わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

生命について

2010-07-31 11:12:15 | 癒し
 生命とは、永遠の神の愛、宇宙神のふところ深く

放たれている愛の光を本源としたものであります。

 人間は、この宇宙神から、ずっと分かれきたった

神の分生命であるわけであります。


 よく私どもが、おもいを消さなければ消さなければ、

とおもう。ね、宗教をやっている人であれば、悪い

おもいをだしちゃいけないいけないとおもう。

 それは、そのとおりなのですけれども、何物にも、

何事にも動かされないかがやく生命いいかえれば、

本心本体というものが我々の奥にあって、つねに神様

から愛の光をいただいている。日々瞬々に、新生し

つづけているのが生命の本体だとは、いけないいけない

とおもっている人は中々おもいにくいわけです。

 
 そこで、それでは本当の生命、私が今申しました

かがやく本心本体というものを、どういう風に体得して

ゆくのかと申しますと、それは祈りによって体得して

ゆくのであります。祈りによるほか、本心本体を知る

術はありません。


 ところが「宗教」によって良心が鋭くなっている人達は、

自分の心の動きというものに敏感になっておりまして、

少しでも、神様に遠い思いが出てきたとおもうとすぐに、

その気持だけではなく、自分自身をも否定してしまう。

 これを、卑下高慢というのであります。

 実は、この人達が、心だとおもっているものは、情で

ありまして、本心本体というものではありません。

 情にとらわれていけないとおもい、己れを否定する。

 これをも業というのであります。


 人間の本心本体と申しますものは、まことにさわりの

ない、自由自在な神の光そのものなのであります。

 この真実の光そのものの自己に対面し、いのちに

とけゆくために、祈り心があり、祈りがあるのであります。


 こうした人をみちびいて参ります場合には先ず、

その人にむかって語るというよりも、人間一般、人間の

持っている思いグセというものに対して語りかけるという

気持ちで、話しかけた方がいいのであります。

 そう致しませんと、目の前の相手にむかって枠をはめる

ことになり、それは、生命が本来持っている自在さ、

本心本体を照らしている光明から離れる結果となるからで

あります。


 そうして、人間というものは、気持ちの動きを或る一瞬

とらえただけでははかれない程不思議な深い存在であり、

第一に、生命というものに、人が眼をむけた時、おのずと、

不思議さが、心の底から湧き上がって参るんであります。


 この、いつの間にか、おのずと、というのが、神の光、

いのちの流れの極みともいうべきもので、ふんわりと、

祈りの座に共にすわるうちに、その人は、すっきりとした

心持になり神の愛、いのちのすがたに抱かれてゆくので

あります。


 このように、生命というものは、実に霊妙な神のひびきを

持っているものでありまして、生命に礼拝するとき、我等は、

しっかりと神のもとにある自分を感じ切ることができるので

あります。

世界平和の祈り

2010-07-30 10:43:59 | 癒し
 もう何十回何百回か知りませんけれど、世界平和の祈りに

ついては申してまいりましたけど、まあこんなに分かり易い

祈りはない訳ですね。真理の祈りといってもいいけれども、

まず現代、この祈りに反対する人がない。

 たいてい宗教宗派の祈りというものはね、何か一つこれを

拝まなきゃ駄目という風な形で出発しちゃうから、そこに

把われが出来るんだけれども。


 世界人類が平和でありますようにというのは、これはもう

大本心の祈りですね。そして、神様の祈りですね。

 これに反対しようと思ったって、これに反対する人は

なかなかないんですよ。だから、うまく考えられた祈りですね。

 考えられたというよりも、神様方の御心を現わした祈り

ですね。そういう意味で、これは真言だけど、神様の言葉でも

あるし、真実の言葉でもあるけれども。


 しかし、やっぱり皆それぞれに宗教宗派というものを、

日本という国は特にもってますからね。

 曹洞宗だ浄土宗だ浄土真宗だ、キリスト教だ創価学会だ

金光教と、あるでしょ。

 それぞれに皆、祈ってきた対象、祈っている対象、自分は

こっちを祈っていても他の人は別のを、というのはある訳ね。

 その時に、何が何でも世界平和の祈りと言わないことです。


 世界平和の祈りというのは、何も強制しなくても、すっと

その人の本心の中へ入っていくものなんですね。これを

広めないと、広めないと、とやってしまうと、ピースポールは

立つかもしれないけども、祈りは深まっていかないということに、

極端に言えばなるんですよ。

 でも生身の人間というのは大事なんです。その気持ちと

いうものも大事なんです。

 気持ちの流れというものをくまないと、我々生きてる人間関係

というものは、この世の中ではありますからね。

 その中で、世界平和の祈りというものの素晴らしさとか本質

とかいうものを知らせていこうと思えば、まず世界平和の祈りが

ありますよ、ありますよという風なことを言わないでね、やっぱり

和顔愛語で人に接していってね、そうすると、ああこの人の

やさしさ、この人の深さは何か違うなあというようなものを、

神様の方が感じさせて下さるんですよ。

 で、それを皆が感じとって、ああこの人何かあるなあという風に

なれば、やっぱり聞いてきますよ。


 五井先生の本でも誰の本でもね、体験談のものでも、渡して

もらえばね、あとはこっちでスイッチを切り換えますから。そう

しないとねえ。日本というのは特に宗教の国ですけどね、

霊(ひ)の本(もと)という位で。

 本にも書きましたけど、要するに、霊的に指導者の立場に

ならないといけないのが日本人だけれども、それは気負いたって

なるんじゃないんです。いつの間にか染みわたるように、本心の

流れが皆の中に染みわたるようにね、そういう風に導いていく。

 そういう役割を日本人がもってる訳です。日本人がもってるの。

 だから、その流れに逆らった時にはね、つまり、強制したりする

ようになった時には、せっかくこのものすごい光明真言である

祈りが、その大光明が発揮できなくなっちゃう。

 こっちの光の流れは止まらないんですよ。全然遮(さえぎ)られない

けれども、それを受ける人の想いに何かわくが出来て、そうして、

受け入れられないという拒否の想いがきた時には、その光がすっと

降りていけなくなるんですね。


 だから、その人の立場、年齢、経験、その人の家の宗教、何を

その人が信じてきたか、信じてこなかったか、そういうものまで

ずっと心を配って、その上で伝えていくということがないとですねえ。

 私なんか、まず話を聞きますよ。もちろん祈りが一番大事だけれども、

祈りをしましょうかとか言うより前にね、祈り心でもって、その人の

悩み苦しみというものをずっと聞いていくんです。

 すると、聞いてもらうと、人間というのはねえ、静か心というものが

生まれて来て、そうして、ああ良かったなあ、聞いてもらえて

落ち着いたなあという気持ちになってくるんです。そういうやさしさと

いいますかねえ、労りがないと、宗教というものはね、じわじわ

染み込んでいかないんですよ。


 宗教というものが、生きてる人間を尊敬しないものだったら、これは

何にもならない。害するものだったら何にもならないんです。戦争する

ような宗教だったら何にもならないでしょ。

 宗教というものはね、やっぱり自愛他愛の宗教じゃないといけない。

 自分を愛し、人を愛し、自分をゆるし、人をゆるし、でないと駄目

なんです。


 人の生命を尊敬するということは、その人の立場をまず認めてあげる。

 その人の立場をまず受け入れて、それから話をする。それにはねえ

苦労がいりますよ。洞察もいりますよ。色んなことがいるけれども、

やっぱり私達には限界がありますね。

 だから、祈って祈って、守護霊様、守護神様、五井先生、五井先生と

呼んで下さって構わないから、五井先生お願いします、神様お願い

しますと、祈り心でその人に向かい合うとね、その人の今までは

見えてこなかった、欠点ばかりじゃない、弱さとか辛さとか苦悩だとか

いうものが見えてきて、ああこの人には上から物言っちゃあ

いけないなあとか何とか、守護霊守護神が知らせて下さる。だから、

その知らせに従って、自分の心が唇が動いていくようになって

いくんです。それが任せるということになるのね。

 任せよう任せようと思っても任せられないんです。そんなことは

一切抜きにしてね、ただふんわりと座って、ああ大変だなと

思いながら聞いてあげる。生身の一人の人間として聞いてあげる。

 そういう事がね、支部や集会という集まりをする人達の、指導する

あなた方の立場としては、とても大事なことになってく訳ですねえ。


 我々は、神様によって生命を新しくされるし、心も新しくされるし、

本心というものを磨いていただくんです。

 神様によって我々は生きてる訳だし、糧をいただいてる訳で、

我々の生死というものも、天命というものも、神様が貫いてずっと

見て下さる。その信仰の上に立ってね、そうして、色々なものは

神様が与えて下さるから、その上で、世界平和の祈りを唱えていく。


 世界平和の祈りの中に、日蓮もいれば親鸞も法然もいる、あれは

神様の寄り集めの所ですよ。あの祈りの全体というのはね。

 だから、どの宗教であっても、くっつけて祈っても祈らなくっても、

世界平和のせと言っただけで、皆あの中に全部入ってるから、宗教を

超えちゃった祈りなんだけれども、やはり、その人の立場の尊敬、

生命の尊敬というものを一番にしてね、あなた方は、その上で自分を

磨いていくということから始めていかないと、上から物言うとね、

相手の心を萎びさせちゃうことになる。


 初めから難しい課題を出したって、人間というのはやっぱり駄目

なんです。1+1=2から始めないとね。あるいは、1の前はゼロが

あるという、ゼロ以下のところで苦しんでる人が沢山いるの。

 だから、そこへ百をもってきても駄目なんですね。いきなり百を

解けといっても、ゼロ以下のところで喘いでる人にね、百の

ところまで登っておいでといっても無理なんです。


 ただ世界平和の祈りというのは、その百のところまで、あるいは

千のところまで無理なく背伸びなく、すっとゆける。

 光の集まり所だから、そういう祈りなんだけれども、そこへ

導く為にもね、一旦は生身の人間の憂い辛さの所に立って、そういう

所へ降りて、苦労をして、その上で共感をして、そうして

大変ですねと言った末に、自然に皆さんで、では世界平和の祈りを

しましょうかと言って統一が出来るように、そういう雰囲気づくりを

してゆく。ね、ここは本当に雑談の場でいいんですよ。悩みの

捨て所であっていいんです。


 そういう所から、人生の苦労というものの諸相が見えてくるし、

生きるということの大変さもねえ、又色んなことも見えてくるし

分かってくるしね。これも我々の修行なんです。

 だから、全部神様が備えて下さるから、神様に任せて、

そうして祈って頑張ってやっていって下さい。








 










浄 め

2010-07-29 10:24:40 | 癒し
 自分で悩み、かなしんで、どうしようもない気持に

なることが、我々にはしばしばある。

 けれど、本当のことをいえば、悩んでいる自分や、

かなしんでいる自分をとおして、自分を人を浄めて

いるんだよ。

 そういうところを一つ一つくぐり抜けて、人は、

本体と一緒になるんだ。

統一は大事だけれど・・・

2010-07-29 10:10:56 | 癒し
 統一は大事だけれど、私の口笛やかしわ手の中にだけ、

統一があると思うのなら、それは大きな間違い。

 
よい音楽をきいて、

ゆったりと心が広がるような気持になる時、

まごころを込めて料理をつくっている時、

あれこれとおもいわずらう波は消えている。


 一瞬一瞬が統一であり、統一は、みんなの心と

からだにセットされたものなのだ。


柏手と印

2010-07-28 11:12:51 | 癒し
 私は柏手と口笛と印でずっと浄めてきました。口笛

というものは、これは特殊なんでね。なかなか皆に

こうなんですって言ってあげられない。

 ただ、柏手とか印とかというのは、これは時に応じて

必要に応じて、皆それぞれに出るように、器としては

今なってます。


 せっかくの機会ですから、実習を兼ねてやろうと思い

ますが。

 人によってね、柏手も印もこれはどういう違いがあるのか

という、まずそういう初歩的な質問があると思うけれども。

 どっちも違いはありません。

 柏手とか印とかそういうものを使って大事なことは、

神界からのね、高いところからの神様の愛というか祈りというか、

非常に深い流れをあなた方の柏手や印を通して流す。

 あるいは、私の柏手や印を通して流す。とそれだけですね。

 だから、中継地点になる訳です。


 皆がこう組む如来印があるでしょ。如来というのは、要するに、

仏様の中に私は一体になって仏様の慈悲を現わしますという、

そういう存在でしょう。

 その如来印を組むことによって我々は、神様の光と一体になって

あなたのお役に立ちますということですよね。印形を組むという

ことは、そういうことです。


 印というのは色んな形がある。皆泊り込んで色んなことを

やらされたから覚えているでしょうけれども。

 本当に色んな形があって、どれとどれを組み合わせてどうの

こうのと皆やるけれどもね。確かにそれは必要に応じて出て

きますけどね。

 本当はそういうものじゃなく、柏手にしろ印にしろ、そこで

無になって打ち、無になって切ればね、神様という方がそこで

立ち現われて、目には見えなくても、浄めて下さるわけ。


 その上にね、統一というものがある。柏手と印を使って、

あるいは口笛を使って、私が何で統一のテープうんぬんとか、


統一会をやったかというとね、ああいうものというのは人間の

意識を呼びさまされやすいんですよ。


 例えば、ふっと眠くなる。パァーンと叩く。眠ったままでも

いいんです。そのままでふっと叩くということはですね、

自分の中の肉体の奥の奥の体が目覚まされて、つまり、霊性と

いうものが目覚まされて、そうして、それによって、あなた方の

行くべき世界というか、帰って行くべき世界というか、そういう

世界が色々あるけれども、その中でも、一段二段三段無になって

それをきけばきく程、ずっと高いところへふっとつれていって

下さる。守護の神霊が。あなた方が意識するしないに関わりません。

 そうして、色んな想いの掃除をして下さる訳です。で、きれいに

なって、地上で又たたかえる様に還ってくる。その時

空になれる訳です。


 空というのもね、これも本当に面倒な言葉でね。空というのが

悟りの最後の境地とか何とかというけれども、本当は空にも

把われちゃあいけない。無にも把われちゃあいけない。

 難しいですよね。ただそういう風に言葉で言っちゃうと、もう

その言葉に把われてしまうでしょ、人間というものは。

 だから、私がいつか言ったみたいに、テープにいつも吹き

込まれているけれども、ただふんわりとして、そのひびきに

のって、流れにのってゆけばいいんだといいますけれどもね。

 というのは、皆おもいで世界を作っちゃう、人間は。


 だけども、本当はね、世界というものは何で造られているか

というと、神様のひびきで造られているんです。

 
 だから、その霊妙なひびきに統一する時に、その肉体の

波動ではなくて、本来のあなた方の奥の奥の奥にある霊妙な

響きにつながらせて、連結させて、そうして、私たちがもっと

細かな霊妙な働きが出来るような体にいつの間にかさせて下さる。

 それが、柏手とか印とか口笛とかいうことです。

 
 やっぱり、耳で聴いてね、ああ、お浄めをしていただいている、

五井先生が今口笛を吹いて下すってる。あるいは、印をきって

下すってるとか。

 人間というのは、やっぱりしるしを求めましょ。それは仕方の

ないことです。

 だから、しるしというものを通して、実は、しるしの奥にある

神様の愛というものをこちらから光で降ろすンです。

 なげるんですね。いつも言いますけど、柏手というのもね色々

あって、長く叩けばいいというものじゃない。長く叩けば叩くほど、

その人のもっている宿題とかね、辛いこととか、多いんですよね。

 だから柏手というものはそんなに長く続くと、ああ大変だなと

思ってくれればいいんですけど。

 とに角、柏手というものは叩こうと思って叩けるもんじゃ

ないんですね。ひびきだから。人によって、真っすぐ叩けばいい人と、

いい音というと又そのいい音に把われるかもしれないけれども、

そうじゃなくって、神様のひびきというものが出やすい人とね、

ななめに叩けばいい人と色々あるんですよ。


 例えば叩いてみましょうか。例えばね、パンパンパン・・・こういう

音とね、パンパンパン・・・こういう音とね、色々あるんです。

 それは種類によって色々あるけれども、ただこの人は、今

しゃべってるこの人はね、パンパンパン・・・こう叩かせた方が

高い音が出るし、人によってはね、こういう叩き方じゃなくって、

パンパンパン・・・この方が高い音が出る人もある。

 又、こういう風にパンパンパン・・・もっと力を入れて

パンパンパン・・・はいよろしいです。これはね、こうやると

だいたい高い。これは何の時のものかというとね、癒しを

する時に、パンパンパン・・・この後の方にひびいてくる音ではなく、

最初に出てくる音がありますね、高ーい、その高いひびきという

ものが、この世の中でいえば、薬師如来さんの働きをする訳です。


 だから、病気を治して下さい、祈って下さい、お浄めをして下さい

とかいう時には、会の方では色々制約があるでしょうから、その辺

うまくしてもらわないと今大変だろうけれども。

 一人でここでやる場合にはね、こういう風にして、

パンパンパン・・・、そうしてパンパンパン・・・こう叩く

パンパンパン・・・こういう風に。要するにここには

かからないですね。ここで叩かないと。親指はよけといて

四本の指で、この人がやっているように、左手でも右手でも

いいけど、手のひらを叩く。

 叩ききってゆくとね、高ーい澄んだ音が出る。そうすると、

それは癒しになっていく。癒しの光になっていく。


 それからね、人の想いとかね、そういうものが邪魔をして

くっついてきた時にはね、これはたてにパンパンパン・・・こういう

風に。そうすると想いが散るんですね、光で。 又、両方がある

時には、それはもう向こうに任せてしまって、パンパンパン・・・、

役割分担じゃないけれど、両方浄まってゆくんですね。

 これは何かというと、キリストの十字架なんですよ。たてよこ

十字の。キリストというのは癒しましたからね。手当をしたのは

彼ですね。手を当てて病人を癒したでしょう。

 だから、これをこうして十文字にやる時に、世界平和の、平和の光、

そういうものがポーンとここへくるわけ。

 こうやって、パンパンパン・・・、高い音を出した時に、癒しの光が

スゥーッといくんです。


 これは一つの方法的なことですけれどね、そういう形で浄めて

いったら、いつの間にか、自分が叩き叩かせてもらってるんだ

けれども、そのひびきの中へスゥーッと入っていく自分というのが

ある訳ですね。 出てくる。

 お浄めをするかされるかどっちでもいいけれども、そこで自分も

浄まっているんです。人を浄めるだけじゃない、自分も浄まって

いるんです。だから、人も自分もなんです。


 世界平和の祈りの教義の中にありますでしょ、つまり、個人も

人類も救われる祈りだというのはそれなんですよね。

 仏教的にいえば自分にとってもおかげの深い祈りである。で、

他の人にとってもそうなんだ。自己の為にもなり他己の為にもなる。

 そういう祈りを基盤にして、我々はお浄めをしているし、

業を光に変えている。そこの祈りに対しては本当に自信をもっていい。

 そして、このキリストのね、まあキリストにこだわることは

ないけれども、そういう十字架に現わされた愛、たてよこ十文字の

世界全体をつなぐような愛と、その愛に対して合掌するおもいですね、

それが両方交差したこの相手というもの。そこから出てくるひびき

というものは、これは浄めずにはおかないんです。


 それから、印にしたってね、例えば、この人にやらせているのは、

色んな人が今来ていますよ、ここへ。

 それでやらせているのはね、ずっとくっついている霊体なんかが

ある、こういう時には、こうするんですね。(実演)そして、

こっちもこうして。そして、背中というのは皆くっつく。だから、

ちょうどお掃除をするように、この三本でかき出すんです。おもいをね。

 自分が出来ているか出来ていないか別としましてね、はき出す。

 そういう時に、こっちは受け皿にならなきゃならない。これは、

仏教で言えば、大乗の心ですよね。誰をも救わずにはおかないという

神様の御心ですね。そこへ皆入れるんです。

 
 お浄めをする時に一番大事なことは、その色々な現象、とっついて

きたもの、それに対して、向こうへ行けあっちへ行けというんじゃ

なくてね、神様というのは、本当はあなた達を愛しているんですよ、

あなた達を本当に大事に思っているんですよ、だから、その大事に

おもって導いて下さる世界へ一緒に帰りましょう。五井先生に連れて

帰ってもらいましょう、神様の大愛によって愛念によって連れて

帰ってもらいましょう。

 そうやってね、愛情をもって呼びかけることなんです。


 困ったことだなあ、私に出来るかなあ、やらせてもらえるかなあ、

と思いながら自信なく柏手を打ったり、印をきったり、フェロー印

でも何でもそうですよ。私なんかがもったいないとか思ってやったり

したらね、せっかく上からこうやろうと思っているのに、光が

とどかない。そうじゃないんです。

 そういうものを全部含めてね、自分も浄まり相手も浄まり、

全体の為になる。一つの修行なんですから。


 印にしろ柏手にしろ、五井先生の柏手にしても印にしても口笛に

しても、統一全体にしろ何にしろ、皆が朗らかになってゆく、

そのことの大本なんですよ。

 そのひびきを伝えるのが、印形であったり、柏手であったり、

色々な形である訳です。だから、そこを信頼して信仰をして

やっていったらね、自分に対して真実の信頼が出てくるし、信仰も

出てくる。 そういうことですね。



 浄めをたのまれたら、神の愛念、祈り心で自分をなくして

かからなければいけない。
 
 かしわ手も、必要なだけ、神様が打たせて下さる。



 ただ黙って手をおいてあげること、祈ること以外に方法が

ないような場面に、しばしば私達はぶつかる。その時こそ、

まごころをこめて手をあて、祈りなさい。

 神がすべてをそなえて下さる。