わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

世界平和の祈りと五井先生の唱名

2010-10-16 10:50:06 | 癒し
世界人類が平和でありますようにという言葉で始まる、世界平和の

祈りと申しますのは、私が神様のみ心を受けて、そしてまあ人意的に

申しますと、私が始めたということになっている、唱導したという

ことになっている、祈りでございますけど。


 これは、本当に神様のみ心そのものなのであります。つまり、

それは一言で言えば、神様というものは愛なのだということ。

 そうして、その神様の愛であるということを我々に告げ知らせる

為に、守護霊さん守護神さんというものが、もう絶えることなく

働いている。我々は眠ったり自分を休めたり致しますけど。そういう

休息をする暇もなく、我々のこの肉体生命も奥の生命も、向こうの

世界へ霊界移行しても、もう本当に最後の最後まで、神様の愛という

ものを本当に知らせる為に、我々一人一人を支えて、そうして、

我々の天命が完うされるようにもってゆく。これが本当の神様の愛なので。

 ですから、この神様の愛というものを現わした体現した祈りが

世界平和の祈りなのでありまして、そうして、その神様の愛というものが、

神様から分かれて来た生命である我々人類の一人一人に与えられている。

 そして、与えられているばかりではなくて、我々の体の奥に心の奥に

神様の生命が燃えていて、与えられていて、そうして、その生命によって

我々が生きているということを私が申し上げた形になっている訳で

あります。


 しかしながら、五井昌久が始めた祈りであるならばという言い方を

しますとね、五井先生五井先生と言って、斉藤さんなんかよく唱名

ランニングをしましたけれどもね。ああいう風な形で五井先生と言って

しまうと、何か五井先生にすがってね、そして力も無いのに何か救って

もらおうというような、そういう想いになってしまわないかと。講師の

中にはそういう想いに把われる人もあるやに想います。


 例えば、私は前にも、会に来ているね、統一会に来ている人に、

高校生だったかな、その人に尋ねたことがあるけれども、本にもあると

思いますよ。今、世界人類が平和でありますようにと言えませんと。

 それで、五井先生と言えるっと聞いたら、五井先生だったら言えると。

 じゃあ五井先生と言いなさい。五井先生と世界平和の祈りは一緒

なんだからということを言う。これは、私が始めた祈りだから、私の名前を

言えば世界平和の祈りと私は同体なんだよ。つまり、五井昌久という個人を

高見の所に持って行って、私を拝めば、御利益的なものも現世のものも

来世のものも、全部救われると。救われるというのはそういう風なことでは

ないんです。


 そういうことではなくて、私は、こうして宗教の活動をする前まで、

何を考えていたかというと、悟る前は、人類の為に私の生命が何か

役に立たないか、人の為に何か役に立たないかと。そして、神様の事を

ずっと考えていた。で、主の祈りを唱えた時期があったりね、癒した時期が

あったり、生長の家にいた時期があったりしながら、ついに合体して、

合体してというのは、真実の自己というものと合体した訳ですよね。

 私はあそこへ書いたけれども、つまり、本当の自分の中の本当の自分と

いうもの、光り輝く自分というものをその天界に行って見たらば、輝いて

輝いてて、私はそれを見た時に、まあ何だか色んなことが生活の中に

起って来て、人間というのは、絶えず文句を言ったり悲しんだりするんだ

けれども、しかし、あれを見ると、どんなことをされても、どんなことを

言われても、まあ本当に腹を立てる気にもならない。それ程光明燦然とした

世界がそこにあってですね、そして調和した自分がそこに居た。


 で、その調和した自分というのは、神体の奥の奥のね、この世の中で

働く為の、一番見えない所で、眠らされているような所でというか、

眠ってはいないけれども、皆の目には見えない所で働いているその自分と、

私はその時に会った訳ですね。そうして合体した訳なんです。


 だから、私はそれから以後、肉体というものはもっているけれども、

仮りに食べたり飲んだり眠ったりする為に、その肉体を養う為には

肉体を使ったけれども、そこからの私の生活というものは、結局、

神様のみ心に全部委ねようと決心をした訳です。


 色んな霊修行もしましたでしょう。交差点の車の激しい通りを目を

つぶって歩けとか、何とか言われたりして行こうと思ったけれど、

行けなくなったりとか。そういう無駄なことは、守護霊さんはね、

ささやきで色んなこと言ってためしてくるけれど、結局、私という

人間を死なせないような形でもってね、神様というのは、一人びとりの

天命を果たさせる為には、決して生命のある間は死なせない。そういう

神様の愛護を、あの時私は知った訳なんですが。

 つまり、自分の天命を、あの時に思い知らされてですね、そして、

私がもう一人の自分、神様の、神界の光り輝いている、自分の生命を

つき動かしている、真実の自己というものに出会って、それを肉体の奥から

取り出して、肉体をそえものにして、それをあるじにして出来ていった

時にですね、私はみなさんの目には、ちゃんと話をして、しゃべって、

食べるものも食べてね、頭も刈りに行って、散髪もちゃんとして、背広も

普通に着こなすという、五井昌久にちゃんとなっていたと思いますよ。

 ちゃんと肉体を、死ぬまで可愛いがっていましたからねえ、死ぬまでね。


 だけれども、私の本当の所というのは、それはもう神様と本当に一つに

なった、朗らかな生命そのものである自分が、それから以後は働いて行った

訳なんです。だから、五井先生と呼びなさいという時には、その五井昌久

という、小っちゃいね、こういう個性を持ったね、そういう個人を呼んで

どうのこうのじゃなくて、私の真実の自己、誰もが皆んな持っている

真実の自分自身、光り輝いている迷いようのない疑いようのないね、

把われようのない自己自身ですね、神様の愛ですよ、その自分自身を

拝みなさいという事なんですよね。だから、それが私という名前、

五井先生という名前になる。例えば、クリスチャンの人だったら、それが

イエス・キリストになる。キリストはね、神様の言葉を語った時には、

やっぱり光そのものになっているんです。あの人の中にはイエスという

個人もなければ何にもない。語っている時には全く何もなくなって、

あの人自体は肉体を持っているけれど、もう空になって、その時には

光だけになっている。釈迦にしてもそうですね。つまり、そういう

場所としての自分はあるけれど、しかし、奥で何か眠っていた自分を

引きずり出されて、それが自分の主だという事に気がついて、そこを

本当に拝んだらね、本当に拝んでゆけば、本当に祈りの光が増していって、

自分の生命の光が極まっていって、光明燦然とした世界になって行くんだ、

そうして、神様に一直線につながって行くんだ、その事を私は体験した

訳なんです。


 それと同時に、世界人類が平和でありますように、あの祈りをいただいた

訳なんです。

 ということは、あれは神様のみ心だけれども、もちろんそうだけれども、

あの時に、神様が本当に愛だ愛だ、神様という方は裁いたり責めたりね、

人間を悩ましたり、本来的にですよ、本当のところ人間を愛しこそすれ、

我々をいじめたりとかね、そういうことは決してなさらない。そこの底の

ところで絶対に肉体人間を理解をして、気持ちを理解して、心を抱いて

下さる、そういう方なんだということをね、あの時に思い知った訳ですよ。

 だから、そういう神様のみ心の中に私は飛び込んじゃった訳ね。だから、

世界人類が平和でありますようにという、あの文字に書けば何行かの祈りに

なるけれども、あの祈り言葉の中にも私自身の本体は輝いているし、そして、

五井先生と唱える時にはですね、それは個人のこのちっぽけな男を指して、

それを拝め拝めと言ってる訳ではなくてね。五井先生が、本当に天の私を

見い出してね地上の私と合体させて、そして、朗らかな本当の生命の源、

大生命のもと、大宇宙の宇宙神の愛のみ心を、ここで自分のものとした、

そういう朗らかな人になった、そういう意味での五井先生を、五井先生と

呼ぶ時に、我々は五井先生を通して神様へ行くんだと。


 決して私を個人崇拝するのではなくて、五井先生という人間が到りついた、

一つの極点ですよね。つまり、神界に自分の本当に朗らかな生命が

働いている、霊界にも働いている、そして、肉体の奥にも働いている、

それが燦然となって合体して、そうして貫いているものが我々を又

つき動かしている。その真理を私は五井先生という中へ入っている。

だから、お釈迦様と言うのと、キリストと言うのと、私と言うのと、

どれ呼んでも一緒なんですよ。で、五井先生と呼びたくなきゃ、他の

ものを呼んだって、結局、私の所へ連らなってやって来ます。だから、

唱名ランニングの時にね、世界人類が平和でありますようにと言ったって、

五井先生五井先生と言ったって、結局一緒なんで、どっちにも私が

生きてるしね。私が生きてるということは、神様のみ心の中に私が

入ってるし、あなたも入ってるし、あなた方皆一人一人が入って、実は、

その皆の愛の想い、皆の光の想い、それが連らなり合って、そうして

あの祈りになってるんだ。だから、往相がどうのとか、還相がどうのとかね、

そういう問題じゃないんです。往相も還相も一緒なんです。


 我々は毎晩毎晩、前に言いましたように、霊界に行って霊要素を

とって帰って来て、そうして、又日常のエネルギーにかえて、それで

毎日を生きている訳ですね。眠らないと死んじゃうというのは、霊要素

とらないと死んじゃう訳だから、そうなる訳だから。そうなるんだけれども、

しかし、それというのは、やっぱり真実の自己を本当の意味で養っていく。

 真実の自己が何処にあるかを、常に常に自分の本心に照らして、そうして

祈りの中で覚えてゆく。


 で、その為にやはり祈りというものがある訳で、そうして、世界人類が

平和でありますようにという、世界平和の祈りも、五井先生というのも、

みんな連らなって一つであって、何がどうの、こっちが良いとか悪いとか、

そういう問題ではない訳なんです。


 だから、仮に私がね、五井昌久という人間として個性としてね、

六十何年かの生涯を生きた人間としてね、あなた方が入りやすいから。

 それでもって、あのイエスの衣のすそをつかんで、長血の女が癒された

という話があるけれど、それと同じように、五井先生と呼んだことで、

何か子供の病気が直っちゃったとか、色んな話があるでしょう。五井先生と

呼ぶことで、私を思い浮かべることで、実は、皆さん、神様のそういう

極みのない愛、癒しの御手、そういうものを、光明をもらうんですよ。

 私を通してもらうんですよ。


 何故かというと、私はその時に、五井昌久という人間の想いは何もかも

消えてしまっているから、消してしまっているから、場所になっているから、

そこで五井先生というんだって私個人を呼んでいるんじゃなくて、私を通して

神様というものの愛が、直接あなた方の所に行って、光が直接あなた方の所に

行って、そして、あなた方の中にある光が又呼び合って、そうしてそれが、

天空で地上で一つになって世界を駆け巡って、平和の気を流してゆく。

 そういう仕組みになっている訳です。


 だから、往相も還相も一つ。円環なんですよ。円環の印ってやったでしょう。

 円環の印なんですよ。だから、本当に宇宙をぐるぐる廻っている。印の結び

なんです。


 だから、どういう印だろうと、どういう形をとろうとね、人間は形を

とらないとなかなか人間というのは弱いんで。何かの形をとらないと、

何かの名前を呼ばないと、何か対象を持たないとやっていけないというのが

ありましてね。

 無目的では何か出来ない。ね、平和のピース塔だってそうだし、

色んな事を目的を持ってやらなければ集まって来ない。だから、〇〇が

ピースポールを何本買ったとかどうとかという話だって、そういう事を

しないと行動が出来ないという、人間の弱さがあるし、又可愛いさもあって、

そういう事をこっちは見抜いているから、そういう風な形にして流して

ゆくんだけれども。


 しかし本当のところは、ピースポールが何十本どうのとか、どこの支部が

どうのこうのとか何だとかじゃなくって、どれだけ直接、神様のみ心が愛だ

ということを信じてね、それが自分のものとして、そうして難かしい

けれども生きてゆけるかということなんです。


 だから、そこへ行くまでにね、五井先生、五井先生辛いです、

すいませんというのは、幾ら言っても構いませんと、私言いましたでしょう。

 言わないとみんな大乗でやって行けないんですよね。例えば、

南無阿弥陀仏でも、あれは光明信仰でものすごくいい言葉なんで、

南無阿弥陀仏と世界人類が平和でありますように、あるいは主の祈り、

皆同じだけの救済力がある。同じ事なんですよ。

 だけれども、今この現代の中で、世界人類が平和でありますように

という方が分かり易いでしょう。


 今現在、私たちがこの世界の中に生きていて、人類の一人なんだし、

そして、人類が我々が平和であるように、平和に生きて行けるように

というのは、我々人間の念願なんだし、本願なんだし、しかし、その

本願をつくったもの、念願を生み育てたもの、それが何かというと、

それは神様なんですね。やっぱり。

 神様の根っこに我々は深く入って行って、そして、そこから生命の

声を出して行かないと、祈りの声を出して行かないとだめなんです。


 そういう意味で、私は、世界人類が平和でありますようにという、

あの世界平和の祈りの中にも、五井先生と言う唱名ランニングの中にも、

それは全部一つであって、どれを唱えようと唱えまいと、五井先生

というのは、どこをどうとっても五井先生に辿り着くんだということを、

この際覚えていただいて置いたら、大変良かろうと思います。