の光を一瞬でも

滞らせちゃったら、これは生きていけないんです。人間

というのは。

 だから、器としてどういう風に用いられるか分からない

けれども、その用い方は皆違うんだけれども、しかし、

この人間はまだこの世に用があるという場合は絶対に

御用済みにならない。今日目覚めて、そして生きてるという

ことがわかったら、あーこれは生かして下さってるんだ、

生きてるんじゃない、生かして下すってるんだと。


 だから、自分がどういう風に器となっていくか分からない

けれども、全身でですね、お任せします。宜敷くお願いします

と言って、守護霊さん守護神さんに言い続けてごらんなさい。

 あるいは、五井先生に言い続けてごらんなさい。そうすると、

実際に、食べる為に着る為にあるいは住む為にね、仕事でも

お金でも入ってきますよ。肉体を養うにはね。

 何故かといったら、霊の生命だけじゃこの世の中はやって

いけないから、この世の中で、神様の為に働かせる為に、

神様が必要であれば生かしていくということは、肉体を養って

いかないと生かしてゆけない訳だから。

 そうすると、この人間には何が必要であるか何が必要で

ないかというのは、向こうの方でよくご存知ですから、そこで、

絶対に自分が生かされていくんだという、そういうことですね。


 私は何にも取柄がなかったけれども、とに角任せて

しまったね。そうして、何もかもゼロ以下になって、それでも、

人間というのは神様が養なって下さるから生きてゆけると、

その位の素直さだけ持てた。そうしたら、貧乏にもならずに

何とかこの世の中生きて、子供も授かって孫も授かってゆけた。

 その時その時、私はこうして下さいと言って望みは

しなかったんですね。色んな夢とか希望とかいうのは別にして、

是非ともこうならなくては困りますという風には望まなかった。

 そうすると、自分が想い描くよりももっと以上のものを

神様は与えて下すった。そういうことなんです。


 つまり、自分の本心の中へ、自分の本心の中へというのは、

神様の心の中へですね。その心の中に一致して、一致させて

祈り言をいってゆくと、世界人類が平和でありますようにと

ずっと祈りつづけてゆくと、そこで神様というのは、その

一人一人の人間にとって一番大事なものを下さる訳なんです。

 ですから、そこを信じて私共は世界平和の祈りを成し続けて

ゆきたいと思いますし、又成し続けていらっしゃるように、

私はこちらから光を送り続けてまいりたいと思っています。

      
                   五井昌久

短 信

2010-10-26 09:02:59 | 癒し
 信仰生活に入ると、かえって、それ以前よりも、不幸な出来事や

いやなことが連続しはじめた、目につくようになった、これをどう

考えればいいかという御質問のようにおもいます。


 信仰というのは、たしかに楽なことではありませんで、つねに

裡をつとめてゆく、そうして、人間は光なのだ、ということを教え

られる、あるいは、神様という方は、いつも人間を愛して

いらっしゃるのだということをきかされて、実際、自分でもそう思う

けれども、とにかくそう思えば思う程苦しい時があるのであります。


 これは、人間の本来性、本心の光が、消えてゆく姿となって

あらわれて参ります時に、業想念が光をあびようとして、寄ってくる、

その苦しみを、私どもが、身に心に感じるのであります。


 けれども、とにかく守護霊、守護神、そうして神様へのお任せの

いのちでありますから、苦しい時に、その苦しさを感じる自分が

駄目だとか、あるいは、こういう風に悪いことがつづくようでは、

まだ自分は本当の信仰に入っていないのではないかなどと、一切

おもうことはありません。


 神様というのは、絶対の愛である、無限の愛であるということを、

かたく信じて、消えてゆく姿で世界平和の祈りを実行していただきたい

ということとともに、神様はただ、光ばかりをおあたえにならない、

その人の魂をつよめ、また、光をますますかがやかせるために、時には

辛いことを連続させることがあるということを覚えていただきたいので

あります。

 どうぞ、力まず、背のびをせず、やさしく、明るく、たくましいいのちに、

あなたのいのちを育てていただくようにお祈りなすって下さい。私も、日々、

おぼえて、祈らせていただきます。        合 掌

 世界人類が平和でありますように          昌 久    

            

祈りはきかれる

2010-10-25 12:30:45 | 癒し
祈りは

きかれる

といいます

これは

本当なんです


ところが

ちっとも祈りが

きかれない

よくなっていかない

五井先生

どうなってるんですか

五井先生助けて

下さい

という声が

毎日のように

きかれるんですよね


そこで今日は

祈りが

きかれるということは

どういうことかということについて

少しお話してみたいと思います


この世もあの世も

つらぬいて

およそ人間の住む世界というものは

その人の想念どおりの

世界になっていく

ということは

これは

ひとつの厳然たる

法則なんです


たとえば

何がなんでもお金が欲しい

人の道に外れたって

何したって

とにかく

一億二億というお金を

かき集めたい


お金に対する執着ですよね

念です

そうするとその念でもって

一応金は集まって

くるんです

くることはくるけれども

それは

自分の念で集めたお金なんで

つまり

自我欲望ですよね

それでもって入ってきたお金というのは

重たいんですよ

祈りじゃなく入ってきますからね

それで

身につかないで

また出て行ってしまう

こういう

いうことをきかせるというのは

祈りじゃないですよね


祈りというのは

私はこれだけ辛い

だからできるならこうして欲しい

けれど

みこころのままに

っていうんで

預けちゃうんです

ゆだねてしまう


神様の方も

それが

まごころから

でてきたものか

そうじゃないかって

いうのは

よくみてますからね

こちらの都合ばっかり

いってるようだと

それはきかれないし

また

そういうのを

祈り

とはいわないんです


祈りがきかれる

きかれないというのは

それによって

その人の本心が

本当にひらかれ

その人自身が

みがかれてゆくかどうか

ということを

守護霊や守護神が

みていて

それでよし

となったら

きかれたり

きかれなかったりする

だから

祈りというのは

あなたまかせなんですよ


ただね

私心(わたくしごころ)ではなくって

自分の身に代えても

子どもを救って欲しいとかね

そういう

身命を賭した祈りの場合には

きかれることがありますが

本来

祈りというものは

神からわかれてきた

分生命分霊としての

自分に出会って

そして

神に感謝してゆく

というものですから

すべてを感謝してゆくなかで

その人に今

必要でないものは

与えられないわけなんです

守護霊守護神や

神様というのは

その人にとって何が必要で

必要でないのか

ということを

長距離ランナーの助走者のように

よくみているわけです


ですから

その人が

どうしても行きたい場所がある

ここに転勤したい

と思ってても

一番嫌な一番行きたくないところに

行かされたりする

そうすると

肉体人間というのは

すぐ

神も仏もあるものか

とおもったりして

そういうわけで

私なんかも

うんと恨み言しょってるんですけど

まったくこれを光にかえてくというのは

なかなかホネの折れることでね

これは冗談ですけど


そんな風に

今この人を

望みどおりに動かすと

この人の魂の成長にはならない

本心がひらきにくいって

むこうが判断したときには

これはてこでも動かないんだね

それで

祈りがきかれたきかれない

ということになるんです


人間が

その持っている想念どおりの

世界をつくってゆくというのは

そのとおりですけれども

心境というのは

微妙にかわるでしょう

一日のうちに

地獄に行ったり極楽に行ったりね

人間というのは

いそがしいんです

それで

移ろいやすい肉体人間の心を

祈りでもってしっかり浄化しながら

少しでも高い所へとみちびきたい

というのが

守護霊さんの愛念ですよ


この世で

そりゃあ色々なことがあります

だけど

人生の苦労というものを

味わって

人の苦労をしてね

その上で

それを

世界平和の祈りのなかに

投げ込んで

みんな消えてゆく姿だ

守護霊さん守護神さん

ありがとうございます

とかえしていったら

絶対悪くなりっこないんです

それだけ

光になってゆくんですから


祈りというものの

真実のすがたを

求めながら

世界平和の祈りを

唱えつづけてゆくとき

本心がひらき

そして

一人びとりに

もっとも必要なものが

与えられると同時に

しっかりと

私どもは

神の愛に

抱かれているのであります

今 あなたがいるその場所で・・・

2010-10-24 11:17:00 | 癒し

 
あなたがいる
 
その場所で
 
世界平和の祈りを
 
祈って下さい
 
如来印を組まなくても
 
正座をしなくても
 
かまいません
 
世界人類が平和でありますように
 
という
 
この祈り言を
 
心に
 
うかべるだけで
 
辺りが
 
光明化されていくのであります
 

思うだけでは
 
いけないのか
 
という人もありますが
 
思いですと
 
それはその人が思ったこととして
 
そこまでの
 
エネルギーでおわってしまうのですが
 
祈りになりますと
 
祈りというのは
 
神様に
 
自分の全部を領けてしまう
 
ことでありますから
 
つまり
 
神様によって
 
エネルギー切れすることのない
 
すっかり新しくされた自分というものが
 
瞬間瞬間に
 
かえされてくるのであります
 
そうして
 
私どもは
 
その自分を力にして
 
さらに祈って
 
大元の光にむかって
 
進軍し
 
人類の進化にむけて
 
絶えざる歩みを
 
つづけているのであります
 

本来
 
人間というものは
 
祈りづめに
 
祈っているものでございまして
 
たとえ
 
肉体の自分が
 
眠っているときでも
 
本心の自分が祈り
 
守護霊さん守護神さんが
 
祈っているものであります
 

それなら祈らなくても
 
いいじゃないか
 
といわれそうですが
 
この肉体をまとっている
 
肉体人間の世界では
 
神や仏の世界から遠くはなれ
 
祈りを忘れて
 
ただ自己欲望が
 
満たされてゆくため
 
だけの生活を
 
永年
 
つづけてきました結果
 
この地球の想念波動が
 
すっかり
 
汚れ切ったものと
 
なってしまったのであります
 

このままいきますと
 
人間の
 
おもいでもって 
 
この地球は亡んでしまう
 
という
 
一歩手前迄
 
きているのであります
 

そして
 
神様が
 
私をとおして
 
世界人類が平和でありますように
 
日本が平和でありますように
 
私達の天命が完うされますように
 
守護霊様ありがとうございます
 
守護神様ありがとうございます
 
という
 
世界平和の祈りを
 
あたえて下さり
 
この祈りを唱えるときには
 
救世の大光明が
 
光の柱となって立ち
 
祈っている人とともに
 
世界人類そのもの
 
その全体を
 
光明化する
 
光にかえしていく
 
という
 
約束を
 
いただいたのであります
 

そこで
 
現在地球に住んでいる
 
人達のなかで
 
地球の平和を望まない人は
 
一人もない
 
わけでありますから
 
この全人類の悲願である
 
世界平和の祈りを唱えて参りますときに
 
世界平和の達成が
 
早まっていかない
 
ということは
 
断じてないのであります
 

また
 
この祈りは
 
私ども人間が
 
神の分生命
 
分霊として
 
わかれてきた
 
その大元の世界
 
本心の世界へと
 
肉体のまま
 
無理なく
 
かえしてゆく祈りでありますから
 
地球の浄化と
 
完全平和実現のための祈り
 
とともに
 
私どもを
 
等しき
 
ふるさとである
 
神のもとへと
 
いざなう
 
祈りでも 
 
あるのであります
 

自分という存在が
 
何処からきて
 
何処へかえっていくものなのか
 
多くの人々は
 
その魂のやすまりどころを
 
求めて
 

 
彷徨(さまよ)っておりますが
 
すでに人間というものは
 
安心立命している
 
存在なのだということを
 
この世界平和の祈りは
 
私どもに
 
如実
 
教えてくれるのであります
 

どうぞこの
 
大元のいのちへとかえる祈り
 
人類の絶えざる進化にむかっての
 
祈り
 
人類の悲願である祈りを
 
くちびるにのぼせて
 
日々を
 
過ごしていただけるならと思います
 
どうもありがとうございました

つよさ

2010-10-23 12:06:09 | 癒し
誰でも
 
つよさ
 
というものに憧れます
 
憧れて
 
勇士の物語なんかを読んだりする
 
そして
 
自分も物語のなかの主人公のように
 
ああいうつよさを持ちたいと思う
 
勇気を持ちたいとおもうんです
 

だけど
 
本当は
 
ただつよさに憧れるだけじゃなくて
 
その主人公なら主人公が
 
本当に生きているところ
 
そういう場面に
 
感動してるんです
 
その人の生命が
 
生き生きと
 
躍動しているところに
 
ぶつかると
 
我々の心は
 
よろこぶように
 
出来てるんです
 
なぜか
 
それは
 
さながらのいのちを
 
生きているからです
 
その人に無理がなく
 
いのちがスッキリと流れているからです
 

なるほど
 
この人ならそう思うだろう
 
そう行動しただろう
 
とおもいながら
 
我々は
 
主人公の世界に
 
ひきこまれていくのであります
 
そうして
 
全体をよみおわったときに
 
印象にのこるのは
 
主人公のつよさとか
 
勇気でありますけれども
 
我々は
 
本当は
 
その人をとおして
 
人間というものに感動するのであります
 

ところで
 
つよさとはどういうことかと
 
いうと
 
本当に自分自身と
 
いうものを
 
識っている
 
ということであります
 
あるいは
 
識ってゆく
 
識ろうとする
 
ということであります
 
そのために
 
我々は
 
自分というものを
 
神様に預けて
 
消えてゆく姿で世界平和の祈りを
 
なしつづけているのであります
 

先に申しましたように
 
本当の人間というものは
 
無限のなかに生かされている存在
 
ですけれども
 
私どもの真実のすがた
 
何物にもとらわれない光そのもの
 
自分自身というものは
 
ひたすらな祈りによってこそ
 
しらされてゆくのである
 

そして我々は
 
世界人類が平和でありますように
 
日本が平和でありますように
 
私達の天命が完うされますように
 
守護霊様
 
守護神様
 
ありがとうございます
 
という
 
世界平和の祈りのもとに
 
参集しているのであります
 
祈りによらないでは
 
本当に自分を識っていく
 
ということはできないのであります
 

先程の物語の主人公に
 
ひかれてゆく
 
ということにしましても
 
無理のない
 
背のびのない
 
人間のすがたというものに
 
ひかれている
 
けれども
 
もう一歩すすめると
 
それは
 
そういう風に
 
人間は
 
どうしてなってゆくのか
 
その力というものは
 
どこから与えられているのか
 
という
 
私どもの
 
根元の根元にさかのぼっていく
 
ことになるのであります
 

たとえば
 
あの人は自分をよく知っていると
 
普通いう場合には
 
その人自身が
 
自分の立場をよくわきまえている
 
とか
 
さらにすすめても
 
自分の短気をよくおさえて
 
人とつき合っている
 
とかいうことになるわけです
 

自らの足らざるところをしって
 
しりつつ生きる
 
そしてそこに
 
生かされているんだという
 
思いなり祈りなりがあるときには
 
これはもう祈りながらの生活と
 
いってもよいかも知れませんが
 
さらに自分というものを
 
大生命のなかに投げ込み
 
神のなかにあずけてしまうと
 
そこから
 
本然の生命というものが
 
あらわれてくるわけであります
 

そしてそのなかに
 
つよさというもの、神からながれてくる光
 
をうけて
 
今、自分がここに存在するのだ
 
神様ありがとうございます
 
というこころで
 
自分の生命をいただきなおしますときに
 
本当の自分をしるよろこびのなかでの
 
つよさ
 
というものを
 
受けとることができるのであります