わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

ありのままの世界

2010-10-17 13:37:22 | 癒し
 この世の中の過ぎ行きというものを眺めておりますと、色々な喜びやら

悲しみやら、色んなことがあります。なかでも生まれるという事と死ぬ

という事、これは本当に人間の一大事だなあということが、これは皆様が

誰もが感じておられることではないかと思いますが。


 生まれるということに関しては、人間というものは誰も疑問をさしはさ

まない訳ですね。誕生する、人の生命が新たに生まれてくることに対する

喜びといいますか、それを迎える喜びといいますか、これはもう等しく

皆が同じ想いで新しいものを迎える訳ですね。

 ところが、死ぬということですね。肉体から離れていくということに

ついては、これはもう不安で不安で、恐怖で恐怖で。この世の中の

すべての芸術やら宗教やら、人間に関わってく想いのものというのは、

この人間の死というものに対する一つの明確な答が欲しくって、それで

色々なものが生まれているといっても差し支えない程ですね。


 仏教にしたって色んな宗派がありますね。キリスト教にしても

ありますね。釈迦の教えというのは本来一つなんですよね。本来一つ

というのは、どっから入っても同じという意味じゃありませんよ。

 つまり、釈迦が悟って、菩提樹の下で悟って、そして三十七日間ね、

これはものすごく自分にとっては味わいの深いもんだけれども、これを

一般の世間の人達に喋べっちゃったら、これは分からないんじゃない

だろうかと悩んで、そしてこれはやっぱり自分一人だけの悟りの内容に

しておこうというのをですよ、梵天というインドの神様が出てきてね、

三度この世の中の世界の人達の為に、シャカの悟ったあの内容をどう

したって広めて欲しい、口から出して欲しい。そうすることによって

皆救われてゆくんだということをいう。


 梵天というのはインドの最高神ですから、そのインドの最高神が、

三度シャカのところへ来て頼んだということは、一つの大きな人間世界へ

光明が降りる転換になってる訳ですね。つまり、福音というものがね、

キリスト教的に言えば、一人のものではなくなってゆくと。喜びごとと

いうものが一人のものではなくなってゆく。


 その喜びごとというのはこの場合何かといえば、自分の肉体を満足

させるだけのもんじゃない。気持ちを満足させるもんじゃない。

 それだけのもんじゃないんですよ。つまりそれは、自分の魂、霊体

ですよね。奥の体、そういうものを本当に納得させて喜ばせて、その魂が

打ち震える程の喜びを実感させて、そうして、本当に何でここに

我々人間が生きてるのか、どうして人間というものは年を重ねて老いて

ゆくのか、なぜ死ななきゃならないのか、ということをすべての深淵な

教えというものは説いていってる訳です。

そして、死というものを突き詰めて考えている訳ですね。私などは、

死というものは隣に移るようなもんだというのは分かっていますけれども、

それでもなかなかね。皆さんの質問を聞いたりしていると、やっぱり

死ぬということは大変なことです。


 肉体をおいて向こうの世界に移るんであるにしろ、往相ということが

すんなりゆく人ゆかない人ね。それは死ぬことだけじゃなくって、

生き方にしろ、デコボコの中を行かなきゃなんない人、あるいは

真っすぐ行って真っすぐ行ききったと思えるところからポーンと落ちて

しまう人、色んな苦労といいますか、修行といいますか、そういうことを

させられて、人間というものは、一通りの道じゃない二通り三通りの道を

あるいは十通り百通りでも、その人によって違う色合いの道を皆歩かされて

ゆく訳です。そうして、生きることの大変さというものを味わってゆく。

 だけども、それはただ苦を引き受ける訳じゃないんだね。ただ悲しい

ということを引き受ける訳じゃない。


 この世界は業に満ちておりますけれども、業というものは善業も悪業も

ある訳です。仏教的に言えばね。そしてそれは自分の想いによって決まる

訳ですよね。そうするとやっぱり、自分の身から出てゆくもの、自分が

受けるものというものは、どっちにもなる。染まってゆく訳ですね。

 で、自分の責任においてというのと、向こう側の責任において背負わ

されたもの、色々色々あるけれども、とに角業に満ちた世界であっても、

この世界を、誠実に生ききることによってですよ、つまり、味わいの深い、

人間として人の心のひだまで感じとれるね、霊的なとか何とかそういうこと

抜きにしても、本当に人間らしい優しみとか寂しみとか悲しみとか、

そういうことが底深くわかる人、そういうものになってゆく。そういう人に

なっていく。それがまず大事なんですね。


 宗教とか何とかってことよりも、そっちの方が大事なんです。その

一つ一つ、その瞬間瞬間に、本当に悩んで苦しんで喜んでってことが

出来ない人ね、中途半端に何かこう“神様 “ってすがるとか、誰かに

言っちゃうとか、そういうことだとやっぱり真剣にこの世の中を渡って

ゆくってことが出来ないんですね。

 だから、悩みきる、悲しみきるということ。悲しみきったら今度は

喜びの方へ上っていくしかないんですよね。


 光というものは闇を被います。被いますけれど、やっぱり一旦暗い

ところのその気持ちに一回沈んで、底の底の気持ちというものを

人間として味わって、だから、光を今度あの人の為にまわりの為に

祈らせて下さいってことを言えるわけでしょ。その経験がなければ、

我々はこの光を分け与えるといいますか、自分が光であることを

自覚をして、そうして世界人類が平和でありますようにという

この祈りの運動をですよ、世界中に広めてゆくという、このことは

なかなか出来ないんですね。


 人間が光の子であるならばね、神様からの光の一筋であるならば、

そこでもう何も迷うことなくそのまま行けばいいじゃないかという人が

ある。確かにそうなんです。そこに行けば苦労がなかったわけ。

 だけども今この地球のこの世の中に生きてる我々の肉体というものを、

肉体によって養われている生命というものを、やっぱり愛しんで

やらなければいけない。愛しんでやらなければいけない。今の自分の

ありのままの姿というものを認めてやらないと、一挙に光のところに

行ったら、それこそそれはもう気死しちゃう訳ですよね。

 で、やっぱりだめになっちゃう。その辺の所は向こうの世界はようく

分かってるんですね。


 だから、ちょっとづつでいい訳です。ちょっとづつでいいけれども、

と同時に神界は、最速度で何とか出来ないかということで、世界人類が

平和でありますようにという世界平和の祈りを私に与えてね、私の生命を

使ってこの教えを広めさせてる訳ですから、だから、このエレベーターに

乗ればいい訳ですよね。エレベーターに乗って、そうして自分を素直にして、

自分を見る、まわりを見る。

 そうして、ありのままで生きてく。その事が自分の人生を深くし、

まわりを愛深くみることになり、自分自身を充実させることにもなる。

 精神性だけじゃいけませんよ。現実の泥まみれになるという経験も

やっぱり守護霊さん守護神さんから与えられるものなんですよね。


 ある時に我に把(とら)われる。自分で我に把われることもあるけれども、

把われさせられることだってある。それによって自分の魂が何を欲っして

いるか、自分がどう生きなければならない人間なのか、自分の持場は

何なのか、真実に生きるということはどういうことなのか、そういうことを

やっぱり知らされるということもある訳なんですね。だからその辺のことを

やはり弁えて祈っていく。

 とに角、祈りの中へ自分を放り込んでいく。ということが一番大事なんだ

ということを、我々は心の中に静かに想い返して、そうして、世界平和の

祈りをしてまいりましょう。

                   五井昌久