わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

ありのままの世界(4)

2020-08-31 07:47:29 | 癒し
      (前日からの続き)
この世界は業に満ちておりますけれども、
業というものは善業も悪業もある訳です。
仏教的に言えばね。
そしてそれは自分の想いによって決まる訳
ですよね。
そうするとやっぱり、自分の身から出て
ゆくもの、自分が受けるものというものは、
どっちにもなる。
染まってゆく訳ですね。
で、自分の責任においてというのと、
向こう側の責任において背負わされたもの、
いろいろいろいろあるけれども、とに角
業に満ちた世界であっても、この世界を、
誠実に生ききることによってですよ、つまり、
味わいの深い、人間として人の心のひだまで
感じとれるね、霊的なとか何とかそういうこと
抜きにしても、本当に人間らしい優しさとか
寂しみとか悲しみとか、そういうことが
底深くわかる人、そういうものになってゆく。
そういう人になっていく。
それがまず大事なんですね。

宗教とか何とかってことよりも、そっちの方が
大事なんです。
その一つ一つ、その瞬間瞬間に、本当に悩んで
苦しんで喜んでってことが出来ない人ね、
中途半端に何かこう“神様”ってすがるとか、
誰かに言っちゃうとか、そういうことだと
やっぱり真剣にこの世の中を渡ってゆくって
ことが出来ないんですね。
だから、悩みきる、悲しみきるということ。
悲しみきったら今度は喜びの方へ上っていくしか
ないんですよね。 
         (翌日に続く) 




ありのままの世界(3)

2020-08-30 10:21:03 | 癒し
      (前日からの続き)
肉体をおいて向こうの世界に移るんである
にしろ、往相ということがすんなりゆく人
ゆかない人ね。
それは死ぬことだけじゃなくって、生き方にしろ、
デコボコの中を行かなきゃなんない人、あるいは
真っすぐ行って真っすぐ行ききったと
思えるところからポーンと落ちてしまう人、
いろんな苦労といいますか、修行といいますか、
そういうことをさせられて、人間というものは、
一通りの道じゃない二通り三通りの道を
あるいは十通り百通りでも、その人によって
違う色合いの道を皆歩かされてゆく訳です。
そうして、生きることの大変さというものを
味わってゆく。
だけども、それはただ苦を引き受ける訳じゃ
ないんだね。
ただ悲しいということを引き受ける訳じゃない。
             (翌日に続く)

ありのままの世界(2)

2020-08-29 09:31:40 | 癒し
     (前日からの続き)
仏教にしたっていろんな宗派がありますね。
キリスト教にしてもありますね。
釈迦の教えというのは本来一つなんですよね。
本来一つというのは、どっから入っても同じ
という意味じゃありませんよ。
つまり、釈迦が悟って、菩提樹の下で悟って、
そして37日間ね、これはものすごく
自分にとっては味わいの深いもんだけれども、
これを一般の世間の人たちに喋べっちゃったら、
これは分からないんじゃないだろうかと悩んで、
そしてこれはやっぱり自分一人だけの悟りの
内容にしておこうというのをですよ、梵天
というインドの神様が出てきてね、三度
この世の中の世界の人たちのために、釈迦の
悟ったあの内容をどうしたって広めて欲しい、
口から出して欲しい。
そうすることによって皆救われてゆくんだ
ということをいう。

梵天というのはインドの最高神ですから、その
インドの最高神が、三度釈迦のところへ来て
頼んだということは、一つの大きな人間世界へ
光明が降りる転換になってる訳ですね。
つまり、福音というものがね、キリスト教的に
言えば、一人のものではなくなってゆくと。
喜びごとというものが一人のものではなくなって
ゆく。

その喜びごとというのはこの場合何かといえば、
自分の肉体を満足させるだけのもんじゃない。
気持ちを満足させるもんじゃない。
それだけのもんじゃないんですよ。
つまりそれは、自分の魂、霊体ですよね。
奥の体、そういうものを本当に納得させて
喜ばせて、その魂が打ち震えるほどの喜びを
実感させて、そうして、本当に何でここに
我々人間が生きてるのか、どうして人間という
ものは年を重ねて老いてゆくのか、なぜ死な
なきゃならないのか、ということをすべての
深淵な教えというものは説いていってる訳です。
そして、死というものを突き詰めて考えている
訳ですね。
私などは、死というものは隣に移るようなもんだ
というのは分かっていますけれども、それでも
なかなかね。
皆さんの質問を聞いたりしていると、やっぱり
死ぬということは大変なことです。
              (翌日に続く)

ありのままの世界(1)

2020-08-28 09:53:12 | 癒し
この世の中の過ぎ行きというものを眺めて
おりますと、いろいろな喜びやら悲しみやら、
いろんなことがあります。
なかでも生まれるという事と死ぬという事、
これは本当に人間の一大事だなあということが、
これは皆様が誰もが感じておられることでは
ないかと思いますが。

生まれるということに関しては、人間という
ものは誰も疑問をさしはさまない訳ですね。
誕生する、人の生命が新たに生まれてくる
ことに対する喜びといいますか、それを迎える
喜びといいますか、これはもう等しく皆が
同じ想いで新しいものを迎える訳ですね。
ところが、死ぬということですね。
肉体から離れていくということについては、
これはもう不安で不安で、恐怖で恐怖で。
この世の中のすべての芸術やら宗教やら、
人間に関わってく想いのものというのは、
この人間の死というものに対する一つの明確な
答が欲しくって、それでいろいろなものが
生まれているといっても差し支えない程ですね。
          (翌日に続く)

人間について(4)

2020-08-27 08:50:15 | 癒し
     (前日からの続き)
今の私の想いとしたら、白光の人であろうと
なかろうとね、やっぱり、この祈り言に
目をとめ心に想い祈りをしている人、
その人たちを先駆けとして、全部の人を
救っていきたい。
そういう手伝いをしてくれる人をやはり
増やしてゆきたい。
だから、いろいろなことを無理を言う
こともあるかもしれないけれども、しかし、
その無理というのは、皆さんの能力以上の
無理は私は言わないつもりです。
それは、私があなた方の本質本心、働きの
深さという本質的なものですよ、それを
知っているから。
現象的には無理をいうこともこれから
あるかもしれないけれども、だけども、
こちらに任せて下されば、私はあなた方の
一生二生だけではない、全部のね、
天命全体についての責任を私はあなた方に
負っておりますから、それを果たすべくね。
諦めないですよ。
諦めるというのは本当は萎んじゃうという
意味じゃなくって、真理を明らかにする、
自分の本体を明らかにする、自分が何者
であるかというものを突き詰めて見つめる、
掘り下げるという意味ですから、そっちの
意味のあきらめるという意味で、自分を
深くして、そうして掘り下げて生きてゆく
生命というものに対して、私は責任を
持ってる訳です。

だから、安心してというのも、安心も
し切れないでしょうけれども、いろんな
想いが出てもいいから、私の方へ
どうぞ任せて、進んで行って下さい。
          昭和63年5月5日
             五井 昌久